小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1999 あるジャーナリストの短い生涯『そして待つことが始まった 京都 横浜 カンボジア』を読む

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 20世紀は「戦争の世紀」といわれた。第1次に続く第2次世界大戦終結後も、世界の戦火は消えない。このうちアジアが戦場になったベトナム戦争カンボジア紛争(内戦)では多くの記者たちが命を落とした。この中に共同通信社の石山幸基記者も入っていた。石山記者はカンボジア紛争当時、ポルポト派が支配する地区(いわゆる解放区)に取材に入ったまま消息を絶ち、家族の元へ戻ることはなかった。石山記者の妻、陽子さんが出版した『そして待つことが始まった 京都 横浜 カンボジア』(養徳社)は、戦場記者の妻の視点で描いた、長い家族の物語である。21世紀の現代、この世界は戦争に加え、目に見えない新型コロナ感染症との闘いに明け暮れている。人類にとって「戦い~そして闘い」は宿命なのだと思わざるを得ない。

 この本は、石山記者と陽子さんの出会いから結婚、消息不明になった夫の手がかりを求めての3回にわたるカンボジア調査、カンボジア紛争で犠牲になった各国記者たちの慰霊の催しなどが盛り込まれ、戦争への疑問やジャーナリズムのあり方が平易な文章で記されている。私は石山記者と同じ福島県出身だが、面識はない。当時、私は地方支局に勤務し、石山記者がカンボジアで消息を絶ったことを聞いて、支局の先輩らと共に無事を願ったことを覚えている。

 石山記者は1972年秋、1年の予定でカンボジアの首都プノンペンに単身赴任し、カンボジア紛争を取材した。任期が終える際、当時のポルポト派(クメール・ルージュ)の支配地区に取材に入り、消息を絶つ。1973年10月のことだった。以来、陽子夫人ら家族には「待つことが始まった」。それはもちろん、生きて戻ってくることを信じての日々だった……。

 カンボジアの石山記者からは陽子さんあてに数多くの手紙が届いた。その最後の手紙には以下のようなことが書かれていた。ジャーナリストとしての思いがにじみ出た手紙だった。

《私はこのごろ考えるのですが、ジャーナリストを自分の職業としてえらんだことはいいことだったのです。ジャーナリストとは、歴史の現場労働者であって、その仕事はオレにむいています。歴史家という仕事はオレにはできないでしょう。かといってほんとうの肉体労働者になれたわけでもないでしょう。その中間にあるもの、そして、それをプロフェッショナルなものとしてひきうけていくジャーナリスという職業に1年のプノンペン滞在ののち、あらためて、愛着を覚えます。》

 この後、石山記者はどのような最期を迎えたのだろう。陽子さんも参加した共同通信社カンボジアの現地調査(81年7月)で、石山記者が亡くなるのを看取ったという現地の女性(シェム・ボンさん)が見つかる。この女性の証言で、石山記者は1974年1月20日ごろプノンペンから北西約40キロの古都ウドンから西に6キロのアンサンダン村からさらに奥のクチュオールという山のジャングルにあるクメール・ルージュの支配地区でマラリアに腸チフスを併発して亡くなったことが判明する。
 
 その後、2008年1月と2009年1月の2回にわたってクチュオール山中で亡くなった場所と埋葬場所探しも行われ、陽子さんの36年に及ぶ「待つ」時間が終わる。それは途方もなく長い時間だったのか、あるいはそうではなかったのか、この答えは陽子さんにしか分からない。

 石山記者を看取ったというシェム・ボンさんとの出会いはこの本の根幹ともいえる部分で、奇跡のように私には思えた。通訳の手が虫に刺され、石山記者の実母が慌てて薬を取り出す。その姿をたまたまボンさんが見ていて、自分が看取った外国人とそっくりだと気付き、調査団に名乗り出たのだ。ボンさんはウドンの市に行くため、朝3時に起きて、隣村からアンサンダン村まで来ていたのだという。石山記者の霊がボンさんと家族を引き合わせたかのようだ。

 ボンさんと出会ったあと、陽子さんらはアンコールワットへと向かった。その途中、夕闇の中で蛍の乱舞を見る場面の表現が美しく、心に残った。

《戦争は終わったものの、こんな暗闇はとても危険なのだという。あぁ、何とか早くどこでもいいから人にいるところまで走って!車の中で前後左右に飛び跳ねるように揺られながら祈るような思いだった。すると、なんだろう、まわりにまばゆい光がさし、見るとあたり一面、空に達するかと思うほどいっぱいの蛍が乱舞していた。私は一瞬その美しさに目を奪われた。生まれて初めて見る蛍の圧倒的な光だった。》

 カンボジアはかつて「戦争特派員の墓場」といわれ、多くの記者が命を落とした。その一人ひとりに家族があり、友人があり、恋人がいた。そうした最愛の人を失った人々の悲嘆は私の想像を超える。喪失感と絶望感……と。この本にはその中のひとりの家族の姿が克明に描かれ、私は31歳という若さでカンボジアの土になった先輩記者の無念を思った。

 石山記者の長男は学生時代、私が勤務していた共同通信社の職場でアルバイトをしていた。その後NHKに入り、社会部を経て国際部の記者として活動している。父親のDNAなのだろうか。時々、ニュース解説のためテレビに出演する。その顔を見て私は「父親ができなかった活動を存分にやってほしい」と、ひそかにエールを送っている。

 この本は、これからジャーナリストを目指す若い人たちに読んでほしい1冊だ。石山記者はジャーナリズムについて、短いながら示唆に富む言葉を残している。

《ひとりの人が生きる。ふたりの人間がいきる。そして3人の4人の5人のとかぞえていって、数万とか数千万とかの人間がいきていて、その集合体が、ある土地の上にあるわけである。その集合にとってジャーナリズムとはなにか。やはり、過程にすぎないのだ。目的ではない。彼らひとりひとりが死ぬまでの人生をおくる過程において、より人間らしくいきるための手段として情報を手に入れ、言葉の矢を射る。そのためにジャーナリズムはある。》

 追記 サブタイトルにある「京都、横浜、カンボジア」はどんな意味があるのだろう。陽子さんが生まれ育ち、2人が出会ったのが京都であり、石山記者の消息が不明になった後、陽子さんと2人の子どもが石山記者の実母とともに暮らしたのが横浜だった。そしてカンボジアは言うまでもない。私も偶然、京都、横浜には縁が深く、カンボジアには若い友人がいる。

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