2094 「思索」の信越の旅 紀行文を読む楽しみ
英国人女性、イザベラ・バードは文明開化期といわれた1878(明治11)年横浜に上陸、6月から9月にかけて北日本を旅し、さらに10月から関西を歩いた。この記録が『日本紀行』あるいは『日本奥地紀行』として今も読み継がれ、紀行文の名著になっている。コロナ禍、私は事情があって旅は控えバードの本の頁をめくり、地図を見ながら想像の旅を続けている。そんな折、知人から『信越紀行』と題する旅の記録が届いた。それは幕末期のこの地域の動きを考える、思索の旅の記録でもあった。
知人は私が所属する句会の主宰者で、旅の記録には必ずその地で浮かんだ俳句も残されている。今度の記録にも幾つかの名句が書かれていた。旅好きな知人は海外から最近は国内に目を向け山陰、九州、北陸、東北と続けてきた。コロナ禍があって思うような旅はできない中、第5波が落ち着いた昨年11月中旬、自宅のある我孫子市から新潟・長野方面へと足を伸ばした。2泊3日の日程で、回ったのは長岡~直江津~上越高田~妙高高原~小布施~松代~長野だった。
訪ねた主な場所は「悠久山公園」「河井継之助記念館」「山本五十六記念館」(以上長岡市)、「旧第3師団長官舎」「高田城」「小林古径記念美術館」「春日山城」(同・上越市高田)、「岩松院」「北斎館」(同・小布施町)「象山記念館・象山神社」「松代城」(同・長野市松代町)などである。戊辰戦争当時の諸藩の動きに関心を持つ知人は、特に戊辰戦争で官軍と戦った長岡藩の河井継之助ゆかりの地に立ち、河井について以下のように記した。
《彼が時代を先取りした改革者であり、財政の立て直しや数多くの実績で人々の信頼を得ており、それゆえ藩論が割れずに突き進むことになったのはよくわかる」「長岡にとって本当にそれが良かったのか、やむをえなかったのか。実に悩ましい疑問ではあるが、古来散り急いだ者への哀悼、彼らの醇乎の精神に対する賛美は日本人には殊のほか強い。戊辰期の長岡は会津若松と並びそのような特別な街、旧城下と言っていいだろう》
この旅で知人は現役時代の仕事を思い出し、さらに早逝した同期入社の友人、世話になった先輩に思いを馳せる。小布施から長野に向かう長野電鉄は途中で須坂を通る。知人の同期入社の友人は須坂の出身だった。やや我が強く、理屈っぽく、よく言えば義を論じ正論をかざす。長野の県民性そのものの人だったようだ。知人は書いている。
《他を容れること少なく、ゆえに容れられることもすくなかったといようか。こと志と違って何かと挫折もあったことだろう。終生独身でさほど昇進することもなく50歳前後に病没したから、多分この地の御先祖の墓に入ったはずである。狷介孤高の男。世渡り下手とか不器用とか一本気が過ぎるとか、いろいろな評価や評判はあっただろうが、私には彼の無念が何となく分かるように思われ、それだけに懐かしくもあるのだ。そうだ!彼の兄からの香典返しも林檎であった……》
この節に続いて、心にしみる句が出てくる。人生にはいろいろな出会いがある。早逝した人ほど、忘れがたいのだ。
早逝の友の故山の林檎園
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知人が旅した地域のいくつかを私も歩いたことがある。その一つに長岡があった。田中角栄元首相が裁かれたロッキード事件、丸紅ルート(1983年10月12日)。田中元首相に東京地裁は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡したが、この判決を前に私が所属していた共同通信社会部は加盟新聞社向けに連載記事『角栄の秋』を送信した。私を含む5人の記者が担当し、手分けして新潟の現地取材も試みた。私はこの年の8月、長岡や柏崎を回り、長めの企画記事を数本執筆した。私が取材に入ったのは8月初めで長岡は花火大会。どこの宿も満杯で、取材のあと新潟まで行き、ホテル探しをしたことが忘れられない。
この3年前の1980年6月の衆参ダブル選挙も担当した。社会部遊軍記者だった私は自民党を離党して立候補、新潟3区でトップ当選した角栄氏を追って3区内を回り、ある日の朝は角栄氏の実家(刈羽郡西山町、現在は柏崎市西山町)にまで行った。私がタクシーを降りると、元首相秘書の早坂茂三氏が下駄履きスタイルでやってきた。
「どこの記者だ」
「共同通信社会部です」
「わざわざ東京から、親父をいじめるための材料探しに来たのか。帰れ、帰れ!」
「そんなつもりはないですよ」
こんなやりとりをした。それを座敷から見ていた元首相がダミ声で「おい、早坂。東京からわざわざ来てくれたというのだから、上がってもらえ」と言った。早坂氏は渋々私を家の中に案内した。私が上がり込んで角栄氏の近くに行くと元首相は朝から酒を飲んでいるのか、赤い顔で汗をかきながら支援者に頼まれたと思える色紙を書いていた。他社の記者はいないからいろいろ聞いたはずだ。だが、詳しいことは忘れてしまった。ただ、なかなか味わいある字を書くものだと感心したことだけは記憶にある。
(そのころの私は、どんな人に会っても卑屈にならず、対等に話をする傲慢不遜な記者だったはずだが、元首相のオーラに接し、そうした傲慢さは消えていたようだ)
角栄氏は上告審が審理途中の1993年12月16日、肺炎のため75歳で死去。私はこのころ既に社会部を離れ、元首相死去に関する後輩たちの記事を読みながら西山町の朝のことを思い出していた。
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コロナ禍が第6波の様相を呈しており、知人の旅も一時休止を余儀なくされるだろう。再開はいつになるかは分からない。だが、知人の国内の旅はまだ続き、それを記録することによって旅の記憶もより深まるはずだと、私は思う。