小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2008 世界が問われる力試し『岸恵子自伝』から

                                                             https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hanakokisya0701/20210620/20210620060951.jpg

「世界を覆うコロナ・ウイルスが世の中をどう変えるのか、人間の力試しが答えを出すのだろう」……これは、女優で作家、国際ジャーナリストの岸恵子さんが自伝『岸恵子自伝 卵を割らなければ、オムレツは食べられない』(岩波書店)の中で、コロナ禍に触れた一部である。政府は、当初予定していたまん延防止等重点措置から一転して北海道・岡山・広島を緊急事態宣言に追加すること転換したが、政治もまた力を試されていることの一例といっていい。

  岸さんは、自伝の終わりの方で、コロナ禍によって娘一家が住むパリに2年間も行けずにいることを書き、人間の力試しのことに筆を進めている。緒方洪庵天然痘に対し牛痘というワクチンを使ったこと、日清戦争コレラが猛威を振るった際、後藤新平が中国から帰還する兵士に大規模検疫体制を敷き、コレラが日本に入ることを防いだことも紹介し「いまのパンデミックにも、そうした傑出した人がどこかにいるのだろうか……」という願望を記している。

  中国・武漢に始まったコロナとの闘いは1年半になる。世界の国々の政治体制はそれぞれに異なり、コロナ禍に対する取り組みも当然ながら違っている。それでもリーダーの力量が感染状況に大きく影響しているということは間違いない。傑出したリーダーがいる国は、感染爆発という事態には陥っていない。では、わが日本はどうなのだろう。残念ながら「コロナ対策がアジア最大の失敗国になりつつある」という、ある大学教授の指摘が当たりつつある。その例を挙げたらきりがないのでやめておくが、3道県に対する緊急事態宣言もこれまでは政府方針を追認してきた専門家による分科会から突き上げられた結果だった。政府のあまりの無策ぶりに、分科会のメンバーたちもあきれたのだろう。

  岸さんは自伝のエピローグで、植物のミモザのことを書いている。看取ることができなかった母親の供養のためにパリからの帰郷(岸さんは24歳の時、フランスの映画監督、イヴ・シャンピと結婚して渡仏、43年間フランスを拠点に活動した)後の2001年に母親が使っていた部屋の前に植えたのだという。私も好きな花でわが家の庭にも1本ある。植木屋によれば、ミモザは根が横に広がらないから年中刈り込む必要がある。しかし、岸さんは剪定を拒み枝も葉も切らず伸ばし放題にしているから何本かの支柱が必要だ。大風の度に根が浮くミモザを見て、岸さんはパリにも日本にも根付かない自分の分身と思うのだそうだ。そのミモザとの対話とも思える結びがいい。

 《「世は、定めなきこそいみじけれ」(注・ブログ筆者の意訳=この世ははかないから素晴らしい)兼好法師の『徒然草』を気取りたいわたしを、庭のミモザがじっと見る。『コロナ?じぶんの力だめしをするときでしょ」と言わんばかりに、そこまで来ている春に先がけて、真っ黄色のつぼみがはじけて笑い出しそうである。》

  コロナ禍の時代でも、うろたえず、淡々と生きるべきことをこの結びの文章は教えてくれている。往年の映画『君の名は』のヒロイン、真知子役で知られる大女優岸さんの文章は、生き生きとしていて力強い。ノンフィクション作品『チャイコフスキー・コンクール』で大宅壮一賞を受賞したピアニスト中村紘子さんに勝るとも劣らない、豊かな表現力だと思う。天は二物を与えたのだ。

2007 狂想曲は聴きたくない おーい青空よ!

           f:id:hanakokisya0701:20210513125325j:plain

 アメリカからイギリスに移り住んだ詩人、T・S・エリオット(1888~ 1965)の『荒地』という詩は第一次大戦後のヨーロッパの荒廃を描いたものといわれるが、コロナ禍の現代にも通じる。

 4月は残酷極まる月だ

 リラの花を死んだ土から生み出し

 追憶に感情をかきまぜたり

 春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ。

 ―――――――――――

 空虚の都市

 冬の夜明け、鳶色の霧の中を

 ロンドン・ブリッジの橋の上を群衆が

 流れたのだ、あの沢山の人が、

 死がこれほど沢山の人を破滅させたとは思わなかった。

           「埋葬」(西脇順三郎訳『世界文学全集』河出書房)

  第一次世界大戦の戦死者は1600万人、戦傷者は2000万人以上と言われている。一方、コロナ禍の感染者は1億6045万人を超え、333万1604人(13日午後3時現在、ジョンズ・ホプキンス大学の集計)が亡くなっている。エリオットが「空虚の都市……死がこれほど沢山の人を破滅させたとは思わなかった」と書いたのと同様の惨状が世界に拡大しているといっていい。

 インドからの報道によると、インドを流れる大河、ガンジス川の河畔に流れ着く遺体が相次いでいるという。コロナで亡くなる人が続出して火葬場が足りなくなってしまったことや遺族が火葬用の薪を用意できないなどが背景にあると、AFP通信は伝えている。21世紀になって起きた厳しい事態。歴史は繰り返すことを再確認せざるを得なかった。

 一方、日本ではコロナ対策のためのワクチン接種に関し各地で混乱が起きている。予約のための受付電話に市民からの電話が殺到し、回線がパンク状態となり、つながらなくなってしまった。ほとんどの自治体が「早い者順」で予約を受け付けているため、そのための電話が殺到しインターネットにも接続が集中した。電話回線はつながらず、インターネットのシステムも一時受け付けができなくなった自治体が続出した。この国の政府、自治体は何をやっているのかと思う人は少なくないはずだ。高齢者が困惑する中、一部自治体トップが優先してワクチンを接種したという記事も目に付く。

 知り合いの何人かはインフルエンザワクチンを一度も接種したことがない。では、コロナのワクチンはどうするのかと聞くと、全員から「接種する」という返事があった。それだけインフルエンザワクチンに比べ、接種を希望する人の割合は高いようだ。にも、かかわらず接種券を配っただけであとは「自己責任で」とやったから、混乱が起きてしまった。政府が東京と大阪に設置するという大規模接種センターは、電話での受け付けはしないという。インターネットとラインに絞るそうだが、それができない一人暮らしの高齢者はどうしたらいいのか。……内外ともにコロナワクチンをめぐって、聴きたくない狂想曲(クラシック音楽カプリッチョ=奇想曲のことで、自由な楽曲。転じて、ある出来事について人々が大騒ぎする様子を比喩して使う)が鳴り響いている。

 今、私たちは空虚の都市に住んでいるようなものだ。コロナ禍に端を発し暗い話題が尽きない。今日は曇天。しかし、明日は天気が回復しそうだ。5月は青い空が似合う季節。空を見上げて、鬱陶しい思いを振り払おう。 

2006 時には夢見ることも…… 藤田嗣治とサティの「出会い」?

 CDでエリック・サティ(1866~1925)のピアノ曲作品集「3つのジムノペディ」(ポリドール。ピアノ/パスカル・ロジェ)を聴いた。このCDの解説は俳優で演出家の三谷礼二(1934~1991)が書いている。その中に、第18回東京五輪(1964年)の大会シンボルマーク(エンブレムのこと)を制作したグラフィックデザイナー亀倉雄策(1915~1997)に関する面白いエピソードが盛り込まれていた。

  東京大会のシンボルマークのことは以前のブログで書いている。ここでは詳細は割愛するが、白地に赤い太陽と黄金の五輪マークを組み合わせたものだ。三谷によると、亀倉は雑誌に画家の藤田嗣治とサティにまつわる一文を寄せたことがある。亀倉は藤田が「屋根の上の牛」という有名な酒場のピアノ弾きだった貧乏な作曲家サティにチップをあげたというエピソードを書いたのだが、専門家から間違いだと指摘されたそうだ。それでも亀倉は「この随筆を音楽史どおりに直さない方がよいと思う」と続けたというのだ。

  調べてみると、亀倉のこの文章は1981年3月10日発行の音楽雑誌『音楽の手帖 サティ』(青土社)に寄稿した「「サティにチップをはずんだ嗣治」という一文だった。藤田は1913年からパリに住み、1920年代にはエコールド・パリ(モンマルトルやモンパルナスで創作活動をした外国人画家たちのこと)の一人として画壇の寵児となる。音楽界の異端児といわれたサティと藤田に接点があったのかどうかは分からない。しかし、亀倉は2人に接点があったら面白いと思い、随筆に盛り込んだのかもしれない。

  これについて三谷は「音楽史は、時に音楽について夢見るためのものであって、必ずしも音楽の正確な事実について証明するだけのものではない。サティの実像を知ることも楽しいが、サティの実像について夢見ることはもっと楽しい」と解説に書いている。サティの音楽はいわゆる「家具の音楽」「環境音楽」の先駆といわれ、演奏会場で演奏されるより生活空間の中でBGMのように流されるのが一番合っているそうだ。コロナ禍の日々。繰り返しが多いメロディは、ささくれ立つ気持ちを抑えてくれるようだ。

  このCDには入っていないが、『クラシックの快楽』(洋泉社)によると、1893年作曲の『ヴェクサシオン』というピアノ曲は、楽譜がわずか1ページの小品だ。ところが、最初の部分に何とこれを840回繰り返せという指示が書かれているという。その通りに演奏すると18時間以上かかってしまう。1963年にブロードウェイの劇場でこの作品の初演があったが、これを報じた新聞記事には以下のような光景が描かれていた。サティの世界はユニークなのだ。

《梨やパイを食べている聴衆もいた。本を読んだり手紙を書いたりしている者もあれば、写真をとっている者もあり、人々は出たりはいったりしていた。時々単調さを破るのは弾き間違いのおかしな音であった。(中略)夜が明けるころには街の騒音がホールに飛び込んできた」(ちなみに、この演奏会の入場料は5ドルであり、20分我慢して聴く毎に5セント、全部聴き通すとさらに20セントの「ごほうび」が与えられた)》

1398 カッサンドルと亀倉雄策と 五輪のエンブレムをめぐって 

2005「命に大小はない」 ワクチン提供に戸惑う五輪代表

                             

「進むも地獄、退くも地獄」という言葉がある。私は好きではない。「前門の虎後門の狼」も同じだ。どっちを選んでもイバラの道なのだ。これでは逃げ場がない、出口がないではないか。せめてどちらかに行けば少しは展望が開けてほしいと思うのが人情だ。だが、7月に開会が迫った東京五輪は残念ながらこの言葉が似合ってしまうのだ。

  国際オリンピック委員会(IOC)は、東京五輪に参加する各国の選手団に米ファイザー社製新型コロナウイルスワクチンを日本国民とは別枠で提供することを突然発表した。4月に菅首相が訪米しファイザー社のCEOと電話会談した際、ファイザー側から提供の申し出があったというが、今頃の発表は裏がありそうで私は眉に唾をして首相の話を聞いた。

  最近「アスリートファスト」という言葉をよく耳にする。スポーツ競技に臨む選手たちが最高の力を発揮するために、整えた環境を提供しようということだろうか。コロナワクチンもその一環なのかもしれない。しかし、日本のワクチン接種は後進国的状況で、全く進んでいないから、五輪選手へのワクチン提供に異論や批判が出るのは仕方がない。

 9日に国立競技場で行われる陸上のテスト大会を控え、8日会見に臨んだ女子1万メートル代表の新谷仁美積水化学)の言葉は、選手たちの反応を象徴しているのではないか。報道によると、新谷は以下のように語ったという。

 「アスリートが特別というような形で聞こえてしまっているのが非常に残念。命の大きい、小さいはないので、五輪選手だけが優先されるのはおかしな話だと思う」

(自身が接種を受けるかどうか)「自分が受けないことで他人に危険が及ぶのであれば受けます。ただ、副反応がどう出るか分からないので恐怖もあります」  

 新谷らと同席した男子100メートル前日本記録保持者の桐生祥秀日本生命)は「どういう発言をするべきか、迷っている自分がいる。自分の意思をもって発言できるようにしたい」と語ったという。桐生の思いもまた、多くの選手が持つ戸惑いではないか。

  1940年の東京五輪は、日中戦争が泥沼化する中で中止に追い込まれた。大会中止に積極的に動いたのは副島道正というIOC委員だった。副島は中止が決まった後、IOC会長に書簡を送った。このような人物が現代日本にはいない。

《日本中で最も評判の悪い男になる危険をおかして、私は政府が東京、札幌(1940年2月に、夏の五輪前に開催予定だった)両オリンピック大会の中止を組織委員会に命じるよう働きかけました……組織委員会と報道陣はひどく憤慨していましたが、私は自分の取った行動を後悔していません。なぜなら、日本の大会返上がさらに6カ月も遅れれば、どの国もオリンピックを開催できなくなるからです》(橋本一夫『幻の東京オリンピック講談社学術文庫

2004 酒がうまいのは二重の不幸か 山頭火は路上飲みの大先輩?

        f:id:hanakokisya0701:20210507150007j:plain

 コロナ禍によって緊急事態宣言やまん延防止重点措置が出ている中で、酒の路上飲みがニュースになっている。酒がうまいから居酒屋が営業していなくとも、集団で路上飲みをしてしまうのだろうか。民俗学柳田國男(1875~1962)は「酒の味が非常に好くなったことは、2通りに不幸でありました。その1つは飲むまじき時刻にも男に酒を飲ませ、その2には女が重要なる職業(後述のように当初酒づくりは女性の専業だったという)を失ったのであります」(『定本 柳田國男集 第8巻』)と書いている。酒がうまくなったことが不幸と言えるかどうかは別にして、酒がまずかったら居酒屋をはじめとするアルコールを飲ませる商売は成り立たないし、ましてや路上飲みは起きないだろう。

  定本の「女性と民間傳承」の中で、柳田は「刀自の職業」と「酒の歴史」という題で、日本の酒づくりについて短く触れている。ここには以下のような趣旨(ブログ筆者の意訳)のことが書かれている。

《日本の酒の歴史をたどると、もともとは酒の生産は女性の専業だった。それ故に男子は女に酌をしてもらわないと、酒を飲んだような気持がしない。醸すという言葉はカムから来ており、大昔は私たちもポリネシア人がカヴァ(胡椒科の植物の根を干して粉にして水に溶かしたもの)をつくるように、沖縄の神酒のように、清らかな少女が噛んで吐き出したものを酒として用いていた。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女しか酒をつくることはできなかった。

 酒が普通の飲み物と違って見られたのは、味よりも飲むと力になり、熱になり、顔の色つやになり、眼の光になるという効果があったからだ。昔の人は飲む場合が決まっていた。寝酒や晩酌がされるようになったのは、そう古いことではない。遊興快楽のために飲むことは古来の日本風ではなかった。(以下、冒頭の2通りの不幸に続く)灘伊丹の酒倉でも今もここで働く人々をトージと呼び(杜氏などというつまらない説があるが)、これは単に女性(刀自)ということであり、酒を女性がつくっていた名残なのだ。

 酒は厳粛な条件で飲まれてきた。正月、節句、祝儀の場合でも神を祀った故に酒を飲んだ。今日のように放縦にめいめいがいつでもがぶ飲みしながら、これが日本魂の源泉で国が進化したかのように言うのは史学に対する反逆である。女性が忍従して夫に好きな酒を飲ませるのは勝手だが、子どものためには争う必要がある。酒を私経済の必要品のごとく、表に出る者(ここでは夫のこと)だけが家計の半分を酒に費やし、(生活が苦しいという)悩みを幼い子どもに及ぼさないほど私たちの生活は余裕があるのか。これがこの千年の常識だったというのは大嘘である》

  柳田に言わせれば、路上飲みといった今日の生態は酒の味がよくなったための「不幸・悪癖」ということになるのかもしれない。一方、歴史学者和歌森太郎(1915~1977)は「しばしば『酒は気違い水』だといわれるけれども、そんなものではない。むしろ、現代のように、国際的にも、国内的にも、種々の意味での狂気がきわだっている世の中にあって、これを鎮めさせ、お互いの人間を取りもどさせるのに有効な飲みものだといってよかろう」(『酒が語る日本史』河出書房新社)と、酒の効用を評価している。2人の大先生の文章から、私は「酒はほどほどに」という思いを強くしているのだが……。

  酔うてはこほろぎと寝てゐたよ さすらいの俳人種田山頭火(1882~1940)の句。酒が大好きだった山頭火は、路上飲みの大先輩(?)だったのか。

2003 ああ、不元気日本! 続くメーカーの身売りと譲渡

           f:id:hanakokisya0701:20210501134148j:plain

 かつて「made in Japan」は、品質に優れた日本製品の代名詞だった。そんな言葉もいつの間にかほとんど聞かれなくなった。日本のメーカーの元気のなさばかりが目に付く昨今だ。音響メーカー「オンキヨー」は、主力のスピーカーやアンプなどの「ホームAV事業」を譲渡するためシャープなど2社と協議を始めた。大手電機メーカー「パナソニック」は、テレビの生産のかなりの部分を中国家電大手のTCL集団に委託する方向で協議をしている――という2本の記事も、そうした日本メーカーの不振を象徴しているように映るのだ。

 私の部屋にあるオーディオのうちスピーカーとアンプ、CDプレーヤーの一つ(もう一つはかつての音響トップメーカー、日本ビクター製の年代物)はともにオンキヨー製。さらに居間の55型テレビはパナソニック製だから、これらの記事を読んで何とも複雑で寂しい気持ちになった。テレビの方は2年半前、日立のプラズマテレビから別のメーカーのものに買い替えた。しかし、このメーカーのものは不調(途中で電源が切れたり、録画ができなかったりと、エラーが多発した)が目立ち、基盤交換やテレビ本体を取り替えるなどしても問題が解決しなかったため、パナソニック製に交換してもらった経緯がある。

 一方のオンキヨー製品はかつての日本ビクター製のCDプレーヤーとともに、現在も利用中で私の部屋で一定の位置を占めている。戦後の一時期黄金時代を築いたオーディオ業界だが、それが長くは続かなかった。多くの有名メーカーが身売りや事業撤退を繰り返し、ついに「オンキヨーよ!お前もか」という寂しい状況に至ってしまった。時代の流れなのか経営上の問題か、経済の門外漢の私にはその事情はよく分からない。

「ものづくり日本」というキャッチコピーがあった。輸出立国日本にとっていい製品をつくることが目標であり、経営者が率先し技術者、職人、営業、事務職も含め各社とも全社一丸となったはずだった。だが、いつのころからか、その精神が薄れてしまったように思える。たぶんバブル経済が崩壊したころからだっただろうか。これ以降、メーカーの不祥事や身売りが続出しているからだ。シャープは台湾メーカーの傘下となり、東芝も経営上の失態で躓いた。そしてパナソニックのテレビ部門の縮小というニュースは、不元気日本が続いていることを示しているようだ。

 アメリカの社会学エズラ・ヴォーゲル(1930~2020)は著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題・Japan as Number One: Lessons for America)の中で、高度経済成長を支えた日本的経営を評価した。その要因として日本人の高い学習意欲、読書習慣があることを指摘した。しかし、今や日本の書店数は減る一方で、書店調査会社アルメディアが2020年6月に発表した書店数は2020年5月1日時点で1万1024店、総売場面積は122万2302坪、書店数のうち売場面積を持つ店舗に限ると9762店となり、1万店を割り込んでしまった。20年前に比べると、ほぼ半減したという。
 
 アマゾンなど通販の普及や大型店舗の展開などの背景があるものの、書店の激減は日本人の本離れが進んでいることと無関係ではない。それが日本全体の衰退につながっているのかもしれない。新型コロナワクチンの開発・接種でも日本はかなり立ち遅れてしまった。こんな日本に誰がした……。

 関連ブログ↓

 1679「本を読むことはひとりぼっちではない」 苦闘する書店への応援メッセージ

 10631 壊れたCDプレーヤー ものづくりへの哲学

 1723 職人気質が懐かしい どこへ行った厳格な品質管理

 1601つまらないことが多すぎる 昨今の日本

 894 幸せとは ノルウェー・福井・ブータンの共通項は

2002 五輪が歓迎される時代の終焉 竹ヤリ精神で乗り切れるのか

      f:id:hanakokisya0701:20210429174032j:plain

 BS放送で映画『グラディエーター』(ローマ帝国時代の「剣闘士」のこと)を見た。以前にも見たことがある、ローマのコロッセウム(円形劇場=闘技場)で闘う剣闘士を描いた大作だ。既にコロッセウムのことを書いたブログでも紹介しているのでここではその内容は省くが、5万人のローマ市民(観衆)が詰めかけた中での剣闘士の闘いは迫力に満ちている。それに比べ「無観客開催」となった現代のプロ野球、サッカーJリーグは寂しい限りで、コロナ禍の深刻さはスポーツ界にとっても大きな歴史として残るに違いない。
 
 スポーツ界だけでなく日本社会に大きな関心を集めているのは、1年延期となり7月に開会が迫った東京五輪ではないか。この五輪について、大会組織委の橋本聖子会長が「無観客の覚悟はある」と語ったことが今朝(29日)の朝刊に出ていた。これまで橋本会長は「無観客開催はあり得ない」としていただけに、トーンが変ったという印象を持つ。既に組織委員会は海外からの観客受け入れは断念しており、国内の観客数の上限については6月まで先送りになったことも報じられている。

 人には立場がある。それぞれの言い分もあるだろう。それを承知の上でいえば、コロナ禍の収束が見通せない中で五輪を開催するのは「無謀」といっていい。日本に比べワクチンの接種が進んでいるインドはこのところ1日に35万人が感染するという「感染爆発」の状況を呈しており、五輪どころではないはずだ。同様にワクチン接種が進んでいるアメリカやヨーロッパ各国でも、予断が許されない事態が続いている。

 日本でも変異種による感染が増加しており、ワクチン接種率は29日の時点で全人口のわずか1・1%にすぎない。これは経済協力開発機構OECD)加盟37カ国中最下位。アジアでは中国、インド、シンガポール、韓国の後塵を拝しており、ワクチン接種によって日本の集団免疫ができるのは3・8年先との試算もあり、政治の責任は極めて重いといえる。

 IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は先日の記者会見で「緊急事態宣言と五輪は無関係」と語った。さらに28日の5者協議(バッハ氏、パーソンズ国際パラリンピック委員会会長、橋本氏、小池東京都知事、丸川五輪担当相)でバッハ氏は「日本社会は連帯感を持って(コロナ禍に)しなやかに対応しており、称賛している」「(日本人は」精神的な粘り強さと、へこたれない精神を持っている。それは歴史が証明しており、逆境を乗り越え五輪を開催することも可能だろう」と述べたそうだ。

「へこたれない精神」という精神論で、コロナに打ち勝つことができると思っている言葉だと私は受け止めた。「戦争中の『竹槍精神』(連合軍に対し、老若男女まで全国民が竹ヤリで戦って本土を防衛するという軍部の主張)を思い出したよ」と、ラジオ体操仲間の大先輩が話してくれた。開催都市への立候補を辞退するケースも相次いでいる。どう見ても、オリンピックが歓迎される時代は終わったといっていい。

 追記 東京五輪パラリンピック、海外各国「中止・延期」7割超   

 新聞通信調査会(東京)が2020年12月~2021年1月にアメリカ、フランス、中国、韓国、タイの5カ国で実施した「第7回諸外国における対日メディア世論調査」(各国とも約1000人が回答)で注目すべき結果が出た。質問項目の中で「東京五輪パラリンピックの開催」について「中止すべき」と「さらに延期すべき」の合計がタイ95・6%、韓国94・7%、中国82・1%、アメリカ74・4%、フランス70・6%――になったというのだ。同調査会はこの結果について「新型コロナウイルス感染拡大に対する危機感が五輪・パラリンピック開催への消極的な姿勢に表れているようだ」と分析している。同調査会は、昨年11月、日本でも同じ質問をした際「中止・延期すべき」が71・9%という結果が出ている。内外とも五輪に対する人々の視線は冷ややかといえよう。


1868 コロッセウムは何を語るのか 人影なき世界遺産

2001 10年以上前にパンデミックを警告「こちらからウイルスを見つけに行け」と

          f:id:hanakokisya0701:20210426072322j:plain

 10年以上も前に、新型コロナ感染症の出現を予言するような記事が書かれていた。当時、深く考えずに読み流した。感度が鈍かったのは、私だけではないようだ。

《はたして人類を襲う『次のパンデミック』は豚インフルエンザなのか、それとも鳥インフルエンザなのか。それはまだまだ何も分かっていない。HIV(ヒト免疫不全ウイルス~いわゆるエイズ後天性免疫不全症候群))に似たサル由来のレトロウイルスや、東南アジアのジャングルに生息するコウモリ由来の致死性の高いウイルスが蔓延する可能性もある。(中略)ヒトが動物の病原体(豚インフルエンザも含む)に感染する危険性はますます高まっている。安全面で問題がある家畜飼養慣習の拡大や地球温暖化などの要因も、リスクを悪いほうに高めている可能性がある。》

 これは、講談社発行の月刊誌「クーリエ・ジャポン」2009年7月号(2016年4月号で紙の雑誌は休刊、電子版に移行)に掲載された「新型インフルエンザはどうすれば防げたのか?」(筆者はイギリスの医学史家・ジャーナリストのマーク・ホニグスバウム氏で、パンデミックに関する著作がある)という記事の一部だ。同誌は外国メディアの記事を翻訳して日本人向けに紹介しており、この記事はイギリスの政治・ビジネス雑誌「プロスペクト・マガジン」から転載した。

 この記事によると、感染症の専門家の間ではパンデミック感染症の世界的流行)がいつ発生してもおかしくない状況だといわれていた。記事は続いて近世の感染症の大流行の歴史を振り返り、第一次大戦末期に世界で5000万人を超える死者を出たスペイン風邪(毒性の強いインフルエンザ)も、襲来をだれもが予測できなかったパンデミックスだったとしている。この後、冒頭の文節になるのだが、「コウモリ由来の致死性の高いウイルスが蔓延する可能性もある」という記述は、結果的に今回の新型コロナウイルスの出現を予測したものと言える。

 この記事は続いて、グーグルなどIT企業による携帯端末を使った感染予防の取り組みなどを紹介している。そのうえで、これら最新技術を利用したアプローチの問題点は「受動的」なところだと指摘し、「ウイルスが襲ってくるのを待つのではなく、こちらからウイルスを見つけにいけばいい」「アジアやアフリカのジャングルを旅してまだヒトに感染していない動物ウイルスのデータを集める作業が重要」などと、能動的な活動の必要性を提言している。

 特にWHO(世界保健機関)の働きが不十分であることを指摘し、WHOがウイルス探査をしっかりやっていれば、エイズやSARSの流行を回避できた可能性があるとも書いている。記事は最後に「WHOでパンデミック発生を監視している職員は、インターネットに費やす時間を減らし、ジャングルで新種の感染症を探索すべきだ。そうしなければ、次のパンデミックが発生したとき、私たちは20世紀初頭の(スペイン風邪当時の)人々と同じような対処しかできないだろう」と警告している。

 新型コロナウイルスによる感染症が中国で流行を始めた当時、エチオピア出身で、中国寄りといわれているテドロスWHO事務局長は、2020年2月24日、3月2日、同5日の記者会見でパンデミックを否定、世界各国が協調して取り組めば封じ込めは可能との見解を表明した。3月11日になってようやくパンデミックと認めたという経緯がある。こうしたWHOの後手に回った動きが、スペイン風邪以来のパンデミックを招来してしまったと言っても過言ではないだろう。

 ことしになって中国・武漢に入ったWHO調査団の調査も当初中国側が受け入れに消極的だった。動物から人間への感染が最も可能性が高いとしつつ、武漢の中国政府のウイルス研究所からの流出説はほぼ否定した報告書に対し、日米英韓など14カ国が調査結果は満足のいくものではなかったと批判したことでも分かる通り、WHOの信頼は失ってしまったといえる。

 このパンデミックを警告する記事が出てから約10年後、それが現実になってしまった。「今求められているのは、こちらからウイルスを見つけに行くことだ」という提言は生かされなかった。素人の私でもこの提言は今後に生かすべき人類共通のテーマではないかと思う。「攻撃は最大の防御なり」(古代中国の軍略家・孫子の兵法)なのだ。世界各国は相変わらず軍事費に巨額を投入し、軍備拡張競争を続けている。コロナ禍は軍拡よりも大事なことがあることを示しているはずで、指導者は目を覚ますべき時ではないか。

2000 コロナ禍で沈んだ社会 ブログ「2000回」に寄せて

      https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hanakokisya0701/20210531/20210531150543.jpg

 このブログのタイトルのように私は毎日、遊歩道の小径をのんびりと散歩しています。その折々に様々なことが頭に浮かび、現代の世相のことを考えるのです。この世界は、どこへ行くのかと……。その想念を文字にしたのがこのブログです。2006年9月からスタートしたこのブログは、1991回までは『小径を行く』というタイトルでした。1992回からは事情により『新・小径を行く』と改め、今回で2000回目を迎えました。

 きょうは、私が住む千葉市の天気は快晴です。花粉の季節も終わり、五月晴れを前倒ししたような爽やかな日和だといっていいでしょう。300ミリの望遠レンズが付いたカメラを持ち出し、シャッターを押してみました。今回は2枚だけ写真を載せようと思います。最初の1枚は調整池の遊歩道斜面に咲いた「桐の花」で、2枚目は私の家の満開になった「ナニワイバラ(難波茨)」です。バラ、桐ともに俳句では夏の季語になっています。今年は桜の開花がかなり早かったのですが、そのほかの木々もやはり前倒しで花の季節を迎えているようです。

 歳時記を見ますと、バラは5月ごろが最盛期で、桐の開花は5月上旬が普通だそうです。「あを空を時の過ぎゆく桐の花」林徹(はやし てつ)という、医者で俳人だった人の句です。きょうの青空と調整池の桐の花を描いたような句だと思うのです。桐の木は遊歩道脇の斜面に2本だけ残っているのですが、コロナ禍を忘れさせてくれる大きく爽やかな樹木だといえるでしょう。

 桐の木は成長が早く、しかも材質がいいため、昔から箪笥の材料に使われていました。私の生家の畑にも桐が何本か植えられていて、姉たちが結婚するとき母はその木で嫁入り用の箪笥を作ってもらい、持たせたことを覚えています。今はそうした習慣は、ほとんどなくなってしまったようです。2015年の映画『おかあさんの木』(鈴木京香主演)も、桐の木が大きな役割を持っていたことを思い出しました。

 夫を早くに病気で亡くした母親(鈴木京香)が主人公です。この家には7人の息子たちがいましたが、次々に太平洋戦争に召集されます。母親は息子たちが出征する度に無事を祈って桐の木を植えるのです。しかし、6人は戦死してしまいます。一時行方不明だった5男がただひとり引き揚げてきたときには、母親は桐の木の根元で倒れ、帰らぬ人になっていたという、悲しいストーリーでした。この映画では桐の木は悲劇の象徴として扱われましたが、本来の桐の木は青い空の下が似合う、希望の木ではないかと私は思うのです。

 この1年、何といってもコロナ禍が継続性のある大きなニュースになっています。ある報道機関はコロナ禍を21世紀最大のニュースと位置付け、取材をしていると聞きました。この新型感染症は、日本だけでなく全世界の人々に多大な影響を与え続けているのです。日本ではPCR検査で陽性になったにもかかわらず入院する病院が見つからず、自宅で待機していた人が相次いで亡くなったことが報じられています。これはまさに「人災」といっていいでしょう。

 東京、大阪、兵庫、京都の4都府県に3度目の緊急事態宣言(25日~5月11日まで)が出されることになりましたが、政府のやっていることは後手に回っているとしか言いようがありません。ワクチンの接種も、遅れに遅れています。先行接種が進んでいるはずの医療関係者でも接種した割合は1回目が約25%、2回目となると15%(19日の政府発表)ということですから、それ以外の私たちの接種はかなり先になりそうです。日本政府はこの1年、何をやってきたのでしょうか。

 そんな中で、東京五輪聖火リレーが進んでいます。香川県聖火リレーのための交通整理をしていた警察官がコロナに感染したというニュースもありました。どこで感染したのかは不明ですが、変異種による感染拡大は不気味に思えてなりません。IOC国際オリンピック委員会)のバッハ会長が理事会後の記者会見で「(東京などの)緊急事態宣言は、ゴールデンウイークに向けて、日本政府がまん延防止のために行う事前の対策だと理解している。東京五輪とは関係がない」と語ったそうです。そうでしょうか。菅首相に五輪中止の選択肢はないのでしょうか。このような地球規模の災厄が続いている中で、五輪開催は可能なのでしょうか。

 昨年からことしにかけて私は、行動半径が狭い日常を送っています。2021年も間もなく4カ月が過ぎようとしています。残り8カ月で劇的にコロナ禍に沈んだ社会が変わるのでしょうか。変わると信じたいのですが、どうでしょうか。青空の下で花を全開させた桐の木に、一日も早く普通の生活に戻ることができるよう願いを託したい、そんな気持ちでいっぱいです。

 追記 ブログをこのように長く、しかも2000回まで続けることができるとは、考えてもいませんでした。お付き合いくださった皆様に感謝しております。コロナ禍が続きますが、焦らず、気長に世の中の動きを見続けたいと思います。今後ともよろしくお願いします。遊歩

    f:id:hanakokisya0701:20210423142821j:plain

1370 映画『おかあさんの木』 忘れてはならない戦争の不条理

1999 あるジャーナリストの短い生涯『そして待つことが始まった 京都 横浜 カンボジア』を読む

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hanakokisya0701/20210426/20210426213406.jpg https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hanakokisya0701/20210421/20210421152730.jpg
 20世紀は「戦争の世紀」といわれた。第1次に続く第2次世界大戦終結後も、世界の戦火は消えない。このうちアジアが戦場になったベトナム戦争カンボジア紛争(内戦)では多くの記者たちが命を落とした。この中に共同通信社の石山幸基記者も入っていた。石山記者はカンボジア紛争当時、ポルポト派が支配する地区(いわゆる解放区)に取材に入ったまま消息を絶ち、家族の元へ戻ることはなかった。石山記者の妻、陽子さんが出版した『そして待つことが始まった 京都 横浜 カンボジア』(養徳社)は、戦場記者の妻の視点で描いた、長い家族の物語である。21世紀の現代、この世界は戦争に加え、目に見えない新型コロナ感染症との闘いに明け暮れている。人類にとって「戦い~そして闘い」は宿命なのだと思わざるを得ない。

 この本は、石山記者と陽子さんの出会いから結婚、消息不明になった夫の手がかりを求めての3回にわたるカンボジア調査、カンボジア紛争で犠牲になった各国記者たちの慰霊の催しなどが盛り込まれ、戦争への疑問やジャーナリズムのあり方が平易な文章で記されている。私は石山記者と同じ福島県出身だが、面識はない。当時、私は地方支局に勤務し、石山記者がカンボジアで消息を絶ったことを聞いて、支局の先輩らと共に無事を願ったことを覚えている。

 石山記者は1972年秋、1年の予定でカンボジアの首都プノンペンに単身赴任し、カンボジア紛争を取材した。任期が終える際、当時のポルポト派(クメール・ルージュ)の支配地区に取材に入り、消息を絶つ。1973年10月のことだった。以来、陽子夫人ら家族には「待つことが始まった」。それはもちろん、生きて戻ってくることを信じての日々だった……。

 カンボジアの石山記者からは陽子さんあてに数多くの手紙が届いた。その最後の手紙には以下のようなことが書かれていた。ジャーナリストとしての思いがにじみ出た手紙だった。

《私はこのごろ考えるのですが、ジャーナリストを自分の職業としてえらんだことはいいことだったのです。ジャーナリストとは、歴史の現場労働者であって、その仕事はオレにむいています。歴史家という仕事はオレにはできないでしょう。かといってほんとうの肉体労働者になれたわけでもないでしょう。その中間にあるもの、そして、それをプロフェッショナルなものとしてひきうけていくジャーナリスという職業に1年のプノンペン滞在ののち、あらためて、愛着を覚えます。》

 この後、石山記者はどのような最期を迎えたのだろう。陽子さんも参加した共同通信社カンボジアの現地調査(81年7月)で、石山記者が亡くなるのを看取ったという現地の女性(シェム・ボンさん)が見つかる。この女性の証言で、石山記者は1974年1月20日ごろプノンペンから北西約40キロの古都ウドンから西に6キロのアンサンダン村からさらに奥のクチュオールという山のジャングルにあるクメール・ルージュの支配地区でマラリアに腸チフスを併発して亡くなったことが判明する。
 
 その後、2008年1月と2009年1月の2回にわたってクチュオール山中で亡くなった場所と埋葬場所探しも行われ、陽子さんの36年に及ぶ「待つ」時間が終わる。それは途方もなく長い時間だったのか、あるいはそうではなかったのか、この答えは陽子さんにしか分からない。

 石山記者を看取ったというシェム・ボンさんとの出会いはこの本の根幹ともいえる部分で、奇跡のように私には思えた。通訳の手が虫に刺され、石山記者の実母が慌てて薬を取り出す。その姿をたまたまボンさんが見ていて、自分が看取った外国人とそっくりだと気付き、調査団に名乗り出たのだ。ボンさんはウドンの市に行くため、朝3時に起きて、隣村からアンサンダン村まで来ていたのだという。石山記者の霊がボンさんと家族を引き合わせたかのようだ。

 ボンさんと出会ったあと、陽子さんらはアンコールワットへと向かった。その途中、夕闇の中で蛍の乱舞を見る場面の表現が美しく、心に残った。

《戦争は終わったものの、こんな暗闇はとても危険なのだという。あぁ、何とか早くどこでもいいから人にいるところまで走って!車の中で前後左右に飛び跳ねるように揺られながら祈るような思いだった。すると、なんだろう、まわりにまばゆい光がさし、見るとあたり一面、空に達するかと思うほどいっぱいの蛍が乱舞していた。私は一瞬その美しさに目を奪われた。生まれて初めて見る蛍の圧倒的な光だった。》

 カンボジアはかつて「戦争特派員の墓場」といわれ、多くの記者が命を落とした。その一人ひとりに家族があり、友人があり、恋人がいた。そうした最愛の人を失った人々の悲嘆は私の想像を超える。喪失感と絶望感……と。この本にはその中のひとりの家族の姿が克明に描かれ、私は31歳という若さでカンボジアの土になった先輩記者の無念を思った。

 石山記者の長男は学生時代、私が勤務していた共同通信社の職場でアルバイトをしていた。その後NHKに入り、社会部を経て国際部の記者として活動している。父親のDNAなのだろうか。時々、ニュース解説のためテレビに出演する。その顔を見て私は「父親ができなかった活動を存分にやってほしい」と、ひそかにエールを送っている。

 この本は、これからジャーナリストを目指す若い人たちに読んでほしい1冊だ。石山記者はジャーナリズムについて、短いながら示唆に富む言葉を残している。

《ひとりの人が生きる。ふたりの人間がいきる。そして3人の4人の5人のとかぞえていって、数万とか数千万とかの人間がいきていて、その集合体が、ある土地の上にあるわけである。その集合にとってジャーナリズムとはなにか。やはり、過程にすぎないのだ。目的ではない。彼らひとりひとりが死ぬまでの人生をおくる過程において、より人間らしくいきるための手段として情報を手に入れ、言葉の矢を射る。そのためにジャーナリズムはある。》

 追記 サブタイトルにある「京都、横浜、カンボジア」はどんな意味があるのだろう。陽子さんが生まれ育ち、2人が出会ったのが京都であり、石山記者の消息が不明になった後、陽子さんと2人の子どもが石山記者の実母とともに暮らしたのが横浜だった。そしてカンボジアは言うまでもない。私も偶然、京都、横浜には縁が深く、カンボジアには若い友人がいる。

 関連ブログ↓

 1127 ベトナム・カンボジアの旅(1) アンコールワットへの夢果たせず死んだ記者

 1128 ベトナム・カンボジアの旅(2)父親が無念の死・友人の話

 520 遥かなりラオス(1) 山岳地帯へ・その1

 893 「涙を喪失した少年」よ 一度だけ見た母の号泣