小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1882 『今しかない』 短い文章で描くそれぞれの人生(1)

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 それぞれの人生を垣間見るような思いで、凝縮された文章を読んだ。埼玉県飯能市の介護老人保健施設・飯能ケアセンター楠苑(1997年6月2日開設、定員98名)石楠花の会発行の『今しかない』という44頁の小冊子である。頁をめくるとほとんどの文章が毛筆で書かれ、それぞれにカラーの絵が付いている。

 永劫回帰永遠回帰)という言葉がある。宇宙は永遠に循環運動を繰り返すものだから、人間は一瞬、一瞬を大切に生きるべきだという、ドイツの哲学者ニーチェの根本思想だ。コロナ禍によって世界中で多くの命が失われている。こんな時だけに「今を生きる」「今しかない」という思いを大事にしたい。この冊子はそれを実感させ、生きることの大切さを教えてくれる。心が温かくなる冊子の内容を、2回に分けてお届けする。(一部略してあります)  

 この冊子は、楠苑の利用者や同苑を支えている人たちがどんな人生を歩んできたかを振り返ったもので、斎藤八重子さんが中心になって聞き書きを基に編集したという。私に冊子を送ってくれた友人の大島和典さんは、この施設で月1回開催の「ハーモニカと一緒に歌いましょう」という企画で、ボランティアとしてナレーションを受け持っている。現在、コロナ禍のためこの催しは休止中だが、協力者たちはさまざまな企画を考えており、「今しかない」の冊子も利用者たちとの会話から創刊へと発展したという。  大島さんは、冊子に以下のような文を書いている。(要約)  

 素晴らしいタイトル(「今しかない」)だと思う。このフレーズは、残された人生を意義あるものとし、心豊かに生きなければならないという思いにさせてくれます。歩んできた人生を振り返れば、やり残したことばかりが思い浮かび、時間がもっと欲しい、もっと欲しいという焦りのようなものと、諦めが交錯してくるのです。自分の人生を大きく分けると、こんな風になるのです。(1)学校でもっと勉強しておけばよかったとの反省(2)社会人としてのストレスの数々(3)退職後の生き方の反省=小さく生きるという選択肢もあったはず(4)これまでの人生を振り返り、今しかないという思いが強くなっています。  そして気付いたのは社会に役立つ活動に挑戦することでした。この奉仕活動によって展望が開け、充実した幸せを実感しています。  

 斎藤八重子さんの「この冊子を手に取られた皆様に暖かい想いが届きますように」というあいさつに続き、入所者が話した子どものころの思い出や歩んできた人生、故郷・家族に関する短い言葉が胸を打つ。

「小さいときは、川で遊んだり、やぼくら(やぶ)の中で、タオルでメダカを掬いました」

「母親と2人で暮らしていました。麦畑の草むしりが大変でした。母と2人でやった思い出があります。その『依頼された』お家から母は百円、私は子供だから80円もらいました。だって、父親が居ないんだもん」

「小学生の頃はお茶摘みで届け出を出して学校が1週間休みでした。阿須から狭山まで歩いて行きました』 「小学生の時、友達と一緒にイナゴ捕りをしました。それを食べました。いっぱいとってそれを売って教材なんか買いました。『山形県出身です』」

「私の人生は複雑で中国に居たんです。抑留されて8年間いました。野戦病院だったから、ロシアの国境近くから南の広東まで6000キロ歩いて移動したこと、助け合いながら一緒に歩いた友達を思い出します」

「病院はイヤだ。くすのき苑はいいね。ここが好きだ」

「雪の日の成人式でした。今の様に着飾る人はいませんでした。もんぺをはいて、するめとみかん1つでのお祝い。生まれてはじめての緊張感と覚悟を新たにしたのは、今までの人生で最初で最後です。(中略)おお方の人は亡くなりましたが、現在この世の中に居る人は数える程に……。生涯を通して残しておきたい、あの時代のことが胸にささっています。このことをお話出来ましたことは幸せです」

「昔は健脚で自転車も『ホイ』って乗ったのに、今はひざが痛いわ。でも頑張らないとね。まだまだ長生きしますから」 「いつどうなるか分からない身であれば、家に帰りたい」

「主人の会社に天皇陛下昭和天皇)が来て、正丸峠(飯能市秩父郡横瀬町の境界にある標高636mの峠)に案内しました。その時の写真を2人の子供のために記念にとっていてくれました。主人が優しくて、2人の子供をどこにでも連れてってくれました。昭和30年代から車があって、みかん狩りに行ったり、動物園に行ったり申し分のない主人でした。そんな主人が一晩で亡くなって、脳溢血で幸せが一晩でなくなっちゃった。これからも私1人でがんばらなくちゃ。2人の子供も居るし、私が2人を育てるからね。昼夜と会社の仕事を頑張りました」

「名古屋『実家』の山に行った時、山頂から伊勢湾が見え、反対側は三河湾が見えます。あれが本当にいいところです」 「小学4年生の時、息子が病気になった時、心配で盲腸が破れちゃったの。膿んだのが身体に回っちゃって、永井先生が全部中を出して洗ってくれました。それでも今は元気になって、うれしいです」

「今は大変なこと(コロナ禍)が起こっています。いつもの年と違っています。大変な病気が猛威を振るっています。娘は横浜に住んでいて、ゆっくり話したいのですが、なかなか動けないので少し焦っています。(中略)孫と一緒にジョギングをしてあげたのですが、思うようにいきません。これからも孫と一緒に身体を鍛えたいと思っています」  

 冊子には同苑の職員の利用者に寄せる思いも載っている。

「次に日に全てを忘れてしまおうとも、利用者様が毎日笑顔になれるよう自分も笑顔で毎日すごす」  

 この冊子には、ある特養ホーム職員が「ある女性入所者の悲恋」と題して寄稿している。戦争を知らない若い世代に読んでほしい文章である。以下はその概要。  

 入所者の最高齢の女性がベッドから空に流れる白雲を眺めていた。職員が話しかけると、女性は遠い日の彼のことを思い出していたと言う。彼女は太平洋戦争中、海軍志願の青年に恋をした。しかし何も打ち明けることもできないまま、青年は海軍に入るため横須賀に行ってしまった。そして戦況が悪化し、彼女は彼にまさかのことがあれば生涯悔いを残すと思い、横須賀に面会に行ったという。当時の女性としては思い切った行動である。海軍の制服姿の凛々しい青年と10分だけ会うことが出来たが、ただ何も話せず、泣いているだけだった。別れる時、「武運長久を祈ります」とは言わず、当時としては許されるべき言葉ではなかったが、「どうぞご無事で」と話し、「戦死せず無事に帰ってきてほしい」という思いを伝え、2人は互いに手を握り合った。  彼はその後南の海に消えて(戦死)しまった。だが、彼女の胸には、彼の手のぬくもりと凛々しい姿のままの青年が生き続けているという。(彼女は2019年、100歳で生涯を閉じた)                      

 

                     (続く)  

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