小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2104 現実と幻想の世界と『銀河鉄道の夜』再読・幸せとは

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 最近、オンラインの講演を聴く機会が増えている。大学や団体などが主催したさまざま講演会はコロナ禍の中、外出をしないでもパソコンを使って話を聴くことができるので、利用している人はかなりいるだろう。そんな中、先日は天文学者谷口義明氏(放送大学教授)の「イーハトーブの星空で宮沢賢治銀河鉄道に乗る」と題した講演を聴き、あらためて『銀河鉄道の夜』を読み直した。この童話のラスト近くで「本当のさいはひ「幸い)は一体何だろう」「僕わからない」という言葉のやり取りがある。このやり取りは、コロナ禍の現代に生きる私たちにとっても容易に答えが見つからない難問だ。

 この童話は、賢治の死後未定稿のまま公表され、しかも四次にわたる改稿の跡があり、意味がよくわからない言葉(例えば「ケンタウル祭り」や「天気輪の柱」)も使われている。さまざまな解釈があり、谷口氏の話は天文学者の解釈として心に残るものだった。

 最終稿のストーリーは以下のようになっている。

《ヨーロッパと思われる町にジョバンニという少年がいる。病気の母親と二人暮らしで、家は貧しい。姉(嫁いで近所にいるらしい)が面倒を見にきてくれている。父親は北洋に漁に行っているが、監獄に入っているうわさもある。父親は「ラッコの上着を土産に持ってくる」と言っていたが、なかなか帰らないため学校でジョバンニは「ラッコの上着が来るよ」とからかわれている。

 銀河の祭り・ケンタウル祭りの日、学校から帰ったジョバンニは、配達されなかった母親の牛乳をもらいに行く。その途中丘に登って町を眺めていると、天気輪という柱が空中に立ち、そこから「銀河ステーション」という声が聞こえる。そして、いつの間にかジョバンニは軽便鉄道の車内におり、級友のカムパネルラが目の前に座っていた。この客車の窓からは、銀河の世界の風景が見え、2人はいろいろな人と接する。

 列車が止まっている間には、遺跡調査の学者と話し、さらに乗り込んできた鳥捕りの男がくれた肉の味に驚き、転覆した船(タイタニックがモデルとみられる)に乗っていた学生と子ども(姉と弟)らとも出会う。検札の車掌の「切符は三次空間から持ってきたのか」という話から、この鉄道が「幻想第四次」「(異次元)の世界を走っていることが明かされる。転覆したらしい船の3人は「天上行き」の駅で下車し、カムパネルラもそこで消えている。ここで丘で居眠りしていたジョバンニは夢からさめ、丘から町に戻ると、カムパネルラが川で溺れていた友だちを助けて行方不明になったことを知る》

(初期系三まではブルカニロ博士という人物が結末で重要な役割を担っている。しかし最終形では博士は出ていないし、それまでと違ってカムパネルラが行方不明になるという結末になっている。これについて、テレビ演出家の今野勉は「『宮沢賢治の真実』・新潮文庫」というノンフィクション作品で「賢治の思想や生き方に大きな変化があったのだろう、と推測せざるをえない」と書いている)

 冒頭に書いたやり取りは、銀河鉄道の旅の終わり近くになってジョバンニがカムパネルラに問いかけた場面の言葉だ。これについて、宮沢賢治の作品に詳しい詩人・コラムニストの高橋郁男さんは『渚と修羅――震災・原発・賢治』(コールサック社)という本の中で、次のように書いている。

《正直な応答であり、答えは答える人の数だけあると思われるし、答えがみつからはずがないとも言えよう。ただ、そういう問いを持つ、あるいはそこに立ち戻ることが大切なのではないかと、賢治が書き残したように思われる。その名前から賢治自身を連想させる虔十の公園林(虔十という軽度の知的障害を持つ少年を主人公にした短編童話)の物語にも「本当のさいはひ」のことが記されていた。》

 閉塞感に包まれた時代が続いている。「本当のさいはひ」とは何だろうかと考える人は少なくないはずだ。マスクを外しての散歩、公園ではしゃぎながら遊ぶ子どもたち、飲食店や喫茶店での気兼ねのないおしゃべり、学校でのコーラスの練習、職場での会話、郷里の年老いた両親との再会……。コロナ禍以前を思い起こせば、百人百様の答えがあるだろう。それは特別なことではなく、何気ない日常の姿ではないだろうか。そう、「時を共にして生きた人や生きものたち、子どもたちの遊ぶ声、木々の緑、川の音、渡る風、山、空、海、そして当たり前の日々、仕事、営み」(前掲『渚と修羅』より)等々だ。コロナ禍で私たちが失ったもの、奪われてしまったものは数えればきりがない。

 ジョバンニは友だちから蔑まれ、孤独の中で銀河鉄道への切符を手に入れる。旅のはてに彼は「本当のさいはひは何か」を考える。ジョバンニとカムパネルラのような少年たちはどこにでもいる。私はどちらかといえば、前者の方だった。そして私は今も「本当の幸福とは何か」を問い続けている。

(かつての勤務先の後輩が病に倒れた。優しくて善意の人の健康回復を願いながら、賢治の世界を振り返っている)