小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2093 経験を軽く見た行動が背景に? 第6波に入ったコロナ禍

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      (近所の公園の池で見かけた白鳥)

 コロナ禍が第6波に突入してしまったことは間違いない。年末、次第に増え始めた感染者は新年を迎えて激増の一途をたどり、8、9両日とも新規感染者は8千人を超えた。前の週と比較して倍どころか10倍という数字を聞くと、心穏やかではない。「民衆や政府は歴史から何かを学んだことはない」という、弁証法で知られるドイツの哲学者ヘーゲルの言葉が適切かどうかは分からない。だが、新型コロナという性悪ウイルスが第6波まで繰り返して流行しているという事実から、歴史や経験を軽く見た行動が第6波まで惹起させてしまった背景にあると思わざるを得ないのだ。

 ヘーゲルの言葉はこうだ。「経験と歴史の教えるところこそまさに、人民や政府がかつて歴史から何ものも学ばなかったということであり、また歴史からひっぱり出されるような教訓に従って行動したということもなかったということそのことなのである」(長谷川宏訳『歴史哲学講義』・岩波文庫)。ヘーゲルは、それぞれの時代はそれぞれに固有の条件の下に独自の状況を形成するため、他の時代の教訓は役に立たない、と付け加えているのだが、私を含め歴史から何かを学んでいると信じている人間にとって、手厳しい考え方といえる。

 日本では昨年秋、第5波が急速に収まり、このブログでも2021年10月13日に《「よく分からないから不気味」コロナ感染急減の背景は》という記事を掲載した。その中で政府分科会の尾身茂会長が感染者急減の理由について記者会見で言及したことを紹介した。①連休やお盆休みといった感染拡大につながる要素が集中する時期が過ぎた②医療が危機的状況にあることが広まり、国民の間で危機感が共有された③感染が拡大しやすい夜間の繁華街の人出が減少した④ワクチンの接種が進み、若い世代の感染も減少した⑤気温や雨など天候の影響があったのではないか―の5つである。

 年初めの急増(9日の新規感染者は8249人)は、この要素の裏返しのように思えてならない。①年末年始で都市と地方の人の流れが加速した②第5波の収まりで国民の危機感が急速に薄れた③繁華街の夜間の人出が戻り、飲食店での多人数での飲食も増えた④ワクチンの接種は進んだが、時間の経過とともに感染予防につながる中和抗体が減少した⑤気温の低下とともに室内の換気対策がおろそかになった――である。このほか米軍の感染対策の杜撰さによって、沖縄はじめ米軍基地周辺での感染急増につながってしまった。

 第6波の大きな要素ともいえるオミクロン株は、これまでの状況から重症になる例はデルタ株に比べると少ないとみられている。先日、オンラインで開催された放送大学主催の「コロナ禍の現状と今後の見通し」と題した講演会を聴いた。講師の国立国際医療研究センター病院の杉山温人病院長は、デルタ株と比較してオミクロン株の性質について触れ「感染力は強い一方で重症度は(「多分」という注意書きながら)低い。ワクチンの効果は下がるため3回目のブースター接種が必要、重症化予防薬ロナプリーブは推奨しない」と語った。また感染力が強いため「医療従事者の感染、濃厚接触や扱いで医療提供能力が低下する可能性が高く、医療ひっ迫を招く」と警告した。沖縄ではすでにこの兆候が出ていると報道されている。症状は軽くとも、感染者数が増えれば、それだけ重症者も増えることは言うまでもない。オミクロン株は、油断できない強敵なのだ。

 福沢諭吉は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざを、肯定的にとらえた。本来は「苦しいことや辛いことも過ぎてしまえば忘れる」ことのたとえであり、「苦しい時に人から受けた恩も忘れてしまい、ありがたく思わなくなること」という意味もある。だが、諭吉は「艱難辛苦も過ぎてしまえば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去った後で昔の貧苦を思い出して何が苦しいか、かえって面白いくらいだ」(『福翁自伝』)と述べている。コロナ禍についても、諭吉のような心境でとらえる日が来ることを願うばかりである。

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       (飛び立っ白鳥)

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      (遊歩道に沿って流れる小川にはカワセミがやってくる)