小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2100 朝もやが描き出したモノトーンの世界 自然の変化と付き合う

           f:id:hanakokisya0701:20220127112548j:plain

「夜霧」や「朝靄」は、情緒的な響きがあるが、日常の会話で「霧」と「靄」(もや)を使い分ける人はほとんどいないだろう。物の本を調べると、気象用語でははっきり区分けする基準があるのだという。この基準に当てはめると、今朝、わが家の周辺で発生した自然現象は「靄」だった。ラジオ体操が始まる直前に漂い始めた靄は、2時間ほどで消えた。

 霧と靄は、大気中の水蒸気が微小な水滴がとなって浮遊して視界が悪くなるもので、同じ現象だ。しかし気象用語では水平視程が1キロ未満、つまり1キロ以上の遠くの物が見分けられなくなる状態が霧で、靄は水平視程が1キロ以上の状態を指す。近くしか見えないのが霧で遠くまで見えるのが靄といっていいのだろう。このほか、空気中の水滴やその他の粒子によって視界が悪い状態のことを霞というが、俳句では霞は春、霧は秋の季語であり、靄は季語にはなっていない。

 冒頭に書いた通り、わが家周辺では今朝、水蒸気が浮遊して視界が悪くなる現象があった。そう濃くはなく1キロ先が見えなくなることもなかったから、朝靄といえる。近くに調整池があり、この周囲では季節に関係なく霧や靄が発生する。体操の後、ここに行ってみると風情ある風景になっていた。ほぼモノトーンに近い世界。ゴッホならこの風景をどう描くのだろうかと、ふと思ったりした。

    f:id:hanakokisya0701:20220127112625j:plain

    f:id:hanakokisya0701:20220127112645j:plain

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)は、外を歩くことが好きだったそうだ。戦後、岩手で山小屋生活をしたくらいだから、外歩きは苦にならなかったようだ。足が速く、一人歩きだと2、3里(約7・8~11・7キロ)歩くのにそう時間がかからない。「自由自在に歩きたいから多くの場合は一人で歩く。風のやうに歩いたり、流れる埃のやうに歩いたり、熊のやうに歩いたり、時には鶴のやうに歩いたりする。或る時はまるで自分自身の中に没入した状態で歩き、或時は又下界に一々魂を奪はれながら歩く」(『日本詩人全集9 高村光太郎』新潮社・エッセイ「生きた言葉」)というのが光太郎の歩くスタイルだ。

 かつては私も歩くのが速かった。しかし加齢とともに速度は遅くなり、昨今は自然が描き出す雄大な風景を楽しみながら歩くことが多くなった。光太郎的な「風のように、流れる埃のように、熊のように、鶴のように」とは行かないが、のんびり、ゆっくり自然の変化と付き合いながら歩くのも、なかなかいい。1月も下旬。光の春がそこまでやってきている。

    f:id:hanakokisya0701:20220127112729j:plain

    f:id:hanakokisya0701:20220127112702j:plain

    f:id:hanakokisya0701:20220127112752j:plain

写真

1~3 調整池周辺の朝もや 4~6 ラジオ体操会場周辺