小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1957『今しかない』が第2号に 哀歓の人生模様

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 朝6時の気温は4度。昨日(氷点下1度)より5度高い。東南の空に、明けの明星(金星)が輝いている。日本海側では新潟を中心に大雪が降り、関越道で2000台以上の車が一時立ち往生した。一方、太平洋側はカラカラの天気が続き、房総半島の一部では水不足になっている。心まで冷え込む冬の到来……。そんな師走の一日。先日届いた『今しかない』という題の小冊子を読み返し、人生を振り返る時間を送っている。

  

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 この冊子の創刊号(埼玉県飯能市の介護老人保健施設・飯能ケアセンター楠苑・石楠花の会発行)は以前このブログでも紹介した。第2号は40頁で11月20日に出され、この施設の利用者、職員のほか創刊号を読んだ人たちの感想も掲載されている。いずれも短い文章に併せてほのぼのとする挿絵(水彩画)が付いている。描かれた動植物や田園風景、笑顔の人たちを見ていると、なぜか郷愁を感じる。小冊子の発行責任者で石楠花の会代表の斎藤八重子さんは巻頭「自らの生き方を改めて見つめ直すきっかけ」になったと書いているが、短い言葉と文章からは私たちの先輩世代の哀歓の人生模様を読み取ることができ、どれもが味わい深い意味がある。以下はその抜粋と要約です。

 「思い出・子どものころ」

 ※子どものころ、九十九里浜の海がきれいで貝殻を拾って楽しかったです。

 ※横浜にいる時によく歩きました。海が見えたこと、私は瀬戸内育ちだったから印象的でした。

 ※子どものころは2回目の母親だったから、すっきりと行かないから、それで近所から継子なんて言われて辛い思いをしました。

 ※子どものころは、山でクワガタやカブト虫をとったり、ツクシ、セリ、ゼンマイをとったり、川ではサワガニやメダカをとったりと自然の中で遊ぶことが好きでした。でも、一番思い出に残っているのは、自分の背丈よりも伸びた牧草地を走りまわったこと。風が吹くとサワサワと草がゆれて、日の光でキラキラする。それがきれいで、たまらなくゴロゴロと寝転がり、上を見れば青い空、本当に気持ちよかったこと、ずっと心の中に残る思い出です。

 「思い出・青春のころ」

 ※最近ね、3冊目の本をもらったの。本当に懐かしい歌ばっかりで。だから事務長さんに感謝したい気持ちでいっぱいでした。歌詞を思い出しました。懐かしくて、私が会社に入りたての歌ばかりで、寮に入ってみんなで歌ってました。

 ※昔は今のように車の時代じゃないから、自転車で仕事に行ったことを思い出す。帰りに「愛染かつら」の映画を観て暗い中、田んぼの中走って帰った、怖い人が出ないかなって。

 ※死んだ旦那と付き合っていた時が一番楽しかった。のど自慢が好きで、のど自慢荒らしでした。

 「私の思い」

 ※80歳で地元を離れる時、短歌の仲間30人ぐらいで送別会をしてくれました。生まれたところを離れちゃいけません。

 ※「隠悪揚善」。意味は人の欠点をかばい、その長所を褒め上げ、人と付き合う時、寛大な気持ちでよい所を多く褒め上げることです。これは孔子が考えた、人と人との上手なコミュニケーションの仕方です。

 ※戦中戦後は日本のかたが皆同じ思いで生活していました。特攻兵の出陣の前夜の思いを胸に思い出され、熱くなりました。すばらしい!若いころの思い出がずうっーと!特攻兵の記事、何回も何回も読み、泣いてしまいました。時代、今との心の違い……ありがとうございました。(前号の感想)

 ※ドレミファをハニホヘトに変え授業せし師の顔うかぶ終戦記念日

 「特集・感謝」「創刊号に寄せて」

 ※「高齢の母を思う」

 私の母は昭和2年生まれです。幼いころに父を亡くし、母子家庭の母の一人っ子として育ちました。昭和27年に結婚し、私が生まれましたが、父は体が弱く、収入も多く望めず、母が苦労しました。朝は早く起きて新聞配達、日中は土木作業、夜は映画館で仕事をし、幼いころは母の寝た姿はほとんど記憶にありません。

 昭和38年に山陰地方で豪雪がありました。通常は自転車で新聞配達をしていた母は、あの時は歩いて一軒一軒配達していました。途中あまりにも寒く、手足も冷たくなったようで、家に寄ってこたつにあたって再び配達に向かいました。頭巾をかぶり、マスクをし、防寒着をまとった母の姿を思い出すと、悲しいというか今は感謝の気持ちしかわいてきません。

 ※「今しかない」

 14代続いたわが家に息子がかわいい12歳下の嫁を連れてきてびっくりの私たち夫婦。15代目を継いでもらいたい一心でわが家の1年の行事をすべて一緒にやって16年。孫も男の子2人中学生。今ではすっかり責任感があり、夫の体の心配や私の相手、そして床屋をやってくれています。充実した毎日を過ごせることが家族の幸せです。これも社会で縁あって大勢の方々に育てられたものと、感謝しています。

 ※『今しかない』を読んで

『今しかない』を拝読しました。利用者の皆さんはあの痛ましい戦争と厳しい時代を生き抜いた「昭和人」です。幼いころの思い出、若いかりし日の苦労話等たくさんの思い出を胸に、施設での楽しい日々を送られていることと思います。私の胸に強く刺さった活字がありました。齋藤八重子先生の「価値ある人生であったのか」の言葉です。わが人生の弱い所を突かれる言葉です。

 いつも社会の底辺を歩み続けながらも2人の子と6人の孫に恵まれ、小さな幸せを求めつつ歩んできましたが、早いもので孫たちも5人が社会人として巣立ちました。孫たちを桜にたとえれば幼いころの芽生え~花~葉と成長が早かったなと感じています。

 じいちゃんじいちゃんと慕ってくれるうちが花、じいちゃん離れをして葉に成長すると、「じいちゃん」の声が聞けなくなりましたが、成長した孫の姿を見ることが充実感を味わえる時です。人生百年時代、まだまだこれからです。取り返せない日々を大切にお過ごしください。

 ※青葉の目に沁みる季節に世界を揺るがすコロナウイルスの恐怖があるなんて……。こんな折に心和ませる、手作りの冊子にお会いし、感動しています。私も昭和一桁生まれ。とても共感し自分の人生も思い出し、見つめ直すいい機会でした。

 私たち世代は皆さんがお書きの通りの辛い過酷な時代でした。頁をめくるうち何人か知る名前も拝見し、会ってみたい気持ちも膨らんでまいりました。歳を重ねるごとに、生きることの大変さが感じられるこのごろです。人生は長いようで短いものです。私もあっという間の89年が過ぎようとしています。あと幾ばくもない人生ですが、一生懸命生きたいと思っています。

 ※「『感謝』という美しい言葉」

「感謝」という言葉は癒しの力があります。日常のストレスも「感謝します」「ありがとう」の一言で自然と解消していくのを覚えるほどです。『今しかない』は、まさに感謝の言葉を念頭に編集されていることが分かります。それは利用者の方々はじめ地域の皆様、そして離れた地から応援してくださっている方々、親や家族、命の恩人に対しても心から感謝し「ありがとう」と言っています。

 現役の時にいつも考えていたのは「感謝」「ありがとう」という自然な気持ちです。市民の皆様と触れ合うたびに心に深く感じ入る何かがあり、充実した日々だったことを今でも忘れたことはありません。

「感謝」「ありがとう」の言葉がさりげなく使われる社会になってこそ、穏やかで心豊かな人生がどなたにも訪れるのではないかと思っています。皆さん、ともにこの気持ちで生き生きとした日々を送ろうではありませんか。(この冊子の編集に関わっている友人の大島和典さんの文章)

  聞き書きと寄稿からなる手作りの小冊子。最後の頁には「私ハーモニカ休んだことないですよって、先生に言ったら「私はいつも見てますよ」って言っていただきました。目の前で吹いてもらってうれしかった」(90代女性)という言葉がある。同苑には天本淳司さんのハーモニカの演奏で「ハーモニカと一緒に歌いましょう」という催し(コロナで一時中断)をがあり、この女性は、この催しのことを話したのだ。コロナ禍は私たちの生活に大きな影響(もちろん悪い影響)を及ぼしている。女性の楽しみが一刻も早く戻ることを願うばかりだ。

  写真 1、1週間前の早朝の東南の空。三日月と金星が美しい。2、『今しかない』の表紙

 

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