小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2086 混乱期を生きる母と娘 かくたえいこ『さち子のゆびきりげんまん』

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 昭和から平成を経て令和になり、昭和は遠くなる一方だ。日中戦争、太平洋戦争という戦争の時代だった昭和。そして、敗戦。70数年前の人々はどんな生活を送っていたのだろう。かくたえいこ(角田栄子)さんの児童向けの本『さち子のゆびきりげんまん』(文芸社)は、混迷の時代に生きた母と娘の姿が詩情豊かに描かれている。どんなに貧しくとも前を向いて歩む母と娘。「ゆびきりげんまん」はどんな意味が込められているのか。

 物語の舞台は昭和20年代の栃木県の農村。小学校入学が1年後に迫ったさち子は、お母ちゃんとともに足利市の家を出てお母ちゃんの実家(農家)がある豊郷村(川俣)に戻り、2人で生活を始める。「キンカン」「柿の実」「雪の日」「ゆびきりげんまん」の4つの章から成る物語はさち子の成長の記録であると同時に、お母ちゃんと娘の愛情物語でもある。

 以下、簡単に各章の内容を記すと――。

 さち子はある朝、家の門のそばにあるキンカンの小さな実がなっているのを見つけ、その実をズボンのポケットにしまう。それからお母ちゃんに大好きなものを入るだけリュックに入れるように言われ、お母ちゃんとともに家を離れて足利駅から省線(現在のJR、旧国鉄両毛線)に乗る。それが父との別れだった。お母ちゃんはだれもいなくなった実家に戻ることをさち子に話し、さち子は汽車の中で廊下のガラス越しに見送る父親を思い出し、ポケットのキンカンをそっと握るのだった。(「キンカン」)。

 小山で東北線に乗り換えたお母ちゃんとさち子は、汽車が混んでいるため通路に新聞紙を敷いて座り、宇都宮で下車する。2人は駅前のラーメン屋で1杯のラーメンを食べ、木炭バスに乗り海道新田というバス停で降りる。近くにはタバコ屋を営むお母ちゃんの叔父の家があり、挨拶に寄ったお母ちゃんに叔父はリヤカーを貸してくれる。さち子はお母ちゃんがひくリヤカーの荷台に乗って川俣へと向かう。到着した所には雑草が生い茂り、土壁が崩れかけた小さな家があった。それがお母ちゃんの生まれた家だった。家の周りには橙色の実がたくさんなっている大きな木が何本もある。それはさち子が初めて見る柿の木だった。(「柿の実」)

 さち子は小学1年生になった。村にやってきて2度目の冬のある日、雪がかなり降っている。さち子は校庭で雪ウサギを作って遊んだ。お弁当を食べ終え、下校時間になっても雪はやまなかった。大人がいっぱい迎えにきているが、お母ちゃんは来ていない。同じクラスのさなえちゃんという体の弱い女の子は、お父さんらしい男の人に背負われて帰っていく。さち子は数人の男の子の後を歩き、男の子たちがいなくなると、大またでやってきたおじさんの後ろを懸命に歩いた。おじさんがいなくなると、吹雪になった。さち子は向こうからやってきた荷馬車をよけようとして土手下に落ち、雪だまりの中に入り込んでしまった。必死に這い上がったさち子は吹雪の中を一歩、一歩お母ちゃんが待つ集落を目指す。(「雪の日」)

 3年生の始業式の日。さち子は隣の席のたみちゃんと一緒に下校する。足利から豊郷にやってきたさち子には、それまで仲のいい友達はできなかった。たみちゃんは同じ集落の同級生で3年生になってから隣の席に座った。2人は初めておしゃべりをし、一緒に帰ることになった。帰り道、2人は家に帰った後、子どもたちの遊び場である神社で遊ぶ約束をし「ゆびきりげんまん」をする。だが、さち子が家に帰ると、お母ちゃんはジャガイモの種の植え付けを手伝うよう言いつける。さち子が仕方なくお母ちゃんと一緒に畑に向かう途中、神社のそばを通ると、赤ちゃんを背負ったたみちゃんがいたが、さち子は何も言わず、畑に行く。ジャガイモの植え付けは順調に終わり、その帰り道、さち子はお母ちゃんに、たみちゃんと遊ぶ約束を破ったことを話した。

 この後、お母ちゃんとさち子はどのような行動をとっただろう。その結末は爽やかだ。(「ゆびきりげんまん」)

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 さち子の母は父と結婚して足利に住んでいた。さち子は1944(昭和19)年生まれで、上に兄3人がいた。母はさち子が生まれると、小学校の先生をやめていた。豊郷の実家を継いでいた弟が病気で亡くなると、跡を継ぐ人がなく、このままでは借金のかたに家や田畑が取られてしまうといって、父の反対を押し切って実家に戻り、農家になったのだ。

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 今にも崩れ落ちそうな家に戻った母と娘。農家の出身とはいえ、小学校の教師だった女性が農業で生計を立てるのは容易なことではないはずだ。だが、さち子の母はそうした困難に向かって挑んでいく。この物語は敗戦によって日本全体が混迷・混乱していた時代に生きる母と娘の姿を通じて、現代のコロナ禍に生きる私たちに明日への希望を持つことの大切さを教えてくれるのだ。

 私もこの作者と同じ時代を歩んだ。母は父が戦死した後、末っ子の私を含め5人の子どもを育ててくれた。この本を読み終えて、私は気丈だった母とさち子のお母ちゃんが二重写しとなり、「ゆびきりげんまん」の後も2人が懸命に、力強く生きてほしいと願った。

 今年は戦後76年になる。明治から大正、昭和の時代を担った私たちの親の世代はほとんどがこの世にはいないから、戦時中から戦後の苦しい時代を語ってくれる人は少なくなった。そうした世代から引き継いだ市井の人の日常生活を、かくたさんは流れるような平易な文章でまとめた。長い教員生活で培った、人を大事にする精神がこの物語に生かされている。コロナ禍で閉塞感が強いこのごろ、そうしたうっとうしさを振り払ってくれる心洗われる一冊といえる。

2085 それぞれの故郷への思い『今しかない』第4号から

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 よく知られている室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しく歌ふもの」は、『小景異情』という詩の「その2」にあり、望郷の詩句の代表ともいえる。人は年老いるほど、故郷への思いが強くなるのかもしれない。このブログで何度か紹介した『今しかない』という小冊子がある。最近届いた第4号は、「故郷」を特集し、それぞれの故郷への思いとともに、幼いころの光あふれた時代を浮かび上がらせている。

 この小冊子は、埼玉県飯能市の介護老人保健施設・飯能ケアセンター楠苑(1997年6月2日開設、定員98名)石楠花の会発行の『今しかない』(編集・齋藤八重子、滝谷淳子、浅見京子、顧問・大島和典)。2020年5月に創刊号、同年12月に第2号、ことし5月に第3号を出した手作りの文集だ。コロナ禍という歴史的大きな災厄に見舞われる中で、この冊子は読むものに生きる勇気と希望、笑顔を与えてくれる珠玉の言葉が詰まっている。

 第4号は「標」(しるべ)というテーマで利用者や職員の声を紹介し、さらにこれまでこの小冊子に寄せられた読者の声も掲載している。このブログではこれらは割愛し、同苑の利用者だけでなく、かかわりの深い人たちから寄せられた望郷の思いもまとめて紹介する。(地名は筆者の出身地あるいは現住地。見出し・本文=ですますに統一=など一部手直ししています)

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 ▼父母からの授かり物
 畝立て 種蒔き 土握る 亡父母(ふぼ)の汗浸む 愛しき大地
畑を耕し先祖からの土地を、亡くなった父母を思いながら鍬をふるいます。畑仕事ができることはありがたく、父母からの授かり物とも思えました。汗することの尊さも身体が教えてくれました。(富山県 浦林郁子) 

 ▼朝礼前の草むしり 
 飯能に生まれ育った私。近くに学校はなく、精明小学校まで1時間以上毎日歩いて通いました。朝礼の前まで全校生徒が一列に並び、草むしり作業が日課でした。
 今の市役所、富士見小も第一中の敷地で、広い校庭で部活や校外学習、地区めぐり等、多くの友達や仲間も増え、楽しい毎日を送りました。そんな田舎が今では多くの工場が並びました。小さい時から辛抱強く過ごすことを学び、今日に感謝し幸せな日々が過ごせていますので、ふる里は私の基礎です。(埼玉県 山川文子)

 ▼嬉しい東京土産 
 昭和18年、群馬の農家の長女として生まれました。物心ついた時には疎開してきた東京の人たちが屋敷内に住んでおりました。伯父さんが雷おこしや雑誌の東京土産を持ってきた時は、子ども心に嬉しかったことを覚えています。
 海軍に行っていた伯父さんはハーモニカ、父は尺八を吹くのを風呂上りに聴いたことがあり、私が歌が好きになったのは、このころかなと思っています。妹たちの子守をしながら、お手玉、おはじき、縄跳び、馬とびなどをして夕方まで遊びました。小学校の学芸会があり、両親が見学に来てくれたこともよい思い出です。(群馬県 平沼ミサヲ)
 
 ▼自然とともに 
津軽海峡冬景色」の歌詞そのままに、竜飛岬から日本海沿いに下った小さな漁村。夜、地平線に漁火灯る景色が自然と浮かんできます。内陸のリンゴ畑が広がるイメージは全くなく、大した産業もない、半農半漁で経済的に厳しく、漁師を業にしている人以外、大半は出稼ぎで、残る家族がわずかな田畑で生計を成していました。幼いながら、いつの間にか掃除、洗濯、田畑の手伝いは否応無し。不思議にも周囲の友達も同様の状態で、当然のことのように受け止めてきたように思います。
 戦後生まれで、戦争中の悲惨さは知る由もない私。小さい村でも戦争の爪痕が残り、小学校と近くの砂山に爆弾投下によるすり鉢のようにえぐれた穴がありました。
 海あり、山あり、自然の遊び場所には恵まれ、どこもかしこも友だちとの思い出深い場所です。夢に見る景色は昔のままですが、田舎を離れて50年。親なき今は足遠のくも、帰省する度に景色は変わり、住む人変わり、空き家が増え、浦島太郎の心境ですが、ふるさとはとってもいいものですね。親との思い出に浸り、友との再会に帰りたくなるふるさと。心の財産です。(青森県 横野英子)
 
 ▼忘れられないさつま芋
 昭和18年生まれです。3キロ以上もある立派な赤ん坊だったそうです。母乳をよく飲み、よく眠り、手のかからない丸々と太った子に育ちました。19年ごろ、父が2度目の出征をしました。母、兄、私の3人は島原半島南東の小さな漁村にある父の実家に移りました。この村はまだまだ食べ物がありました。父が20年秋に復員して、勤務の都合で諫早に移り住みました。このころは食料不足の真っ只中、すっかり青白くやせ細った女の子になっていたのです。
 これからがさつま芋の話です。芋ごはんを朝炊いて一日食べます。藤で編んだ入れ物におひつを入れて保温します。夕食の時には、すっかり冷ごはんに! 冷たいごはんに熱いお茶をかけていただきました。おかずは何だったのでしょう。時々父の実家に一緒に食料の調達に行きました。バスは木炭を使い、坂道では力のある人がバスを押したのは楽しい思い出です。時は過ぎ、食料事情も好転していきました。
 さつま芋も今はすっかり品種改良され、出世しました。スーパーに行くと焼き芋の香りが食欲を誘います。甘くてほくほく、しっとりのスイーツとしても定着しました。大学芋、スイートポテト、高級菓子店でもさつま芋を使ったお菓子が誇らしげに、そして上品に並んでいます。これらをいただく時、しみじみとおいしく食べられることの喜びを感じずにはいられません。(長崎県 平野恵子)
 
 ▼磐梯山を眺めながら
 会津に生まれ、会津に嫁ぎ、農業と呉服店勤めで89年が過ぎました。いつの間にか歳を取り、今は朝に夕に四つ車を押して磐梯山を眺めながら野菜畑に通う毎日です。畑に行き、野菜が育つのを見るのが一番の楽しみです。山菜採りも大好きで、そのようなことが生きる楽しみです。
 この歳になると、茶飲み友だちもいなくなり、淋しい田舎暮らし。それでも生きていることは楽しい。(福島県 櫻井信子)

 ▼カニと遊ぶ
 野良仕事にはげむ、おとさんとおかさん。そばで一生懸命手伝いました。家の背戸(裏口)の石垣にカニがいっぱいいました。石垣の穴から出てきたり、引っ込んだり、釣り竿でカニを釣って遊びました。
 俳句 ふるさとの石垣赤き蟹遊ぶ(和歌山県 和田茂代)
 
 ▼両親の言葉を胸に
 生まれ育った町南アルプス市は、山々に囲まれた山梨県の小さな町です。周りを見渡せば、川や畑があり、とても徒歩で生活できる場所ではありませんが、空気と水がすごくきれいです。
 両親から教えられた「どんな時でも強く素直で居続けなさい」という言葉を、今でも自分に言い続けています。24歳になりますが、なぜ自分が今、人生と立ち向かっていけているのか……。僕の中で一番大切にしているのが「人としての心を持ち続ける」ことです。困っている人がいたら、すぐに助けること、誰かがうまくいったことに素直にほめる、自分がこうしてあげたいという気持ちを隠さず、素直に表に出してあげることです。
 この町でいろいろなことがあり、たくさんのことを知り、日々に感謝続けた今が僕の人生です。(山梨県 前田清春

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 ▼風船爆弾のこと
 父の本家・実家が北茨城市にあります。終戦前の小学生のころ、県北の関南町と千葉県一宮町から偏西風に乗って爆弾を放球するとの話を聞かされましたが、極秘の話で(大本営陸軍指令)他言はだめと言われました。北茨城には野口雨情(赤い靴、七つの子、カラスなぜなくの等の作詞者)の生家があり、こんな詞を今でも覚えています。
 天妃山(てんぴさん)から東を見れば 見えはしないが見えたなら あれはアメリカ合衆国(『磯原小唄』より・一部略)
 天妃山は海に突き出した山で、山上には弟橘媛(おとたちばなひめ・日本書記によると、荒れた海を鎮めるために入水した女神で、日本武尊の妻とされる女性))を祀った神社があります。北茨城の華川関南(はなかわせきなみ)盆地の山蔭から夕方前に巨大な風船が金色の夕日に輝き、1つ2つ3つと数十個が上空にふわりふわりと揚がる光景が今でも思い出されるのです。あれが風船爆弾と思ったが、一定の高度を保った装置で太平洋を横断してアメリカまで飛んでいくという……。想像がつきませんでした。
 製作にはコンニャク芋が糊として使用されていました。紙は埼玉小川町から取り寄せたと聞いています。コンニャクは軽い上に気密性と粘度があるらしい。貼るのは女子生徒が動員されたといいいます。私は風船と聞くと、子供のころのこうした光景を思い出すのです。(埼玉県 緑川忠順)※注1・風船爆弾

 ▼モンテンルパの歌
 15年前にバスツアーで信濃方面に旅行しました。天竜峡を散策していましたら「モンテンルパの碑」と書いた標識が目につきました。この碑を見て、ある歌を思い浮かべ、私だけちょっとみんなの歩くコースを外れて行ってみました。「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌詞を刻んだ碑が建っていたのです。
 フィリピンマニラ郊外のモンテンルパ刑務所には終戦後、日本のB、C級戦犯が収容されていました。この作詞者がB級戦犯死刑囚の代田銀太郎さんという方で、長野県出身と説明板に記載されていました。作曲した方も同じくB級戦犯死刑囚ということです。渡辺はま子がこの歌を歌ったのは戦後7年を経過した昭和27年のことで、はま子はこの刑務所を慰問、この歌を歌ったら会場からすすり泣きが聞こえたそうです。
 父の長兄も義母の兄もフィリピンで戦死しました。幼いころ、父の実家に遊びに行くと、最初に必ず仏壇に手を合わせに行くよう言われました。今もその癖がついています。義母がフィリピンに慰問に行ったとき、私の息子と娘の服や靴を預けて、現地に置いてもらいました。いい供養になると思ったからです。(埼玉県 渡部峰逸留)※注2・モンテンルパ      

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 冒頭に書いた室生犀星の詩は、実は遠い空の下で故郷を思う歌ではなく、犀星が東京から金沢に帰郷した際に作った詩といわれる。東京の暮らしは決して楽ではない。生活の窮乏と東京の酷暑に耐えかねて帰郷と上京を繰り返す生活を続けた青年時代。そんな犀星を、故郷は温かく迎えてはくれなかった。そうした悲哀や故郷への愛憎半ばする思いがこの詩になったという。故郷は遠くにいるからこそ懐かしく、そして、ありがたいものなのだろうか……。            

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 注1「風船爆弾
 11月から3月まで、冬の間は高層の気流が最も速く流れ(ジェット気流)、平均60時間で風船がアメリカ本土に達するとして、太平洋戦争末期に風船爆弾作戦が計画された。和紙をコンニャク糊で三重四重に貼り、水素ガスを入れて、下には爆弾や焼夷弾を1個ないし2個下げて飛ばした。男女の生徒たちがこの作業に駆り出された。実験中に死傷者も出ている。
 勿来(福島)、茨城、千葉の3カ所、42の放球台で4万個揚げる計画があった。30分ごとに1個揚げる計画だったが、実際にはその4分の1しか揚げることができなかった。
 勿来では風船爆弾の基地をつくるため付近の民家40戸が移転させられた。常磐線の列車は基地近くを通過するときは窓の鎧戸を下ろし、外を見ることが禁止されたという。敗戦になると、残った爆弾や焼夷弾は海中に捨てたり、爆破させたりして処分した。
 アメリカ政府の調査では日本から飛来した風船はワシントン25個、オレゴン40個、モンタナ32個、カリフォルニア22個、ワイオミング・サウスダコタアイオワ各8個、カナダ39個、メキシコその他6個で、死者は6人だったという。(衣山武編『神様は海の向こうにいた』より)

 注2「モンテンルパ
 モンテンルパはマニラの南方約25キロメートルに位置し、第二次大戦後、日本人捕虜収容所として使われたニュー・ビリビッド刑務所があった。戦犯となった山下奉文大将(第14方面軍司令官)ら17人が近郊のロスバニョスで処刑され、日本人墓地や平和祈念塔などがある。
 1952年にフィリピンに収容されていた戦犯からNHKのラジオ番組に送られてきた「あゝモンテンルパの夜は更けて」が渡辺はま子、宇都美清の歌でレコード化され、大ヒットした。
 この後、渡辺はニュー・ビリビッド刑務所を慰問し、当時のキリノ大統領に日本人BC級戦犯の釈放を嘆願した。この結果、この歌を作詞した代田銀太郎と作曲した伊藤正康を含む108人全員が釈放となり、帰国を果たした。

 関連ブログ↓

 2049 想像する『今しかない』のカルテット 息の合った冊子編集という演奏

 2015「笑顔を取り戻そう!」『今しかない』第3号から(1)

 1957『今しかない』が第2号に 哀歓の人生模様

 1917 8年間に6000キロを徒歩移動 過酷な運命を生き抜いた記録

 1882 『今しかない』 短い文章で描くそれぞれの人生(1)

 

2084 蕭条とした冬景色 さ霧晴れても

 

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 調整池を回る遊歩道を散歩していると、このところ毎朝のように調整池から霧が立っている。放射冷却によって起きる現象だ。長い年月見慣れているとはいえ風情があって、見飽きない。対面からやってきた女性が『冬景色』の歌を口ずさみながら歩いていく。女性が遠ざかると、私も同じ歌を小さな声で歌ってみた。歳時記には冬の季語である「冬景色」の説明に「蕭条」(しょうじょう)という言葉が使われている。目の前にある調整池と背後の森もまさに蕭条の世界になっている。

「見渡す限り蕭条とした冬の景色をいう」(角川学芸出版『合本俳句歳時記』が、季語の説明だ。そして、蕭条は「ひっそりともの寂しいさま」という意味だ。冬になると、目に映る自然の眺めは、蕭条たる様相を呈する。調整池周辺も同様だ。そんな朝、霧に包まれて昔習った歌の歌詞をかみしめる。 

 さ霧消ゆる湊江の
   舟に白し 朝の霜
   ただ水鳥の声はして
   いまだ覚めず 岸の家
     (作詞/作曲未詳『冬景色』の歌詞1)

 1913(大正2)年の「尋常小学唱歌(5)」で発表になった曲だそうだ。この年は東北、北海道が冷害による大凶作に見舞われ、さらに翌14年には第一次世界大戦が発生している。日本も世界も決して平穏な時代ではなかった。そんな世の中であっても、こうした美しいメロディーは子どもたちの心をとらえたに違いない。(注・「さ霧」は霧のことで「狭霧」とも書く。「さ」は語調を整える接頭語だ。霧は秋の季語であり、この歌詞1は晩秋から初冬の光景を描いている)

「歌は不思議なものだ。体が歌詞をおぼえこんでしまっていて、時に口ずさんだりするが、その意味など考えてもみないものが多い。殊に子供のころにおぼえた歌にそれが多い。いわばオウムが意味を理解せずに人語を喋るようなものだ」。高橋治は『春夏秋冬 ひと歌心』(新潮文庫)で歌の魅力について、こんなふうに書いている。確かにそうだと思う。私もこの『冬景色』の歌詞を深く考えずに歌ってきた。私とすれ違った女性はどうだったのだろうか。

 言うまでもなく、12月は1年の終わりの月である。昨年から続くコロナ禍のため、あまり外出をしていない。多くの人が同様の生活を送っているだろう。それでも時間は駆け足で通り過ぎていく。新聞には今朝も嫌なことがいろいろ載っている。特に建設業の受注実績を示す国の基幹統計を国土交通省が書き換えていた問題、学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題の裁判、大手旅行会社HISの子会社によるGoToトラベル不正受給問題などが目についた。 

 中でも森友関係では改ざんを強いられ自殺した財務省近畿財務局職員赤木俊夫さんの妻雅子さんが国に賠償を求めた訴訟で、国側はこれまで否定してきた賠償責任を一転して認め、裁判はこれで幕引きになるという。大阪地裁であった訴訟手続きで国側の弁護士は、雅子さんの顔を一切見ずに1億700万円の損害賠償請求を「認諾する」と伝えたという。この結果、赤木さんが自死に追い込まれた経緯など、詳細な事実関係は不明のままに裁判は終結するといい、雅子さんは「ふざけんなと思います。なぜ夫が亡くなったのかを知りたいと思って始めた裁判。お金を払えば済む話ではない」と語った。冬の霧は晴れても、もやもやとした気持ちは消えない。

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写真 霧が立った調整池の風景(最後の1枚は霧が晴れた後)

2083 人間を笑う年の暮 世界に広がる犯罪地図

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 12月もきょうで10日。残すところことしも21日になった。年の暮である。昨年から続くコロナ禍。南アフリカで見つかった新変異株オミクロンが世界的に拡大し、世界中で新規の感染者が増え続けている。一方の日本。第5波が落ち着き、いまのところ感染者数も少ない状態だが、揺り戻し、第6波を心配する声も少なくない。そんな歳末のひととき正岡子規(1867~1902)の句を思い出し、冷静になろうと考える。

 人間を笑うが如し年の暮

 子規がこの句を作ったのは、1898(明治31)年で、31歳の時だった。脊椎カリエスの凄まじい痛みに耐えながら句作に没頭した子規。4年後にはこの世を去るのだが、ユーモアセンスあふれた句も少なくない。この句もその一つだ。コロナ禍におびえる私たちのことを指しているように思えてしまう。天野祐吉は、この句について以下のように読んでいる。

 わははははははは、
 馬鹿だねえ、人間ってやつは。    
 あははははははは。   
 そうですね、あなたもわたしも、    
 わははははははは。    
 あははははははは

          『笑う子規』(ちくま文庫

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 手元に一冊の詩集がある。2009年に旅立った詩人、飯島正治さんの『朝の散歩』(風心社)。26の詩が盛り込まれた詩集の中ほどに題名にもなった「朝の散歩」という詩がある。その中にこの詩人の憂いが書かれている。それは今の世界をも覆う閉塞感といっていい。

 私の前を歩く小さな犬のコロが
 ときどき振り返り私の歩みをせかす
 そんなに急ぐなよ 疲れるよ
 梅雨空の早朝 日課の散歩だ

 お前が家に来て
 地球が太陽をひと回り その間も
 海や陸地は微熱を出し続けている。
 偏西風に乗って来る汚染微粒子のせいか
 花粉症が治っても鼻の奥が変なのだ
 だからお前と同じようにくんくんしている

 テロや核問題や殺人
 今日の朝刊も犯罪地図を描いている(下線はブログ筆者)
 他の群れを支配したいという動物の
 本能を持ったまま脳を肥大化させたヒト
 自分さえいま良ければのエゴイスト

 私の周りの狭い地図のなかでも
 約束を反故にされたり
 思いが伝わらなかったり
 そういうことが重なると気が滅入るのだ
 霧雨が降りてきて暗い
 近道して家に帰ろう

 お前も犬の欲望を生きている
 牛乳やささ身には目がないし
 ときどき威張って吠える
 けれど一片の小ざかしさもない

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 朝刊を広げる。詩人が嘆くように、世界と日本の犯罪地図が描かれている。独裁者による国家的犯罪は目を覆うばかりだ。それだけではない。わが日本では、前の衆院選で落選した政治家が代表を務める政治団体がコロナの雇用助成金を受け取った話や私大理事長の巨額脱税容疑など、小ざかしい人間の欲望をえぐった記事も目に付く。2021年12月。まさに「人間を笑うが如し年の暮」といっていい。

 そんなざわめく気持ちを落ち着かせてくれる風景を見た。9日、暮れ始めたころの南西の空だ。低い位置に金星(宵の明星)が輝き、その左斜め上に三日月があり、さらにその上に寄り添うように木星が接近していた。人間界の犯罪地図とは無縁の、この天体ショー。朝の散歩の詩人も、どこかの星から見ていたのかもしれない。

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2082 コロナ禍続く年の暮れに 笑顔なきゴッホとベートーヴェン

 


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 2020年から続いているコロナ禍。間もなく2年になる。日本ではワクチン接種が進み、徹底した対策によって第5波が急速に収まりつつあり、見通しは明るいと思ったのは早計だった。南アフリカで見つかった新変異株、オミクロンが世界的に拡大し、成田から入国したナミビアの外交官が変異株に感染していたことが判明し、2例目も見つかった。揺り戻し、第6波を不安視する声が少なくない。そんな時、私はベートーヴェン(1770~1827)の「交響曲第5番・運命」を聴き、東京都美術館で開催中の「ゴッホ展」を見て「負けるものか」という思いになった。芸術は心の拠り所になるのだろうか。

 偉大な2人の芸術家に共通するのは何か。笑い話ふうに言えば、笑顔がないということだろうか。ベートーヴェンゴッホにも笑顔は似合わないし、2人が笑った顔を想像するのは難しい。ジャズピアニストとして知られる山下洋輔は「要は人間の本性だ。つまり、ベートーヴェンは笑わないのである。ひたすら、あの巨頭を振り立てて、叩き、たたみかけ、押しまくり、おどかし、また叩く。(中略)ベートーヴェンといたらさぞ窮屈だったろうと思う」(音楽の手帖『ベートーヴェン』)と書いている。一方のゴッホも晩年、精神の病に侵され、苦悩のうちに自死を選んだ。2人にとって、笑いとは縁がなかったのだろうか。それは文献では分からない。だが、笑いのない2人が残した音楽と絵画は、私たちに「生きる希望」を与えてくれるのだ。

ゴッホ展」はコロナ禍のため予約制になっている。だから先日行った東京駅前の三菱一号館美術館同様、ゆっくりと鑑賞する時間を持てるかと思った。それは当てが外れ、混雑した普段の日本の美術館の様相を示していた。著名な絵の前で人だかりができ、なかなか絵の前に近づけない。顕著だったのは、「夜のプロヴァンスの田舎道」だった。南仏滞在中の最後に描かれたとみられるこの作品は縦型のキャンバスで、真ん中に糸杉を配し、右上方に三日月、左上方には明るさの異なる2つの星が輝いている。この絵はプロヴァンスで見た風景に画家自身の想像を加えたといわれ、ゴッホの手紙にあるように「もっと心を高揚させ、もっと心の慰めになる自然を生み出した」傑作といえる。私は一枚一枚を見ながら、コロナ禍で沈んでいた気持ちが少し明るくなるのを感じた。それが笑わないゴッホの力なのだろうか。

  今回のゴッホ展に展示されたゴッホ作品の多くは、オランダの収集家、ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869~1939)が集めたものだ。ゴッホが不遇のうちに亡くなったあと、その作品に深い精神性と人間性を感じた彼女は、夫で実業家アントンの協力を得てゴッホ作品を集中的に購入し、クレラー=ミュラー美術館を開館し、初代館長を務めた。

 そしてベートーヴェンである。詩人で劇作家のグリルパルツァー(1791~1872)は、友人ベートーヴェンについて弔辞でこんなふうに述べている。

《かれは芸術家であった。しかし、言葉の最高の意味において人間であった。もし君たちが善と美の正しい結びつきに迷うことがあったら、あの男のことを思い出したまえ。偉大な仕事をなしとげ、ついぞ悪意というものを持たなかったあの男を……》

 ベートーヴェンに関してはさまざまな文献に書かれているので、いまさら追加することなない。ただ、56年の生涯は苦闘の連続だった。それでも、ベートーヴェンの音楽はゴッホと同様に私たちに不思議な力を与えてくれる。そう、人生は苦悩が続いてもいつかは歓喜する日がやってくると信じよう……。

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 写真

1、近所の公園で。ゴッホの絵のような風景

2、ゴッホの「夜のプロヴァンスの田舎道」(ゴッホ展図録より)

3、黄色く輝いた上野公園の銀杏。

4、雨上がりの後、地図を描いたようにたまった落ち葉



2081 寒気の中でも凛として咲く 香り優しき水仙の花

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               (庭先に咲いた水仙

 庭先のスイセンの花が咲き始めた。この花は「水仙」(このブログでは一部を除き、以降「水仙」)と漢字で書きます)と書いたのを音読したものだそうだ。昔は「雪中花」(せっちゅうか)と呼んだこともあったという。文字通り雪の中でも咲くため、こんな風情のある呼び方をしたのだろう。『新日本大歳時記 冬』(講談社))には「寒気の中に凛として咲き、しかも、可憐な花の風情は、日本人の心情に適うものがあるようだ」と書かれており、日本人にはなじみが深い花といえるようだ。

 牧野富太郎によると、水仙は中国から日本に伝来した。しかし原産地は中国ではなく、大昔に南ヨーロッパの地中海地方から中国へ渡り、さらに日本へとやってきたという。中国ではこの花が海辺でよく育つため、俗を脱している仙人に擬えて水仙と名付けられた(『植物知識』講談社学術文庫)ようだ。ヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』(草思社)の中にも、ボーデン湖(ドイツ、オーストリア、スイスの国境に位置する湖)のほとりで暮らしていた当時描いたに水仙の水彩画が載っている。『花の香り』という詩もあり、「スイセン」については以下のよう印象を記している。

 「スイセンの香りは」
  ほろ苦いけれど 優しい 
  それが土の匂いとまじりあい 
  なま暖かい真昼の風に乗って 
  もの静かな客人のように窓から入ってくるときは。
  私はよく考えてみた―― 
  この香りがこんなに貴重に思われるのは 
  毎年私の母の庭で
  最初に咲く花だったからだと。

 これまで、私は水仙の香りを嗅いだことはない。この詩を読んで、あらためて庭先の花のにおいを嗅いでみると、詩と同様の印象を受けた。牧野の本にも、よい香を放つと書かれており、水仙は優しい香りなのだ。

 水仙にさはらぬ雲の高さかな 正岡子規

 子規の句のように、上を向くと青空の中に浮かぶ雲がよく見える。空気が乾いていて、透明感のある季節である。一方、新聞を見ると、インドのニューデリーでは大気汚染が深刻で、すべての学校が閉鎖になり、在宅勤務が奨励されているという記事が出ている。スモッグで視界が悪くなっている街の写真も掲載されている。中国の首都北京でも毎年冬になると微小粒子状物質PM2・5に覆われることが通例になっている。それだけではない。目には見えない新型コロナウイルスがこの世界を覆っている。南アフリカで見つかったオミクロンという新しい変異株対策のため、日本政府は全世界から外国人の入国を30日午前零時から1カ月原則停止すると発表した。変異株の詳しい実態はまだ不明だから不安感は増すばかりだ。こんな時こそ、雪の中でも凛と咲き続ける水仙のような強さを持ちたいと思う。(開催が迫っている北京五輪に黄色~赤信号が灯ったといえる事態ではないか)

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                (ヘッセの水彩画・スイセン)    

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             (庭先の皇帝ダリア)

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              (夜明けの調整池)

※お知らせ このブログ名「新・小径を行く」は2078回から以前の「小径を行く」に戻しております。よろしくお願いいたします。

 

2080 秋から冬への風景 点描・美しい自然の移ろい

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                      (千葉県鴨川市の四方木不動の滝・雄滝)

 今年も残すところ、36日になった。カレンダーを見たら2021年という西暦のみのものがほとんどで、西暦とともに「令和3年」と併記されたのは1つだけだった。現行のグレゴリオ暦になって148年(日本では1872・明治5年12月2日=旧暦=の翌日を、明治6年1月1日=新暦グレゴリオ暦の1873年1月1日と、太陰太陽暦からグレゴリオ暦に改暦)。西暦=グレゴリオ暦が定着したといっていい。その中で旧暦の七十二候は日本の自然現象を観察するうえで、捨てがたい伝承だといっていい。晩秋から初冬、コロナ禍の中で見た美しい風景を、少しだけ紹介してみる。

 今朝、散歩をしていて調整池の北側斜面に霜が降りているのを見た。七十二候では「霜降」という候があり、「新暦ではおよそ10月23日から10月27日ごろ」という解説書きがある。農作物にとって大敵といわれる霜。北海道北部では大雪が降ったというから、こちらでも霜が降りても不思議ではない。太陽と反対側の西の空は、昨24日に続いて、ピンク色に染まっている。「ビーナスベルト」と言っていい現象だ。スマートフォンで撮影するため手袋を取ると、手先がかじかむ。

 先日、あまり知られていない滝を見に行った。房総の鴨川と聞けば、多くの人は海岸を連想するだろう。だが、一部は標高300メートル前後の房総丘陵に属している。そこに幅8メートル、落差10メートルの「四方木不動の滝」(よもぎふどうのたき)という、小さな滝がある。これは雄滝(向かって右側)で、その左側にはもっと小さいが雌滝がある。県道の駐車場から約20分山道を歩くと小さな不動尊を祭ったお堂があり、ここから数十メートル下ると滝の音が聞こえてくる。それが四方木不動の滝だ。知る人ぞ知る滝らしく、私たち家族以外に人影はない。滝の音だけが山の中に響いている。

 私の家近くの公園に植えられているメタセコイアが落葉直前となり、赤く色づいた。また、銀杏の葉も負けずに黄色く輝いている。メタセコイアは以前のブログで書いた通り「生きた化石」ともいわれるそうだ。天を突くような伸び伸びとした姿は美しく、好ましいと思う樹木の種類に入る。もちろん銀杏も嫌いではない。札幌大通公園、神宮外苑の銀杏並木は心に焼き付いている。

 世界的に猛威を振るっているコロナ禍。日本は第5波が収まってから、新規の感染者は急減している。海外では感染の再拡大傾向が続いているだけに、日本のこの現象は歓迎すべきことといえるだろう。それにしても急減の原因はよく分からず、第6波が来ることを不安視する声もある。滝の帰り、私は12月になっても感染再拡大がないことを祈って不動尊に手を合わせた。

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          (四方木不動の滝。左が雌滝、右が雄滝)

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           (色づいたメタセコイア

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           (道路わきの銀杏も黄色に)

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           (銀杏の大木の間から青空が)

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            (冬霧が立った調整池)

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           (夜明け前のビーナスベルト現象)

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            (夜明け前のビーナスベルト現象)

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           (夜明け前のビーナスベルト現象)

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            (調整池の北斜面に霜が)

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           (四方木の滝入り口にある不動尊

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2079 せめて口笛を  人生は短し、芸術は…

      

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 ピアノやヴァイオリンは本当に素敵だと思うけれど、私には手が出なかった。

 あくせく働くだけの私には、今まで、口笛をものにするのが精一杯。

 もちろん、それとてまだ名人芸からは程遠い。何しろ芸術は長く、人生は短し、だ。

 でも、口笛一つ吹けない人は可哀想だ。私など、おかげでどんなに多くを手に入れたことか。

 前々から、私は堅く心に決めたものだった、この道一筋、一段また一段と上っていこうと。

 目指す究極の心境は、自分も、あなた方も、世間の人たちも、みんな、口笛で吹き飛ばせるようになること。

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 これは、ヘルマン・ヘッセの「口笛」という詩だ。この詩を訳した音楽評論家の吉田秀和は「私も、結局、身につけるといって、口笛しかやれそうもないけれど、私の口笛は、ヘッセのアイロニー、ユーモア、その下を底流する諦念のペシミズムには比べるべくもない」(『音楽の光と翳』中公文庫)と、書いている。私といえば、口笛は適当に吹くだけで、人に聞かせることはできない。さらに、ピアノやヴァイオリンだけでなく楽器をものにする人は異次元の世界にいるように思う。先ごろ行われたショパン国際コンクールで2位と4位になった反田恭平さんと小林愛実さんの本選での演奏(ショパンピアノ協奏曲第1番 ホ短調)をYouTubeで見て、それを確信した。

 ヘッセはこのような詩を書いている。しかし、実際には子どものころからヴァイオリンを弾き、身近に音楽がある生活を送った。フォルカー・ミヘェルス編・中島悠爾訳『ヘルマン・ヘッセと音楽』(音楽之友社)にそのことが詳しく書いてある。ヘッセは後半生、執筆以外の時間はほとんど自宅の庭仕事をしながら過ごしたという。ヘッセにとって、庭仕事は「魂を解放させてくれる」大事な時間だったといわれる。この時、ヘッセは口笛でどのようなメロディーを奏でていたのか……。

 ハーモニカを趣味にしているという知人がいる。どのようないきさつでこの小さな楽器に親しむようになったか、聞いたことはない。忙しい人生を送ったこの人にとっても、ヘッセの口笛と同様、ハーモニカは心の友になったのだろう。この人はかつての強豪高校と知られる高校の野球部員で、内野のレギュラーだったそうだ。野球部の仲間たちは高校卒業後それぞれの道を歩んだが、毎年一度は集まり旧交を温めてきた。当初20人近いメンバーがいた。

 しかし、年月が過ぎるとかつての球児たちも櫛の歯が欠けるように次第にその数は少なくなり、今年集まるのはわずか3人のみ。まさに人生は短し、を感じる。3人だけの集まりで、知人は友人2人にハーモニカのメロディーを聴かせるのだという。

 

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2078 アナログレコードを聴く 新鮮に響くハイドン・セット

     

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 名前も知らないし、どんな人かも知らない。ただブログを読んでいると、女性と思われる。拙ブログにコメントをいただいたこの人のブログを読んでいたら、「アナログのポータブルも悪くない」と題して、ポータブルのレコードプレーヤーを購入してレコードを聴いた話が書かれていた。詩的な文章で私にはとても書けない。感心して読んだあと、そういえばわが家にも久しく聴いていないレコードが何十枚かある、アナログレコードへの一時回帰(やや大げさですね)も悪くない、と思った。

 世間一般と同様、CD(コンパクトディスク)派に転向してかなりの年月が経ち、アナログのレコードプレーヤーはとうに処分して手元にはない。かつて音楽好きの同僚に感化され、やや高価と思えるオーディオセットをそろえたことがある。レコードプレーヤーもその中にあった。しかし、いつしかレコードをかけることはなくなり、プレーヤーは無用の長物、廃棄処分へのコースをたどった。レコードだけは捨てるのが惜しかったのか、廊下の隅にある本棚に入れて保存した。しかしそのまま取り出すことはなく、いつか埃をかぶる存在になった。

 最近、冒頭に紹介したアナログプレーヤーのブログを読んで、ものは試しと通販でオーディオテクニカ(元々はレコード針のメーカーとして知られる)のレコードプレーヤーを購入した。手ごろな値段だった。レコード盤をセットしてみると、CDというデジタルの音を聴き慣れた耳にはアナログの音はとても新鮮に聴こえたのだ。加齢とともに耳が悪くなっているのだが、包み込むような温かさが伝わってくる、というのは私の勝手な受け止め方だろうか。

 セットしたのは、スメタナ四重奏団(1943年から1989年まで存在したチェコ弦楽四重奏団チェコの作曲家スメタナドヴォルザークヤナーチェクのほかベートーヴェンモーツァルトの曲の録音で知られる)の「PCMによるハイドン・セット―3」(発売・日本コロンビア)で、入っているのはモーツァルトの『弦楽四重奏曲第17番変ロ長調《狩》KV458』と『同15番ニ短調KV421』 の2曲である。

 モーツァルトは1782年から85年にかけて6曲の弦楽四重奏曲を書いている。ハイドンの《ロシア四重奏曲》(1781年)に影響を受けたといわれ、《ハイドン四重奏曲》とも呼ばれている。私のレコードはスメタナ四重奏団による6曲のうちの2曲で、1972年に来日した際録音した49年前の古いレコードだ。ジャケットには「録音方式の革命―PCM録音」と書いてあり、いわゆるデジタル録音なのだそうだ。

 当時としては「世界初の商用デジタル録音」といわれ、それまでの録音方法より格段にクリアな音で録音でき、演奏者の技量もはっきり分かるという事情もあってコロンビアの録音技術者は、評価の高いスメタナ四重奏団による録音を希望、それが実現したという。デジタル録音盤だから、この10年後の1982年に登場したCDとアナログ盤との中間程度の音といえようか。ジャリジャリという、気になる雑音もない。

 ハイドン・セットは、実際にモーツァルトもヴァイオリンを担当し、ハイドンの前で演奏されたことが高橋英夫著『疾走するモーツァルト』(新潮社)に書かれている。演奏を聴き終えたハイドンモーツァルトの父親、レオポルトに「私は正直な一人の人間として、神を前にして申しますが、あなたの御子息は私が名実ともに知っている最も偉大な作曲家です。味わいがある上に、きわめて大きな作曲の知識も身につけています」と語りかけたという。外は雨。散歩の人影もない。私はハイドンになったつもりで、レコードを聴いている。

 

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2077 絶望を託された私たち 上間陽子『海をあげる』

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《私は静かな部屋でこれを読んでいるあなたにあげる。私は電車でこれを読んでいるあなたにあげる。私は川のほとりでこれを読んでいるあなたにあげる。この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。》

 上間陽子著『海をあげる』(筑摩書房)は、沖縄での日々の暮らしをつづったノンフィクションだ。これはその終わりの文章。本のあとがきで上間は「この本を読んでくださる方に、私は私の絶望を託しました。だからあとに残ったのはただの海、どこまでも広がる青い海です」と記している。上間の私たち本土に住む人々への問いかけに、どう答えればいいのだろうか。

 沖縄県で生まれた上間は現在、琉球大学教育学研究科の教授。那覇市首里城近くに住んだことがあるが、現在は普天間基地の近くに住んでいる。一時東京で暮らしたあと、沖縄に戻り、未成年少女たちの支援と調査を続けている。この本は幼い娘との暮らしや、自身の離婚のこと、性暴力に苦しんだ少女や風俗業界で働く若者らとの対話、普天間から辺野古への米軍基地移転問題等々、現在沖縄が抱えている実態を12の話に分け、研ぎ澄まされたような文章で表現している。

 最近、このような「はっとする」文章を読んだことはない。難解な言葉は使わず、冗漫でもない。読んでいて、作者の優しい人柄が伝わる。どうして、このような文章が書けるのかと、思う。本の内容は沖縄の現実を反映したもので、読み進めているうちに考え込むことが少なくなかった。社会調査とはいえ、暗い現実の中で生きる少年、少女、あるいは青年たちに向き合い、話を聞くことができる作者は、どんな人なのかと私は思う。

 12の短い物語の真ん中あたりに「三月の子ども」という話がある。その中に上間のゼミの卒業生で小学校の教師になった女性のことが書かれている。春休みに会いたいと連絡をくれた彼女は3月(新型コロナ感染症の拡大によって安倍内閣は突然全国の学校を一斉休校にした)、上間の家にやってきて涙を流しながら学校の様子を話す。

 コロナ禍、突然の休校、子どもたちとの別れの時間を奪われた悲しみを泣きながら話す教え子に、上間は「泣いている彼女にかける言葉はひとつもなく、私たちがいま奪われているのはなんだろうと考える。子どもの日々を知らず、家族の生活を知らず、教師の仕事を知らない誰かの決定によって、ひととひととが重ねる時間が奪われる。4月から1年間、関係を編み続けた子どもと教師がお互いのことを慈しみあう、そういう3月が奪われる。いままでの苦労のすべてが果報に変わるこの時期に、子どものいない学校に教師は通う」と書いている。

 この本は教育者という視点だけでなく、沖縄で幼い子どもを育てる母親の視点でも書かれている。保育園に通う娘とのやりとりが特に心に響くのだ。

 冒頭の言葉は、普天間基地の移転先として青い海に土砂投入が続く辺野古の海を指している。そこは絶望の海になりつつある。静かな希望の海に戻ることはあるのだろうか。

 ※この作品は、「2021年ノンフィクション本大賞」(ヤフーニュースと本屋大賞が共催。全国の書店員の投票で選出)を受賞した。