小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1917 8年間に6000キロを徒歩移動 過酷な運命を生き抜いた記録

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 今年5月、このブログで『今しかない』(埼玉県飯能市の介護老人保健施設、楠苑・石楠花の会発行)という小冊子を紹介した。この中に「「私の人生は複雑で中国に居たんです。抑留されて8年間いました。野戦病院だったから、ロシアの国境近くから南の広東まで6000キロ歩いて移動したこと、助け合いながら一緒に歩いた友達を思い出します」と書いた女性がいた。この女性が記憶を頼りに記した「中国抑留の記録」を読んだ。75年前の8月、突然それまでの人生が暗転し、それから8年間中国に残り、共産党軍(八路軍人民解放軍)と行動を共にした記録である。「中国革命に参加して」という副題が付いた記録を読むと、過酷な運命と闘いながら懸命に生き抜いた若い女性の姿が蘇るのである。

 私の手元に古川万太郎著『凍てつく大地の歌 人民解放軍の日本人兵士たち』(三省堂)という本がある。同書や様々な資料によると、75年前、日本が第2次世界大戦(太平洋戦争・日中戦争)で敗戦した際、中国には軍人・軍属、民間人合わせて358万人が残っていた。多くの人々は帰国したが、特に旧満州(東北地方)ではソ連の侵攻で大混乱に陥った。ここには当時関東軍を除いて約150万人の日本人がおり、避難途中などに18万人が死亡した。うち7万8000人が開拓団関係者だった。親とはぐれ、中国残留孤児になった子どもたちも少なくなかった。さらに共産党軍(八路軍=人民解放軍)と国民党軍による中国の内戦で八路軍に1万人前後の日本人が協力、3000人前後が兵士になったという。  

 前置きが長くなった。「中国抑留の記録」を書いたのは渋谷(旧姓遊佐)寛子さん、93歳。75年前の8月、18歳だった寛子さんはソ連国境に近い旧満州チャムスの第134師団司令部参謀部に事務員として働いていた。8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州に侵攻、寛子さんは出勤した司令部で書類焼却の作業に従事、その後司令部の軍人たちと行動を共にした。三江省公署(旧満州国にあった三江省の役所)に勤務していた父親は軍に召集され、長兄は在朝鮮の軍の兵士として入隊していた。残る母親と弟2人、妹2人の計5人は、避難命令が出たため慌ただしくハルビンを経て新京(現在の長春)へ避難、ここで除隊して家族を探していた父親と合流、さらに職を求めて撫順へと避難した。その途中で母親は末の弟を生んだが、この子は生後10日で亡くなった。  

 寛子さんの一家の家族構成は両親、長兄、寛子さん、妹2人、弟3人(末弟を含む)の計9人だった。しかし、避難途中に両親、妹たち、弟たち合わせて6人がチフス、栄養失調で命を落とし、生き残ったのは軍隊にいた長兄、中国に残留した寛子さん、1人になって函館に帰った妹のチヨさんの3人だけになっていた。

 チヨさんの記録には、チフスで衰弱した母親にリンゴを食べさせると、「おいしい、おいしい」と言い、赤い涙を流しながら亡くなった、という悲しい思い出が綴られている。戦争は、家族の運命を大きく変えたてしまうことは、寛子さん一家の悲惨な姿を見れば明らかだろう。  

 司令部と行動を共にした寛子さんは、チャムスから松花江を船でハルビンの東方180キロの方正県(後に寒さと飢えのため約4500人の避難民が命を落とした。現地にはこれらの人々を慰霊する日本人公墓があり、かつて私も取材で訪問したことがある)に移動した後、司令部の軍人はソ連の捕虜となった。

 女性は危険だという理由で寛子さんら女性は陸軍病院へ見習い看護婦(現在は看護師と表記)として配属され、ソ連の船で再びチャムスへと戻った。その後、新しく開設された収容所病院(ソ連の厳しい監視下にあり、周囲は鉄条網で張られ、銃を持ったソ連兵が立っていた)で負傷兵らの看護に当たったが、完治した傷病兵はソ連軍によってシベリアに抑留されていった。収容所病院はその後、ソ連から中国八路軍の管轄下に入り、寛子さんはチャムス市の伝染病院に配置換えになった。この後寛子さんの運命は八路軍に握られた。  

 軍とともに北から南へと移動する日々が続くのだった。病気で入院したこともあるが、精神力が強かったから生き延びることができた。いずれも徒歩での移動、行軍だった。この間、一度出た町へと出戻ることも珍しくなかった。国民党軍の機銃掃射も何度も受け、12月の雪中行軍では高熱で倒れた。そうした命の危機を何度も乗り越えた。中国抑留は、同様の身になった日本人との出会いと別れの繰り返しでもあった。その足跡は次のようになる。

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 1946年4月6日、チャムス市立伝染病院配置→47・3、胸部疾患で入院→47・5強制退院・前線へと出発→同7月、牡丹江~図門経由、輝南県・看護学学習→同10月、東豊・機銃掃射を受ける→同12月、盤石に向かう途中、雪中行軍のため熱発、48年1月から2月まで朝暘鎮で療養→48・2、朝暘鎮を出発、山城鎮に・第3兵站病院の看護婦班長になる。

 薬局の調剤員に欠員が出たため女学校出の寛子さんは院長らの要請で調剤員となり、独学で調剤を勉強する→48・5、山城鎮を出発・岔路河(ツアロホ)~雙陽~岔路河(戻る)~吉林市~雙河鎮~梅花口~四平街市~木里土~彰武~通遼~彰武(戻る)泡子~山海関~天平荘に→48・12、天平荘出発(北京周辺の戦闘で馮家台、俵口へ接収工作のため行軍同月末)馮家台へ→49・3、唐山~天津~徳州~開封鄭州許昌南陽~6月樊城県(湖北省)→49・9、襄陽→沙市→常徳市→桃源→沅陵→辰渓(10月1日、中華人民共和国が誕生)→衡陽市→桂林市→柳州市→南寧市(12月着)

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 いくつか知った地名もあるが、知らない町がほとんどだ。寛子さんが南寧市着後国民党の病院跡で深夜の1時、2時までの激務の中、上部からの指示で同じく中国に残って共産軍のために働いていた元日本軍の軍人、渋谷清治さん(埼玉県飯能市出身)と結婚した。50年2月10日のことである。2人が所属していたのは第4野戦軍中南軍区第4衛生部で清治さんは本部付き、寛子さんは第3兵站病院に勤務していたから、新婚と言っても別居結婚だった。  

 その後も寛子さんは1カ所にとどまることない。海南島(50・3)→海康→柳州市→桂林市→衡陽市へと移り、同年7月ようやく清治さんと同居を始めた。この年12月に生まれた長男が翌年の9月に急死する悲しみを味わった。同じ月には病院で昇進した寛子さんは湖南省醴の病院に異動、ここで次男の進さんを出産する。52年6月15日のことだった。産後2週間で復帰、朝5時半に家を出て夜9時に帰宅する過酷な日々を送る。

 53年4月、中国政府から渋谷さん一家に帰国命令が出て、長沙~武漢を経由、上海からの7月4日の帰国船「白山丸」で出港、7月6日舞鶴に帰国した。埼玉県飯能市の夫の実家に引き揚げたのは7月10日のことだった。(寛子さんは6000キロを徒歩で移動したという。東京と北海道の宗谷岬は片道で1500キロで、6000キロといえば東京~宗谷岬間を徒歩で2回往復したことになるという気が遠くなるような距離である)

 中国に残り、解放戦争に協力した日本人は、新中国(中華人民共和国)の誕生によってその任務は終わったはずだった。しかし当時の日中関係は、中ソを除外して締結された対日平和条約(1951年9月調印、52年4月発効)や台湾が中国を代表する政府とする日台条約締結により厳しく対立。そのため、残留日本人の帰国は容易に実現しなかった。

 こうした中でジュネーブでの日本赤十字と中国紅十字代表との接触(50年夏)、政治家として戦後初めて訪中した帆足計、高良とみ、宮腰喜助(いずれも緑風会所属)の3人が中国側に残留日本人の帰国促進を要請したこと(52年5月)を経て、ようやくこの問題解決へと動き出し、日赤をはじめとする日本側3団体の努力と中国政府の協力で53年3月から集団帰国が再開されたいきさつがある。  

 寛子さんの記録には家族とのあっけない別れのこと、病院で一緒に働いた日本人たち(看護婦や軍医)のこと、薬局勤務中に世話になった中国側の人々のことなど、記憶の限り書かれている。まさに「私の人生は複雑で中国に居たんです」と冊子に書いた通りの、詳細な行動の記録である。

 寛子さんが帰国したのは26歳の時である。現代でいえば18歳~26歳という年齢は、青春真っ盛りの、人生で一番輝く時期といっていい。「人に歴史あり」というが、寛子さんは現代の若者とかけ離れた青春時代を送った。その記録は、20世紀という激流の中を苦闘しながら泳ぎ抜いた一人の女性の生きた証なのである。帰国後、67年。寛子さんは今、楠苑で静かな日々を送っている。  

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