小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2102 ジェンナーと華岡青洲と 医学の進歩と人体実験の被験者たち

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 新型コロナに関して、日本でも3回目のワクチン接種が始まっている。このワクチンの開発に当たっても治験(国の承認前の薬剤を患者や健康な人に投与し、安全性と有効性を確かめるための試験のことで、新薬開発のための治療を兼ねた試験を言う)という人体実験が実施され、安全性が十分確立された上で接種が認められたのだと思う。私も近く3回目の接種を受けるのを機会に、医学と人体実験について考えてみた。

 イギリスの医学者、エドワード・ジェンナー(1749~1823)が天然痘予防のため、牛痘を少年に接種したのは1796年5月のことである。今から226年前になる。私の中学生時代は、この少年は実の息子だと教えられた。それは誤りで実験台になったのはジェンナーの使用人とみられる8歳の男の子だったといわれる。この人体実験が成功し、ジェンナーは「近代免疫学の父」とも呼ばれている。しかし、ワクチン接種の歴史は「リスクと不確実性」に満ちているため、ワクチンに対する拒否反応が世界の人々の潜在意識の中に残っているのも間違いない。

「ワクチン」という呼び方は、フランスの生化学者・細菌学者ルイ・パスツール(1822~1895)が、ジェンナーの業績を称えて、ラテン語の雌牛である「vaca」から名付けたのだそうだ。天然痘天然痘ウイルスの感染によって発症する感染症。痘瘡ともいわれ、40度以上の高熱が出て全身がただれる症状で、最悪は死に至る恐ろしい病気だ。現在は治療法と種痘という予防法が確立し、人類史上初めて根絶に成功した感染症になった。

 ジェンナーが生きた当時のイギリスは、60年に及ぶジョージ3世の治世が続いていた。アメリカの13州が独立し植民地としてのアメリカを失う一方、産業革命が進行し、イギリス社会は大きく変貌を遂げた。しかし中世からの「階級社会」は厳然としており、「上流階級(王室や貴族)」、「中流階級(商業・工業・金融業などで財産を築いたブルジョア、弁護士・医師・軍将校などの専門職)」「労働者階級(小作人・工場労働者など肉体労働者)」という3つの階級に分かれる差別社会でもあった。

 中流階級に属する医師や弁護士たちは最低3人の使用人(労働者階級の人たち)を雇ったといわれ、ジェンナーも同様だったと思われる。ジェンナーは、どんな思いで使用人として雇った少年を実験台に選んだのだろうか。少年は孤児院から引き取った子あるいは貧農の子らしく、その後もジェンナーは孤児院の別の子どもたちに牛痘を接種する実験をしている。子どもたちは納得したうえで、ジェンナーに協力をしたのだろうか。こうした人体実験(臨床試験あるいは治験)がなければ種痘は確立されなかった。私たちは、実験台になった子どもたちへの感謝の思いを忘れてはならない。

 ジェンナーのことを書いていて、日本でも世界で初めての実験に挑んだ医者がいたことを思い出した。江戸時代の医師・華岡青洲だ。紀伊国の医師だった青洲は外科医として多くの患者を治療しているうち、手術のときの患者の苦痛を和らげられないかと考え、薬草を調合して麻酔薬「通仙散」を開発し犬や猫で実験を繰り返した。しかし、人間への適量は容易につかめず、悩み続けた。そんな青洲を見た母と妻が実験に進んで協力、人体への適量が分かった。その結果、1804(文化元)年、初めて全身麻酔による女性患者の乳がん摘出手術を行い、成功した。危険な実験に協力した母と妻の存在が医学の進歩に寄与したといえる。

 人体実験に関してはこんな話もあるという。今では日常的に行われている臓器の内視鏡検査だが、この内視鏡を発明したのはドイツ人内科医のアドルフ・クスマウルという人だ。1868年のことである。長さ47センチ、直径1・3センチの胃を調べる金属管の内視鏡を技術者に依頼して作って見たが、実験台は見つからない。そんな時、剣を飲み込む曲芸師がいたことを思い出し頼み込むと、彼は簡単にこれを飲み込み、実験は成功。今日の普及へとつながったことは言うまでもない。

 このように医学の発展の陰でさまざまな実験に対する協力者が存在する一方で、当然のごとく実験の失敗も少なくない。それがヨーロッパを中心としたワクチン忌避の背景にあるのかもしれない。また、同じ人体実験でも、日中戦争当時の旧満州中国東北部)で、関東軍731部隊が繰り返した細菌戦のための中国人捕虜に対する生体解剖やペスト菌による実験は、日本の負の歴史として刻まれている。

 私は以前、取材のためハルビン郊外の平房にある731部隊跡に行ったことがある。その時は夏だったが、なぜか鳥肌が立ったことを今も忘れることができない。新型コロナウイルスの感染に関する検査や終息に向けた活動をしている国立感染症研究所の前身は、国立予防衛生研究所だ。戦後この研究所には731部隊関係者が在籍していたことが青木冨貴子著『731――石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く――』(新潮文庫)に載っている。

※追記

 コロナワクチン(ファイザー、モデルナ)について、「特例承認であり、安全性が十分確立されているとは言えないと思われる」という声もあります。厚労省の「新型コロナワクチンQ&A」にも、「治験が終わっていないというのは本当ですか』という質問とその答えが載っています。そこには臨床試験の一部は現在も継続していると書かれており、特例承認という言葉も使っています。そのために安全性に対する疑問を持つ人たちが少なくないようです。内容はここから

 写真 早朝、東の空に明けの明星(金星)と三日月が美しさを競っていた