小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

520 遥かなりラオス(1) 山岳地帯へ・その1

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 インドシナ半島の北東部にあるラオスに行ってきた。9月20日から27日までの8日間。スペイン・ポルトガル報告を中断し、鮮烈なラオスでの体験を7回にわたって書いてみる。ラオス語で「こんにちは」は「サバーイディー」というそうだ。その響きはさわやかだ。だが、人々は厳しい自然の中で暮らしていた。日本との落差の大きさに衝撃を受けた日々だった。

 旅の目的は、途上国の山岳地帯で少数民族のための学校建設を進めているアジア教育友好協会(AEFA)というNPOに同行し、ラオスの山岳地帯の小学校を見ることだった。首都、ビエンチャン郊外の小学校を見たあと、夜行バスで10時間かけて南部の都市、パクセまで向かった。(この深夜バスの旅は後日紹介する)

 早朝のパクセには、不二家のマスコットのペコちゃんを大人にしたようなあいきょうのある顔をした愛称ノンちゃん(42)=本名プアラペ・チュンタポン=という現地NGOのメンバーが迎えてくれた。彼女はタダものではなかった。そのことを知るのに、あまり時間は要しなかった。

 パクセから数時間のサラワンという町周辺の学校を数校見た後、正午過ぎ2台の4輪駆動車に分乗してベトナム国境にある標高800メートルから1000メートルの山岳地帯へと向かった。町から約80キロの道のりで、NPOのメンバーは目的地まで約6時間という予想をした。乾季ならば、という前提であり、現地が雨季であることは計算外だった。間もなく、雨季という現実が鋭い刃となって突き刺さってきた。

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 山道は道幅が狭く、1車線ほどしかない。その上舗装がされていないので、雨の影響でぬかるみ、深い溝ができている。この悪路を2台の4輪駆動車はのろのろ運転しながら進んで行く。先頭を走る私が乗った車の運転手はノンちゃんだ。山道を25キロほど進んだ急な下り坂にさしかかった。 そこに2台の不発弾の処理を仕事とする人々を乗せた大型車が立ち往生していた。

《注、ラオスにはベトナム戦争当時、米軍によってクラスター爆弾200万ー300万トン、約8000万発が投下されたという。その爆弾の多くがいまも不発弾として東北部のシエンクワン県を中心に残されている。日本のNGO、日本地雷処理を支援する会(JMAS)がラオスで不発弾処理活動をしている》

 1台が坂の途中で泥に埋まり、もう1台は坂の上に止まっている。坂を降り切った谷底のような部分は川が流れている。

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 道は車が埋まった左側のほかに、その右側にもドロドロの状態のもう1本の下り坂がある。ノンちゃんたちは、車を降りて、先行車の人たちと話し合い、右側の道を広げて通る方法を考えた。用意したスコップと鍬を使って、道路工事が始まった。泥と格闘する10人近い人々の中に、NPOと同行した学校の校長先生もいる。黙って見ているわけにはいかないと、率先して鍬を取ったのだ。約2時間後、道は広がった。しかし、泥の状態は悪い。運転次第では、泥の中に埋まる可能性も少なくない。その危険な役割をノンちゃんが引き受けた。

 ノンちゃんはビエンチャンの国立大医学部を出て、タイの大学でさらに医学の研修をした医者である。サラワン医科大で研修医中、ボランティアとしてNGOの手伝いをしているうちその活動にのめり込み、今では辺境に学校をつくる仕事が本業になっている。だから何でもこなす。運転もやり、こうした悪路では率先して鍬を取る。その姿を見て、日本の関係者は「肝っ玉かあさんだ」とか「スーパーウーマン」と呼んだ。彼女は未婚だが、7人の養子を育てている。ギターもうまくて、多芸多才である。

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 ノンちゃんは、下り坂を泥と格闘しながら何とか強行突破し、その場にいた人たちから拍手が起きた。私も拍手を送った1人だ。これまでの道のりで彼女のハンドルさばきの巧みさを知っていたが、泥と格闘し脱出に成功したノンちゃん車を見ながら涙がこぼれてきた。この後、ノンちゃん車は牽引用のワイヤーやウィンチを使って、泥に埋まった不発弾処理グループの車を引っ張ったが、車が大きいため成功しなかった。こちらのもう1台の車も右側にできた道を通り抜けることができたため、私たちは不発弾処理グループの1人を通報役として荷台に乗せて出発した。この坂道で2時間15分を要し、日は傾き始めている。難行苦行は、この後も続くのだった。(続)

 

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