小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

893 「涙を喪失した少年」よ 一度だけ見た母の号泣

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 他の人のブログを見ていると、その人の個性がよく出ていて面白いものが少なくない。「文は人なり」といい、ブログの文章からも筆者の人間性、品格が伝わってくるのだ。

 このブログの「マイリンク集」の一番下の「冬尋坊日記」の11月6日分「涙を喪失した少年」を読んで、考えることが多かった。 この少年のようにことしは深い悲しみと恐怖を味わい、涙が枯れ果ててしまった子どもたちが多数いるだろう。そうした子どもたちの前途は限りなく険しい。

「涙を喪失した少年」を読んで、母のことを思い出した。太平洋戦争末期、私の父は召集されて海軍2等兵になり、横須賀からフィリピンに行き、クラーク地区での米軍との攻防で戦死した。生還した人は少なく、どんな状況で父たちが戦い、死んだのか伝えてくれる人はいなかった。

 後に私は厚生省援護局(現在の厚生労働省)の倉庫に保管されていた、父と同じ部隊の生還者による戦闘報告書を見つけ、おぼろげに現地の状況を理解した。 報告書には、当時の米軍は先頭集団に黒人兵を配置、父たちの部隊と戦わせ、その後方から砲弾を撃ち込んで、日本軍と黒人部隊双方を倒して前進したと書かれていた。

 ベトナム戦争でも同じ戦法が取られて、人種差別と問題になったが、当時からこのような作戦が実施されていたのだ。 父は応召して短い期間で戦死してしまった。終戦翌年の旧暦の五月の節句の時に村長が直々に戦死公報を届けに来たという。村役場の他の職員が母たちの嘆く姿をみるのがしのびないと、親類の村長に配達を頼みこんだのだ。

 祖母と母は歩き始めたばかりの私を含む5人の子供を抱えていて、途方に暮れたに違いない。祖母は息子のために背広を新調して首を長くして復員を待っていたという。一番上の姉は、丈夫だった母が急に体から力が抜けた状態になってしまったことをいまでも覚えているそうだ。 母は元々口数が少なく、苦労をしながら私たちを育ててくれた。ほとんど涙を見たことはなかった。

 そんな母の涙を一度だけ見た。私が反抗期になり、母を馬鹿にする言葉を吐いたとき、急に涙を流したのだった。 悪いと思った私ははだしで逃げ出したが、母は泣きながら私の後を追いかけてきた。逃げるのは簡単なはずだった。だが、母の泣き声を聞いて、私の足は止まってしまった。私が謝っても、母は涙を流し続けた。 母の涙は、それ以来見たことはない。

 60歳近くになってクモ膜下出血で倒れ、快復したあとはいつも笑顔で「私は幸せだ」と話していた。それは、夫を戦争で失っても子どもたちみんなを無事育てたという思いが背景にあったのかもしれない。

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 ところで、「涙を喪失した少年」の結びは、心優しい冬尋坊日記さんの少年への思いが込められていて、琴線に触れる。 ≪東北大震災で涙を喪失した少年よ、これからも大変なことの連続だと思うが、「わが道を行く」の精神で生きてほしい。心からそう願う。音楽の授業で「♪涙の数だけ強くなれるよ・・・」を合唱することになったらどうしよう。私だったら静かに教室を退出し、図書館にこもるだろうが・・・。≫

(写真は故郷の秋の風景)