「世界を覆うコロナ・ウイルスが世の中をどう変えるのか、人間の力試しが答えを出すのだろう」……これは、女優で作家、国際ジャーナリストの岸恵子さんが自伝『岸恵子自伝 卵を割らなければ、オムレツは食べられない』(岩波書店)の中で、コロナ禍に触れた一部である。政府は、当初予定していたまん延防止等重点措置から一転して北海道・岡山・広島を緊急事態宣言に追加すること転換したが、政治もまた力を試されていることの一例といっていい。
岸さんは、自伝の終わりの方で、コロナ禍によって娘一家が住むパリに2年間も行けずにいることを書き、人間の力試しのことに筆を進めている。緒方洪庵が天然痘に対し牛痘というワクチンを使ったこと、日清戦争後コレラが猛威を振るった際、後藤新平が中国から帰還する兵士に大規模検疫体制を敷き、コレラが日本に入ることを防いだことも紹介し「いまのパンデミックにも、そうした傑出した人がどこかにいるのだろうか……」という願望を記している。
中国・武漢に始まったコロナとの闘いは1年半になる。世界の国々の政治体制はそれぞれに異なり、コロナ禍に対する取り組みも当然ながら違っている。それでもリーダーの力量が感染状況に大きく影響しているということは間違いない。傑出したリーダーがいる国は、感染爆発という事態には陥っていない。では、わが日本はどうなのだろう。残念ながら「コロナ対策がアジア最大の失敗国になりつつある」という、ある大学教授の指摘が当たりつつある。その例を挙げたらきりがないのでやめておくが、3道県に対する緊急事態宣言もこれまでは政府方針を追認してきた専門家による分科会から突き上げられた結果だった。政府のあまりの無策ぶりに、分科会のメンバーたちもあきれたのだろう。
岸さんは自伝のエピローグで、植物のミモザのことを書いている。看取ることができなかった母親の供養のためにパリからの帰郷(岸さんは24歳の時、フランスの映画監督、イヴ・シャンピと結婚して渡仏、43年間フランスを拠点に活動した)後の2001年に母親が使っていた部屋の前に植えたのだという。私も好きな花でわが家の庭にも1本ある。植木屋によれば、ミモザは根が横に広がらないから年中刈り込む必要がある。しかし、岸さんは剪定を拒み枝も葉も切らず伸ばし放題にしているから何本かの支柱が必要だ。大風の度に根が浮くミモザを見て、岸さんはパリにも日本にも根付かない自分の分身と思うのだそうだ。そのミモザとの対話とも思える結びがいい。
《「世は、定めなきこそいみじけれ」(注・ブログ筆者の意訳=この世ははかないから素晴らしい)兼好法師の『徒然草』を気取りたいわたしを、庭のミモザがじっと見る。『コロナ?じぶんの力だめしをするときでしょ」と言わんばかりに、そこまで来ている春に先がけて、真っ黄色のつぼみがはじけて笑い出しそうである。》
コロナ禍の時代でも、うろたえず、淡々と生きるべきことをこの結びの文章は教えてくれている。往年の映画『君の名は』のヒロイン、真知子役で知られる大女優岸さんの文章は、生き生きとしていて力強い。ノンフィクション作品『チャイコフスキー・コンクール』で大宅壮一賞を受賞したピアニスト中村紘子さんに勝るとも劣らない、豊かな表現力だと思う。天は二物を与えたのだ。