新・小径を行く

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時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2004 酒がうまいのは二重の不幸か 山頭火は路上飲みの大先輩?

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 コロナ禍によって緊急事態宣言やまん延防止重点措置が出ている中で、酒の路上飲みがニュースになっている。酒がうまいから居酒屋が営業していなくとも、集団で路上飲みをしてしまうのだろうか。民俗学柳田國男(1875~1962)は「酒の味が非常に好くなったことは、2通りに不幸でありました。その1つは飲むまじき時刻にも男に酒を飲ませ、その2には女が重要なる職業(後述のように当初酒づくりは女性の専業だったという)を失ったのであります」(『定本 柳田國男集 第8巻』)と書いている。酒がうまくなったことが不幸と言えるかどうかは別にして、酒がまずかったら居酒屋をはじめとするアルコールを飲ませる商売は成り立たないし、ましてや路上飲みは起きないだろう。

  定本の「女性と民間傳承」の中で、柳田は「刀自の職業」と「酒の歴史」という題で、日本の酒づくりについて短く触れている。ここには以下のような趣旨(ブログ筆者の意訳)のことが書かれている。

《日本の酒の歴史をたどると、もともとは酒の生産は女性の専業だった。それ故に男子は女に酌をしてもらわないと、酒を飲んだような気持がしない。醸すという言葉はカムから来ており、大昔は私たちもポリネシア人がカヴァ(胡椒科の植物の根を干して粉にして水に溶かしたもの)をつくるように、沖縄の神酒のように、清らかな少女が噛んで吐き出したものを酒として用いていた。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女しか酒をつくることはできなかった。

 酒が普通の飲み物と違って見られたのは、味よりも飲むと力になり、熱になり、顔の色つやになり、眼の光になるという効果があったからだ。昔の人は飲む場合が決まっていた。寝酒や晩酌がされるようになったのは、そう古いことではない。遊興快楽のために飲むことは古来の日本風ではなかった。(以下、冒頭の2通りの不幸に続く)灘伊丹の酒倉でも今もここで働く人々をトージと呼び(杜氏などというつまらない説があるが)、これは単に女性(刀自)ということであり、酒を女性がつくっていた名残なのだ。

 酒は厳粛な条件で飲まれてきた。正月、節句、祝儀の場合でも神を祀った故に酒を飲んだ。今日のように放縦にめいめいがいつでもがぶ飲みしながら、これが日本魂の源泉で国が進化したかのように言うのは史学に対する反逆である。女性が忍従して夫に好きな酒を飲ませるのは勝手だが、子どものためには争う必要がある。酒を私経済の必要品のごとく、表に出る者(ここでは夫のこと)だけが家計の半分を酒に費やし、(生活が苦しいという)悩みを幼い子どもに及ぼさないほど私たちの生活は余裕があるのか。これがこの千年の常識だったというのは大嘘である》

  柳田に言わせれば、路上飲みといった今日の生態は酒の味がよくなったための「不幸・悪癖」ということになるのかもしれない。一方、歴史学者和歌森太郎(1915~1977)は「しばしば『酒は気違い水』だといわれるけれども、そんなものではない。むしろ、現代のように、国際的にも、国内的にも、種々の意味での狂気がきわだっている世の中にあって、これを鎮めさせ、お互いの人間を取りもどさせるのに有効な飲みものだといってよかろう」(『酒が語る日本史』河出書房新社)と、酒の効用を評価している。2人の大先生の文章から、私は「酒はほどほどに」という思いを強くしているのだが……。

  酔うてはこほろぎと寝てゐたよ さすらいの俳人種田山頭火(1882~1940)の句。酒が大好きだった山頭火は、路上飲みの大先輩(?)だったのか。