小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2078 アナログレコードを聴く 新鮮に響くハイドン・セット

     

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 名前も知らないし、どんな人かも知らない。ただブログを読んでいると、女性と思われる。拙ブログにコメントをいただいたこの人のブログを読んでいたら、「アナログのポータブルも悪くない」と題して、ポータブルのレコードプレーヤーを購入してレコードを聴いた話が書かれていた。詩的な文章で私にはとても書けない。感心して読んだあと、そういえばわが家にも久しく聴いていないレコードが何十枚かある、アナログレコードへの一時回帰(やや大げさですね)も悪くない、と思った。

 世間一般と同様、CD(コンパクトディスク)派に転向してかなりの年月が経ち、アナログのレコードプレーヤーはとうに処分して手元にはない。かつて音楽好きの同僚に感化され、やや高価と思えるオーディオセットをそろえたことがある。レコードプレーヤーもその中にあった。しかし、いつしかレコードをかけることはなくなり、プレーヤーは無用の長物、廃棄処分へのコースをたどった。レコードだけは捨てるのが惜しかったのか、廊下の隅にある本棚に入れて保存した。しかしそのまま取り出すことはなく、いつか埃をかぶる存在になった。

 最近、冒頭に紹介したアナログプレーヤーのブログを読んで、ものは試しと通販でオーディオテクニカ(元々はレコード針のメーカーとして知られる)のレコードプレーヤーを購入した。手ごろな値段だった。レコード盤をセットしてみると、CDというデジタルの音を聴き慣れた耳にはアナログの音はとても新鮮に聴こえたのだ。加齢とともに耳が悪くなっているのだが、包み込むような温かさが伝わってくる、というのは私の勝手な受け止め方だろうか。

 セットしたのは、スメタナ四重奏団(1943年から1989年まで存在したチェコ弦楽四重奏団チェコの作曲家スメタナドヴォルザークヤナーチェクのほかベートーヴェンモーツァルトの曲の録音で知られる)の「PCMによるハイドン・セット―3」(発売・日本コロンビア)で、入っているのはモーツァルトの『弦楽四重奏曲第17番変ロ長調《狩》KV458』と『同15番ニ短調KV421』 の2曲である。

 モーツァルトは1782年から85年にかけて6曲の弦楽四重奏曲を書いている。ハイドンの《ロシア四重奏曲》(1781年)に影響を受けたといわれ、《ハイドン四重奏曲》とも呼ばれている。私のレコードはスメタナ四重奏団による6曲のうちの2曲で、1972年に来日した際録音した49年前の古いレコードだ。ジャケットには「録音方式の革命―PCM録音」と書いてあり、いわゆるデジタル録音なのだそうだ。

 当時としては「世界初の商用デジタル録音」といわれ、それまでの録音方法より格段にクリアな音で録音でき、演奏者の技量もはっきり分かるという事情もあってコロンビアの録音技術者は、評価の高いスメタナ四重奏団による録音を希望、それが実現したという。デジタル録音盤だから、この10年後の1982年に登場したCDとアナログ盤との中間程度の音といえようか。ジャリジャリという、気になる雑音もない。

 ハイドン・セットは、実際にモーツァルトもヴァイオリンを担当し、ハイドンの前で演奏されたことが高橋英夫著『疾走するモーツァルト』(新潮社)に書かれている。演奏を聴き終えたハイドンモーツァルトの父親、レオポルトに「私は正直な一人の人間として、神を前にして申しますが、あなたの御子息は私が名実ともに知っている最も偉大な作曲家です。味わいがある上に、きわめて大きな作曲の知識も身につけています」と語りかけたという。外は雨。散歩の人影もない。私はハイドンになったつもりで、レコードを聴いている。

 

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