小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1128 ベトナム・カンボジアの旅(2) 父親が無念の死・友人の話

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 アンコールワットは、あらためて詳しく紹介する必要がないほど日本でもよく知られている。私の場合、平泉や富士山が登録される以前は「世界文化遺産」と聞いて思い浮かべたのはアンコールワットだった。

 12世紀前半、当時のスーリヤヴァルマン2世によってヒンズー教の寺院として建立されたこの遺跡は、建築様式の美しさから人類の無限の力を感じさせる。 世界遺産に登録された遺跡群はこのほか、アンコールトム、タ・ブローム寺院、バンテアイ・スレイ、ロリュオスと少なくない。どこも見る価値がある。

 しかし、クメールルージュによって破壊されたり、仏像の首を持ち去られたりした遺跡は随所に残っていた。カンボジアが平和になり、ベトナムなどから戻ったそうした貴重な石像類は首都プノンペンシェムリアップ国立博物館に収蔵されている。

 ところで、今回はカンボジアの内戦当時に生まれ、父親をポル・ポト政権によって虐殺されたカンボジアの友人の話を紹介する。その前に今回のカンボジアの旅をガイドしてくれた男性の話を少し。そのガイドは30歳代半ばのパンニャヴットさんといい、185センチという長身の好青年だった。

 彼の身の上話によると、僧侶だった父親はポル・ポト政権時代に母親と強制結婚をさせられた。運よく処刑は免れたが、農村に下方され、彼が生まれた。その後、成長したパンニャヴットさんはシェムリアップに出て、日本人篤志家による日本語学校で日本語を学び、さらにガイドの国家資格を取得したという。(日本人篤志家の日本語学校の話は次回3回目に書く)

 パンニャヴットさん同様、ポル・ポト時代、強制結婚をした両親から生まれたのが私の友人でプノンペン在住のモニラ・ブティさんだ。1975年から79年にかけ政権を握ったポル・ポト派は市民の少子化を非難し、見ず知らずの若者同士を強制結婚させたが、モニラさんの両親も国の命令で一緒になったという。

 その一方で、ポル・ポト派は知識階級の人々を次々に逮捕し、虐殺した。中国の文化大革命をまねたようなおぞましい政策である。 知らない同士が結婚した両親だが、彼が生まれるとすぐに教師だった父親は知識階級として殺され、20歳という若さで母親は未亡人になった。母親は農業で汗を流し、さらに縫物をやって生計を立てた。息子が勉学に優れていることを知るとプノンペンに出て、市場で身を粉にして働き、息子を大学まで進学させた。その間住んだのはスラム街だったという。

 こうして大学を出たモニラさんは、千葉大(理学部、その後大学院)に留学し地下水の研究に没頭する。日本の援助などで、カンボジアに多くの井戸が掘られたが、その井戸がヒ素などの毒物に汚染されていることを知ったからだ。 留学生活は7年半に及んだ。その間通訳のアルバイトをしながら母親に仕送りを欠かさなかった。

 カンボジアに帰国したモニラさんは、日本企業のカンボジア支店で働いている。同時に地下水の汚染問題の研究を続けているはずだ。モニラさんは「将来政治家になりたい」という夢を持つ。父親はじめ多くの同胞を死に陥れた恐怖政治を2度とカンボジアに戻したくない、多くの国民が貧困にあえぐカンボジアを少しでも豊かにしたい―という二重の思いが背景にあることを私は知っている。

 今回のベトナムカンボジア訪問でプノンペンに行く予定はなく、彼との再会はかなわなかった。しかし、シェムリアップ・ガイドのパンニャヴットさんの顔を見ていたら、彼に再会したような嬉しさを感じ、寂しさはなかったことを記しておきたい。

 

3回目へ

 

トップの写真は夕闇の浮かび上がるシェムリアップ空港 以下、アンコールワットとその周辺の遺跡群の写真。修理中が目立つ。

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