小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2085 それぞれの故郷への思い『今しかない』第4号から

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 よく知られている室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しく歌ふもの」は、『小景異情』という詩の「その2」にあり、望郷の詩句の代表ともいえる。人は年老いるほど、故郷への思いが強くなるのかもしれない。このブログで何度か紹介した『今しかない』という小冊子がある。最近届いた第4号は、「故郷」を特集し、それぞれの故郷への思いとともに、幼いころの光あふれた時代を浮かび上がらせている。

 この小冊子は、埼玉県飯能市の介護老人保健施設・飯能ケアセンター楠苑(1997年6月2日開設、定員98名)石楠花の会発行の『今しかない』(編集・齋藤八重子、滝谷淳子、浅見京子、顧問・大島和典)。2020年5月に創刊号、同年12月に第2号、ことし5月に第3号を出した手作りの文集だ。コロナ禍という歴史的大きな災厄に見舞われる中で、この冊子は読むものに生きる勇気と希望、笑顔を与えてくれる珠玉の言葉が詰まっている。

 第4号は「標」(しるべ)というテーマで利用者や職員の声を紹介し、さらにこれまでこの小冊子に寄せられた読者の声も掲載している。このブログではこれらは割愛し、同苑の利用者だけでなく、かかわりの深い人たちから寄せられた望郷の思いもまとめて紹介する。(地名は筆者の出身地あるいは現住地。見出し・本文=ですますに統一=など一部手直ししています)

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 ▼父母からの授かり物
 畝立て 種蒔き 土握る 亡父母(ふぼ)の汗浸む 愛しき大地
畑を耕し先祖からの土地を、亡くなった父母を思いながら鍬をふるいます。畑仕事ができることはありがたく、父母からの授かり物とも思えました。汗することの尊さも身体が教えてくれました。(富山県 浦林郁子) 

 ▼朝礼前の草むしり 
 飯能に生まれ育った私。近くに学校はなく、精明小学校まで1時間以上毎日歩いて通いました。朝礼の前まで全校生徒が一列に並び、草むしり作業が日課でした。
 今の市役所、富士見小も第一中の敷地で、広い校庭で部活や校外学習、地区めぐり等、多くの友達や仲間も増え、楽しい毎日を送りました。そんな田舎が今では多くの工場が並びました。小さい時から辛抱強く過ごすことを学び、今日に感謝し幸せな日々が過ごせていますので、ふる里は私の基礎です。(埼玉県 山川文子)

 ▼嬉しい東京土産 
 昭和18年、群馬の農家の長女として生まれました。物心ついた時には疎開してきた東京の人たちが屋敷内に住んでおりました。伯父さんが雷おこしや雑誌の東京土産を持ってきた時は、子ども心に嬉しかったことを覚えています。
 海軍に行っていた伯父さんはハーモニカ、父は尺八を吹くのを風呂上りに聴いたことがあり、私が歌が好きになったのは、このころかなと思っています。妹たちの子守をしながら、お手玉、おはじき、縄跳び、馬とびなどをして夕方まで遊びました。小学校の学芸会があり、両親が見学に来てくれたこともよい思い出です。(群馬県 平沼ミサヲ)
 
 ▼自然とともに 
津軽海峡冬景色」の歌詞そのままに、竜飛岬から日本海沿いに下った小さな漁村。夜、地平線に漁火灯る景色が自然と浮かんできます。内陸のリンゴ畑が広がるイメージは全くなく、大した産業もない、半農半漁で経済的に厳しく、漁師を業にしている人以外、大半は出稼ぎで、残る家族がわずかな田畑で生計を成していました。幼いながら、いつの間にか掃除、洗濯、田畑の手伝いは否応無し。不思議にも周囲の友達も同様の状態で、当然のことのように受け止めてきたように思います。
 戦後生まれで、戦争中の悲惨さは知る由もない私。小さい村でも戦争の爪痕が残り、小学校と近くの砂山に爆弾投下によるすり鉢のようにえぐれた穴がありました。
 海あり、山あり、自然の遊び場所には恵まれ、どこもかしこも友だちとの思い出深い場所です。夢に見る景色は昔のままですが、田舎を離れて50年。親なき今は足遠のくも、帰省する度に景色は変わり、住む人変わり、空き家が増え、浦島太郎の心境ですが、ふるさとはとってもいいものですね。親との思い出に浸り、友との再会に帰りたくなるふるさと。心の財産です。(青森県 横野英子)
 
 ▼忘れられないさつま芋
 昭和18年生まれです。3キロ以上もある立派な赤ん坊だったそうです。母乳をよく飲み、よく眠り、手のかからない丸々と太った子に育ちました。19年ごろ、父が2度目の出征をしました。母、兄、私の3人は島原半島南東の小さな漁村にある父の実家に移りました。この村はまだまだ食べ物がありました。父が20年秋に復員して、勤務の都合で諫早に移り住みました。このころは食料不足の真っ只中、すっかり青白くやせ細った女の子になっていたのです。
 これからがさつま芋の話です。芋ごはんを朝炊いて一日食べます。藤で編んだ入れ物におひつを入れて保温します。夕食の時には、すっかり冷ごはんに! 冷たいごはんに熱いお茶をかけていただきました。おかずは何だったのでしょう。時々父の実家に一緒に食料の調達に行きました。バスは木炭を使い、坂道では力のある人がバスを押したのは楽しい思い出です。時は過ぎ、食料事情も好転していきました。
 さつま芋も今はすっかり品種改良され、出世しました。スーパーに行くと焼き芋の香りが食欲を誘います。甘くてほくほく、しっとりのスイーツとしても定着しました。大学芋、スイートポテト、高級菓子店でもさつま芋を使ったお菓子が誇らしげに、そして上品に並んでいます。これらをいただく時、しみじみとおいしく食べられることの喜びを感じずにはいられません。(長崎県 平野恵子)
 
 ▼磐梯山を眺めながら
 会津に生まれ、会津に嫁ぎ、農業と呉服店勤めで89年が過ぎました。いつの間にか歳を取り、今は朝に夕に四つ車を押して磐梯山を眺めながら野菜畑に通う毎日です。畑に行き、野菜が育つのを見るのが一番の楽しみです。山菜採りも大好きで、そのようなことが生きる楽しみです。
 この歳になると、茶飲み友だちもいなくなり、淋しい田舎暮らし。それでも生きていることは楽しい。(福島県 櫻井信子)

 ▼カニと遊ぶ
 野良仕事にはげむ、おとさんとおかさん。そばで一生懸命手伝いました。家の背戸(裏口)の石垣にカニがいっぱいいました。石垣の穴から出てきたり、引っ込んだり、釣り竿でカニを釣って遊びました。
 俳句 ふるさとの石垣赤き蟹遊ぶ(和歌山県 和田茂代)
 
 ▼両親の言葉を胸に
 生まれ育った町南アルプス市は、山々に囲まれた山梨県の小さな町です。周りを見渡せば、川や畑があり、とても徒歩で生活できる場所ではありませんが、空気と水がすごくきれいです。
 両親から教えられた「どんな時でも強く素直で居続けなさい」という言葉を、今でも自分に言い続けています。24歳になりますが、なぜ自分が今、人生と立ち向かっていけているのか……。僕の中で一番大切にしているのが「人としての心を持ち続ける」ことです。困っている人がいたら、すぐに助けること、誰かがうまくいったことに素直にほめる、自分がこうしてあげたいという気持ちを隠さず、素直に表に出してあげることです。
 この町でいろいろなことがあり、たくさんのことを知り、日々に感謝続けた今が僕の人生です。(山梨県 前田清春

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 ▼風船爆弾のこと
 父の本家・実家が北茨城市にあります。終戦前の小学生のころ、県北の関南町と千葉県一宮町から偏西風に乗って爆弾を放球するとの話を聞かされましたが、極秘の話で(大本営陸軍指令)他言はだめと言われました。北茨城には野口雨情(赤い靴、七つの子、カラスなぜなくの等の作詞者)の生家があり、こんな詞を今でも覚えています。
 天妃山(てんぴさん)から東を見れば 見えはしないが見えたなら あれはアメリカ合衆国(『磯原小唄』より・一部略)
 天妃山は海に突き出した山で、山上には弟橘媛(おとたちばなひめ・日本書記によると、荒れた海を鎮めるために入水した女神で、日本武尊の妻とされる女性))を祀った神社があります。北茨城の華川関南(はなかわせきなみ)盆地の山蔭から夕方前に巨大な風船が金色の夕日に輝き、1つ2つ3つと数十個が上空にふわりふわりと揚がる光景が今でも思い出されるのです。あれが風船爆弾と思ったが、一定の高度を保った装置で太平洋を横断してアメリカまで飛んでいくという……。想像がつきませんでした。
 製作にはコンニャク芋が糊として使用されていました。紙は埼玉小川町から取り寄せたと聞いています。コンニャクは軽い上に気密性と粘度があるらしい。貼るのは女子生徒が動員されたといいいます。私は風船と聞くと、子供のころのこうした光景を思い出すのです。(埼玉県 緑川忠順)※注1・風船爆弾

 ▼モンテンルパの歌
 15年前にバスツアーで信濃方面に旅行しました。天竜峡を散策していましたら「モンテンルパの碑」と書いた標識が目につきました。この碑を見て、ある歌を思い浮かべ、私だけちょっとみんなの歩くコースを外れて行ってみました。「あゝモンテンルパの夜は更けて」の歌詞を刻んだ碑が建っていたのです。
 フィリピンマニラ郊外のモンテンルパ刑務所には終戦後、日本のB、C級戦犯が収容されていました。この作詞者がB級戦犯死刑囚の代田銀太郎さんという方で、長野県出身と説明板に記載されていました。作曲した方も同じくB級戦犯死刑囚ということです。渡辺はま子がこの歌を歌ったのは戦後7年を経過した昭和27年のことで、はま子はこの刑務所を慰問、この歌を歌ったら会場からすすり泣きが聞こえたそうです。
 父の長兄も義母の兄もフィリピンで戦死しました。幼いころ、父の実家に遊びに行くと、最初に必ず仏壇に手を合わせに行くよう言われました。今もその癖がついています。義母がフィリピンに慰問に行ったとき、私の息子と娘の服や靴を預けて、現地に置いてもらいました。いい供養になると思ったからです。(埼玉県 渡部峰逸留)※注2・モンテンルパ      

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 冒頭に書いた室生犀星の詩は、実は遠い空の下で故郷を思う歌ではなく、犀星が東京から金沢に帰郷した際に作った詩といわれる。東京の暮らしは決して楽ではない。生活の窮乏と東京の酷暑に耐えかねて帰郷と上京を繰り返す生活を続けた青年時代。そんな犀星を、故郷は温かく迎えてはくれなかった。そうした悲哀や故郷への愛憎半ばする思いがこの詩になったという。故郷は遠くにいるからこそ懐かしく、そして、ありがたいものなのだろうか……。            

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 注1「風船爆弾
 11月から3月まで、冬の間は高層の気流が最も速く流れ(ジェット気流)、平均60時間で風船がアメリカ本土に達するとして、太平洋戦争末期に風船爆弾作戦が計画された。和紙をコンニャク糊で三重四重に貼り、水素ガスを入れて、下には爆弾や焼夷弾を1個ないし2個下げて飛ばした。男女の生徒たちがこの作業に駆り出された。実験中に死傷者も出ている。
 勿来(福島)、茨城、千葉の3カ所、42の放球台で4万個揚げる計画があった。30分ごとに1個揚げる計画だったが、実際にはその4分の1しか揚げることができなかった。
 勿来では風船爆弾の基地をつくるため付近の民家40戸が移転させられた。常磐線の列車は基地近くを通過するときは窓の鎧戸を下ろし、外を見ることが禁止されたという。敗戦になると、残った爆弾や焼夷弾は海中に捨てたり、爆破させたりして処分した。
 アメリカ政府の調査では日本から飛来した風船はワシントン25個、オレゴン40個、モンタナ32個、カリフォルニア22個、ワイオミング・サウスダコタアイオワ各8個、カナダ39個、メキシコその他6個で、死者は6人だったという。(衣山武編『神様は海の向こうにいた』より)

 注2「モンテンルパ
 モンテンルパはマニラの南方約25キロメートルに位置し、第二次大戦後、日本人捕虜収容所として使われたニュー・ビリビッド刑務所があった。戦犯となった山下奉文大将(第14方面軍司令官)ら17人が近郊のロスバニョスで処刑され、日本人墓地や平和祈念塔などがある。
 1952年にフィリピンに収容されていた戦犯からNHKのラジオ番組に送られてきた「あゝモンテンルパの夜は更けて」が渡辺はま子、宇都美清の歌でレコード化され、大ヒットした。
 この後、渡辺はニュー・ビリビッド刑務所を慰問し、当時のキリノ大統領に日本人BC級戦犯の釈放を嘆願した。この結果、この歌を作詞した代田銀太郎と作曲した伊藤正康を含む108人全員が釈放となり、帰国を果たした。

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