小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2076 大リーグに大谷現象 常識を超えた野球選手

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 米大リーグ・エンゼルスで、投打の「二刀流」をこなした大谷翔平アメリカンリーグの最優秀選手(MVP)に選ばれました。このブログでもこれまで何回か大谷のことを書いていますが、ここにまとめてみました。興味ある記事があればお読みください。昨日のブログで絵画の世界のフェルメール現象に触れましたが、大リーグでも大谷現象が起きており、来シーズンも続くことになるでしょう。大谷は分業化が進んだ球界の常識を超えた選手になりました。あとに続く選手は出てくるのでしょうか。

 冬霧をかき消す報せ海超えて 遊歩

 

1669 大谷と職業病 スポーツ選手のけがとの闘い(3)

 

1704 大谷の二刀流復活記念日は? けがとの闘い1年を振り返る

 

1724 59歳まで投げ抜いた伝説の投手 その名はサチェル・ペイジ

 

2045「三つのベースに人満ちて……」 野球の華に挑み続ける大谷

 

2061 辞書に載った大谷の二刀流 サムライ言葉今も 

 

2075 フェルメール現象再び? 知られざるレッサー・ユリィ

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          (ユリィ「夜のポツダム広場」)

 久しぶりに美術館に行き、1枚の絵の前で釘付けになった。「夜のポツダム広場」。描いたのはドイツのレッサー・ユリィ(1861~1931)。私の知らない画家だった。絵の下半分は雨に濡れた路面が建物の照明に照らされて輝いている。なぜか建物の灯りより、道路の方が光っている。右側には傘を差した人たちのシルエット。全体にくすんだ夜の街はなんとなく物寂しい。著名な画家たちの作品が展示された『イスラエル博物館所蔵「印象派・光の系譜」展』(三菱一号館美術館)で、私は初めて見る画家の作品に惹き付けられた。

 この美術展は、イスラエル博物館が所蔵する作品のうち印象派の画家たちの作品を中心に69点が展示されている。モネ、ルノワールゴッホ、ゴーガン、セザンヌクールベといった著名画家のほか、以前のブログに書いたことがある、アル中で知られたヨンキントの作品(「日没の運河、風車、ボート」)もあった。ユリィの絵は「夜のポツダム広場」と「風景」「冬のベルリン」「赤い絨毯」の4点が展示されていた。説明文によると、ユリィはユダヤ系のドイツ人。ミュンヘン分離派を経てベルリン分離派で活動したといわれるが、日本ではこれまで無名に近い画家といわれる。手元の分厚い西洋美術史の本にもWikipediaにも載っていない。

 生物や風景を印象派に近い技法で描き、雨の路地や夜のカフェをテーマにした作品が知られているそうだ。60歳を過ぎて開いた大規模作品展で名声を揺るぎないものにしたという。あらためて新聞の美術欄に載ったこの美術展の記事を読むと、モネやルノワール印象派の巨匠たちの作品を押しのけて1、2位を争う人気とのことで、売店のポストカードは開催初日(10月15日)に売り切れたため急ぎ補充された、と出ていた。既視感のある懐かしさ、コロナ禍で人影が少なくなった陰鬱な都会の夜の風景との共通性など、人それぞれの見方があるにしても、ユリィという画家の名は多くの美術ファンの記憶に残るはずだ。 

 日本ではフェルメール現象といわれるほどオランダの画家フェルメールの絵画展は異常な人気がある。今回のユリィ人気はそれほどまでとは言えないにしても、コロナ禍で大きな影響を受けた2021年の美術界の歴史に残る出来事になるのかもしれない。今回展示されたヨンキントの絵は、運河の後方に風車が見えるオランダの風景を描いた小品で、夜の画家といわれる黒や暗褐色系を使った陰影のイメージを強調する作品の部類に入る。

 私は新型コロナ感染を避けるため、昨年1月以降美術館巡りをあきらめていた。コロナ禍が落ち着いたこともあり、今回所用のついでに美術館に入った。感染対策のため予約客を優先し人数制限もあり、当日券購入のために列に並んだのだが、館内はこれまでの満員電車のような状況はなく、比較的ゆっくりと鑑賞する環境になっていた。入館者には歓迎すべきこととはいえ、美術館運営にとって厳しい状況が続いていることは言うまでもない。

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               (ユリィ「風景」)

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                (ゴッホプロヴァンスの収穫期」)

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             (ゴッホ「麦畑とポピー」)

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            (セザンヌ「湾曲した道にある樹」

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               (モネ「睡蓮の池」)


写真はポストカード、あるいは会場で筆者撮影(Photo © The Israel Museum, Jerusalem)

 

2074 寂の空への旅立ち 瀬戸内寂聴さん逝く

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 紅葉燃ゆ旅立つあさの空や寂(じゃく)

 作家の瀬戸内寂聴さんが今月9日に亡くなった。99歳。瀬戸内さんの名前を聞くと、私は必ずある日のことを思い出す。瀬戸内さんが得度し、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴になった1973年11月14日のことである。あれから間もなく48年になるが、記憶は鮮明だ。中尊寺は晩秋、燃え立つような紅葉に包まれていた。

 瀬戸内さんが平泉の中尊寺で出家、得度式をしたのは51歳の時だった。瀬戸内さんのことは、当時の私は『美は乱調にあり』という評伝のほかほとんど予備知識がなかった。そのころ仙台支社に勤務していた私にたまたま、取材のお鉢が回ってきたのだ。中尊寺は盛岡と仙台のちょうど中間に位置するとはいえ、本来なら盛岡支局のカバー範囲だ。ただ、深夜の取材ということで、デスクは車もありカメラマンがいる支社から取材させようと私に現地行きを指示したのだ。

 支社のデスクに取材を依頼してきたのは東京本社社会部の斉藤茂男という連載のルポ記事で名の高いデスクで「瀬戸内さんに会い、得度する心境を聞いてほしい」ということだった。これに関しては他の報道機関には漏れていないという話で、事前に会って話を聞くことができれば独占記事になるはずだった。カメラマンとともに社有の車で真夜中に仙台を出た私たちは、未明に中尊寺に到着した。宿坊を探し東京からやってくる瀬戸内さんを待ち構えているうち、次第に夜が明けてくる。中尊寺の周囲には紅葉が残っていて、美しい晩秋の姿を見せていた。しかし気温は零度近くまで下がっていて、体の震えが止まらない。  

 斉藤さんは瀬戸内さんと親交があると聞いた。徳島ラジオ商殺し事件で犯人とされた冨士茂子さんの冤罪をともに信じ、記者と作家としてそれぞれ支援活動をしていて知り合ったのだ。(懲役13年の有罪判決を受け冨士さんは仮出所後、再審請求の途中でがんのために死去したが、請求が通り、死後無罪判決が出ている)

 夜が明けても瀬戸内さんがやってくる様子はない。しびれを切らした私は宿坊を訪ね、瀬戸内さんの関係者に面会を求め「東京の斉藤デスクの指示で来た」と伝え、名刺を渡した。しばらくして関係者が戻ってきた。マスコミを警戒してひそかに裏玄関から宿坊に入ったそうで、「瀬戸内は間もなく得度なのでお会いはできないが、この朝の心境を句に書いたので渡してほしいと言われた」と、小さな紙片をくれた。そこには冒頭の句が書いてあった。  

 それは、人生に一つの区切りをつけ、剃髪をする朝の感懐が伝わる句だった。瀬戸内さんは得度後、記者会見し「50歳を過ぎて、自分の精神にアカがついてきたように思う。ここで自分自身を解体し、新しい自分を探りたいという欲求が日増しに強まり、得度を決心した」と話した。この後、瀬戸内さんは、人々に希望を持つことの大切さを訴え続けた。

 手元に「仏教新発見」(朝日新聞出版、全30巻)という日本の名寺を紹介した冊子がある。瀬戸内さんはこの冊子で「いま、釈迦のことば」というエッセーを毎号に載せている。この最終号・30巻『萬福寺』(京都府宇治市黄檗宗=おうぼくしゅう=の総本山)には「この世は美しい」と題した文を寄せている。この中で瀬戸内さんは「『この世は美しい。人の命は甘美なもの』。私はお釈迦さまの遺された多くの尊いことばの中でも、このことばが、天来の音楽のようにかぎりなく美しく聞こえてきます」と書いている。

 紅葉の美しい季節に旅立った瀬戸内さん。その朝の空も、静寂だったに違いない。

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 昨年、婦人解放運動家で無政府主義者伊藤野枝を描いた村山由香の小説『風よあらしよ』(集英社)を読んだ後、瀬戸内さんの代表作である伊藤野枝と思想家で社会運動家大杉栄の評伝『美は乱調にあり』(岩波現代文庫)と『諧調は偽りなり』(岩波現代文庫)を続けて再読した。現場主義をモットーとする瀬戸内さんらしい徹底取材した作品だった。瀬戸内さんは、3・11の東日本大震災後は、住まいのある京都から被災地に度々足を運び、被災者の心の支えになった。常に前を向いて歩く人だった。

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 写真は中尊寺金色堂と昨日に続き今朝も現れたビーナスベルト現象

2073 ビーナスベルトに酔う 自然のアートに包まれて

    

 毎朝、6時前に散歩に出ます。いつも最初に歩くのは調整池を回る遊歩道ですが、今朝歩いていて西の空を見上げますと、下の方が藍色でその上の部分がピンクに染まっていました。なかなか幻想的0で美しい空の色でした。日の出前のことです。これはビーナスベルトという現象だそうです。こうした豊かな自然に包まれて歩いていますと、これまで続いてきたコロナ禍の憂鬱を忘れさせてくれるのです。

 ビーナスベルトは、日の出前や日没後の空がピンク色の帯状に空が染まる現象で、青い空に薄いピンクの帯がかかるその様子は天女のドレスに巻いた美しいベルトのように見えるため、こんな名前が付いたそうです。ピンクの下側の藍色の部分は地球の影といいます。この現象は大気が澄んでいて、太陽の光が空に残っている、という環境のもと、早朝及び日没のころに太陽とは反対側の空に描かれるもので、自然のアートといえるでしょう。時間が過ぎるに従い、その色も少しずつ変化するようです。今朝、私の住む千葉市の日の出の時間は午前6時12分で、空が明るくなるにつれてこの現象は消えていきました。

 南極の昭和基地では、大気が澄んでいるためこの現象は結構多いようです。それに比べると、首都圏の一角にあるこの地域は大気が澄んでいるとはとても言えません。とはいえ、こうした現象を見ることができるのですから、わが街もそう捨てちゃものではないなと感じています。

 最近は温暖化や中国のPM2.5による大気汚染問題など、地球の自然環境悪化のニュースが少なくありません。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんの嘆きを聞いていて、大人としての責任を感じています。そんな現状だからこそ、自然界のアート現象がたまらなくうれしいのです。

 百科事典を見ますと、日の出前のことを薄明(はくめい)ともいうそうです。気象用語では太陽の高さによって「天文薄明」「航海薄明」「通常薄明」(「市民あるいは常用薄明」とも)に分類されており、夕方は逆の順で日没になります。低緯度地方では1年を通じて薄明は短く、高緯度地方では長く、夏には白夜になるそうです。薄明の時間帯はビーナスベルトのような現象がみられるため「マジックアワー」と呼ばれているとか。そうだとすると、これから寒さが増しても朝の散歩は欠かせないと思っているのです。

「空は 満ちたる虚ろ。その色が なぜ こうも美しく 海に影を落とす?」と表現したのは詩人の吉野弘(「海」より)でした。今朝の空の色は確かに美しく、「満ちたる虚ろ」のように見えた気がします。

(この現象は、夕方東の空にも現れました)

    

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 写真 調整池から見た朝のビーナスベルト(4枚)。5枚目はその後の風景。そのあとの2枚は夕方のビーナスベルト。

2072 シリウスとの対話 かけがえのない犬たちへ

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「○○よく頑張ったね。いい子だね」。夕方、散歩をしていたら、小型犬を連れた若い女性とすれ違った。しばらくして、こんな声が聞こえた。だいぶ遠くなってからあの犬がしきりに吠えている。私とすれ違った犬は人が近づくとほえてしまうのだ、でもそれを我慢したから、飼い主からほめられたのだろう。叱られるよりほめられた方がいいことは犬だけではない。人間だってその方が成長にいいらしい。あの犬も飼い主とともにいい関係を築くだろうと思いながら、ゆっくりと歩を進めた。

 私の家もこの夏までは犬と縁があった。これまでのブログで書いている通り、ノンちゃんというミニチュアダックスフンドを預かっていたし、その前にはhanaと名付けたゴールデンレトリーバーを飼っていた。hanaもノンちゃんも私や家族が外出から帰ると、玄関で大騒ぎをして迎えてくれた。特にhanaは玄関から居間まで走り回り、妻に「うるさいよ」と叱られ、急に大人しくなる。その姿はなかなか愛嬌があった。

 hanaは8年前の2013年7月30日、ノンちゃんはことし6月15日に旅立った。hana11歳、ノンちゃん15歳だった。2匹とも私たちにとってかけがえのない家族の一員であり、一緒に暮らした日々はとても大切だったから、時折思い出す。近所に住んでいる小学生の家族が我が家にやってきて「ノンがいないのかなあ」とつぶやいたりするのを時々耳にする。私もhanaが玄関で踊るようにして出迎えてくれる姿をしばしば想像してしまう。

 この前(7日、日曜日)の朝日歌壇(高野公彦選)にかけがえのない犬を失ったことを歌った2首(3、4首目)が載っていた。私たち家族の思いを代弁してくれるような歌ではないかと思った。

 ▽名前書きし首輪ゆっくりはずしてやり聞こえるうちに「ありがとう」を言う(伊賀市・秋田彦子)

 ▽玄関のタイルに残る染跡は犬がいた場所そしていない場所」(山口県・庄田順子)

 ▽評 3首目、犬の臨終を看取る歌。4首目、犬を偲ぶ歌。いずれもが犬が好きな人だろう。(ブログ筆者注・好きというよりも大好きな人の歌だろうと思う)

 hanaとノンちゃんは、我が家の庭先にある金木犀の近くに眠っている。この場所は2匹が好んで遊んだところだ。居間からもよく見えているから、2匹とも安心しているに違いない。私たち家族は、旅立った2匹が冬の空に輝くシリウスからコロナ禍の日々を送る人たちを見守っていてくれると信じている。おおいぬ座のこの星は全天で最も明るい恒星だという。近い日シリウスを見上げ、2匹と対話をしたい。

 凍る闇シリウス光千変し 

   相馬遷子(そうま・せんし、1908~1976。長野県出身の俳人、医師。本名・相馬富雄)    

 

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写真

1、大雨から一転、空が明るくなり、雲も茜色に

2、天空には白い三日月が見える

3、4 在りし日のhanaとノンちゃん

2071 秋から冬への移行 時雨の季節感

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 ものの本(ある事柄に関することやその方面のことについて書かれた本)によりますと、「時雨」の季節は、『万葉集』(7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存するわが国最古の歌集)のころは秋と捉えられていたそうです。その後、都が奈良から京都に移ってから作られた『古今和歌集』(平安時代中期の勅撰和歌集)のころからは次第に冬という季節に考えられるようになり、俳句でも現在は冬の季語になっています。今年は7日が立冬でした。天気予報では今夜(8日)あたりから時雨が降りそうです。いよいよ冬なのですね。

《冬のはじめ、晴れていても急に雨雲が生じて、しばらく雨が降ったかと思うとすぐに止み、また降り出すということがある。これを時雨といい、本来は京都など、山がちの場所で見られる現象で、「北山時雨」「能登時雨」などとも使われていたが、しだいに都会でも冬の通り雨を時雨と呼ぶようになった。》(角川学芸出版『合本 俳句歳時記』)

 大岡信の『瑞穂の国うた』(新潮文庫)によれば、時雨が冬の季節になったことに大きな影響を及ぼしたのは、平安中期の勅撰集である『後撰集』(『古今集』の次にできた勅撰和歌集)に収められているよみ人しらずの次の歌なのだそうです。

《神無月降りみ降らずみ定めなき 時雨ぞ冬のはじめなりけり》

 この歌によって、時雨は冬という日本人の季節感が決まったと言ってもいいと、大岡は述べています。

《しぐれふるみちのくに大き佛あり》(『岩礁』より) 

 私の好きな句の一つです。作者は水原秋桜子(1892~1981)です。この句は1935(昭和10)年11月、福島県会津地方中央に位置する河沼郡湯川村にある真言宗豊山派勝常寺という寺を訪れた際に作られたそうです。この寺には薬師三尊像(薬師如来坐像、脇侍の日光菩薩立像・月光菩薩立像)という木製の国宝など、合わせて12体の仏像がある古刹です。時雨が舞う中、寺を訪れた秋桜子は本尊の薬師如来坐像を拝観、この仏像に対する畏敬の念を持ったのでしょう。薬師如来の像高は141・8センチです。薬師寺奈良市西ノ京町)のよく知られている銅製の国宝、薬師三尊像・薬師如来坐像の254・7センチに比べると、決して大きいとは言えませんが、秋桜子は堂々とした雰囲気から「大き佛」と受け止めたのでしょう。

 勝常寺は807(大同2)年、最澄の論敵として知られる法相宗の徳一によって開かれたといわれる東北を代表する古刹で、私も以前この寺を訪れ、「大き佛」を拝観したことがあります。平安時代初期の作とされ、どのような仏師によって彫られたのかは不明ですが、造形技術は他の東北の仏像と比べ際立っているとのことで、一見の価値があるといえます。薬師如来は額が狭く、目鼻立ちはあくまで彫りが深く、いかめしい表情に見えます。この仏像から私は、病をもたらす者に立ち向かう強い意志を感じ取ったものです。言うまでもなく薬師如来衆生(しゅじょう=すべての生き物のこと)の病苦を救い、無明の痼疾(いわゆる持病)を癒す如来と言われています。コロナ禍が続く現代、この仏像を拝観する人は絶えないようです。皆様も機会があれば、ご覧になってください。

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写真

1、遊歩道の街路樹プラタナス

2、モミジもいい色になった

3、勝常寺の国宝、薬師如来坐像小学館『古寺をゆく 勝常寺会津名刹』より)

 

 関連ブログ↓ 

 45 西ノ京で受けた善意 偶然の出会いも

1411 会津の歴史が詰まる古刹 国宝を持つ勝常寺

1884 永遠ではないから尊い 薬師如来とお地蔵さんのこと

 

2070 ある晩秋の風景 日だまりを求めて

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 さうか

 これが秋なのか

 だれもゐない寺の庭に

 銀杏の葉は散ってゐる

     (草野天平「秋」・定本草天平全詩集より。天平は詩人草野心平の弟)

 晩秋。銀杏の葉も黄色く色づき、散り始めている。私のふるさとの浄土真宗の寺にも銀杏の木があった。秋になると、黄色い葉が境内を舞い、実が落ち始める。この詩のように、あの銀杏の木も秋の終わりを演出しているのだろうかと思う。

 寺を引き継いだ私の兄の同級生は別の地域で生活していて、仏事があれば車で通ってくる。現在、寺にはだれも住んでいないから、上掲の詩のモデルのような存在だ。もちろん、銀杏の実を拾う人もいないはずだ。…そんなことを思いながら久しぶりにシャンソン『枯葉』を聴いた。静かな秋の時間が過ぎていく。

 この曲は1946年公開の『夜の門』(Les Portes de la Nuit)という映画の挿入歌(ジョセフ・コスマ作曲、ジャック・プレヴェール作詞)で、当時新人歌手だったイヴ・モンタンが歌った。ビング・クロスビーナット・キング・コールが歌った英語版(「Autumn Leaves」ジョニー・マーサー作詞)もあり、ジャズの曲としても知られている。枯れ葉が舞う季節、人生の晩年を迎えた人物が美しく輝いていた幸せだった昔を思い出しているもので、人生の機微やペーソスをテーマにしたシャンソンの名曲として世界で歌い継がれている。

 シャンソンを生涯の友として歩んでいる友人がいる。彼の「枯葉」のピアノでの弾き語りを何度か聴いたことがある。彼の人生は平坦ではなかった。幾度か荒波にもまれたことがあったという。それがこの歌に深い陰影を与え、聞く者の心に響くのだ。誰にも輝く若い日があった。そして、いやおうなく年老いていく。『枯葉』を聴くと、そうした人生の哀感が伝わってくるのだ。晩秋の遊歩道。日差しを求めて散歩をしている人が少なくない。一人で黙々と歩いている人、友人同士や夫婦らしき人たちもいる。その道には枯れ葉が舞い落ちている。

 日だまりの枯葉いつとき芳しき 石橋秀野(俳句評論家の山本健吉の妻。戦時中の疎開生活で病に侵され1947年9月26日、38歳で死去。俳句では枯葉は冬の季語)

 私も日だまりの中、枯葉を踏みしめて歩いた。「カサコソ、シャリシャリ…」足元から聞こえてくる音が心地いい。

 

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写真

1、色づいたけやきの葉

2、遊歩道沿いにある銀杏も葉が落ち始めた

3、体操広場のマロニエはほとんど葉が落ちている

 

2069 ありふれた日常の中で ランドセルの少年と履き慣れた靴

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 庭の外に遊歩道があって、1キロに及ぶけやき並木が続いている。春から冬までの季節、けやきは様々な表情を見せてくれる。葉を落とした冬の姿も風情がある。秋たけなわ。例年なら美しい紅葉となるのだが、この秋は様子がややおかしい。葉が色づく前に散り始め、残った葉も茶色っぽくて、お世辞にもきれいだとは言えない。今月初め、房総総半島に接近した台風26号が太平洋からの塩を含んだ風をもたらし、けやきもこんな状態になってしまったようだ。塩害だ。3年前もそうだった。

 このけやき並木の遊歩道は多くの人が利用している。通勤、通学、散歩(犬の散歩も)、ジョギング、買物等々の人々だ。車いすの人もいるし自転車も少なくない。背景が美しいためか、最近はテレビドラマの撮影場所としても利用されている。一番賑やかなのは子どもたちの登下校の時間帯だ。少子化時代といわれているが、近くの小学校は1年生から6年生まで3クラスずつある。今朝、一人で鼻歌を歌いながら登校している男の子がいた。ランドセルで背中が隠れるほど小柄だから、1年生のようだ。天気もよくて気分がいいのか、私には分からない歌を口ずさんでいた。

 散歩途中の私は、男の子を追い抜きながら「おはよう」と声を掛けた。すると鼻歌をやめ、あいさつ代りに首をこくんと下げてくれた。その仕草がなかなか可愛いい。私は「元気でいってらっしゃい」と言って、先を急いだ。途中で振り返ると、男の子は再び鼻歌を歌いながら歩いている。友だちは先に登校したようで、一人で歩いていても表情は明るい。学校が楽しいに違ない。

 これより1時間以上早い時間、ラジオ体操に行く。途中、空を見上げると、雲の間から漏れている陽光が面白い光景を演出していた。数匹の黄金の鯉が泳いでいて、最後尾の鯉からは4本の光が立ち上っているように見える。しばらくすると、上空は光に包まれた雲が幾条にも広がった。この後、近所の高台から雪を抱いた富士山が見えた。近くにいた老婦人がもう一人に「富士山を見ると、心が豊かになったような気がするの。うれしいわ」と話しているのが聞こえた。私が住む千葉市郊外では富士山は空気が乾いた冬しか見ることができない。富士山は私たちにとって冬の到来を告げてくれる季節の山であり、生きる喜びを実感させてくれる山なのだ。

 10月も29日。今年の立冬は11月7日(日)だから、あと1週間余だ。朝の散歩を終わって、これまで履き慣れた運動靴を廃棄した。底が減り、内側のかかと部分もすり減っていた。海外旅行にも何度か履いていった靴との別れはやや寂しい……。秋の日。これがありふれた私の日常の一コマ。

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 1725 けやきの遊歩道無残 紅葉奪った塩害

 

 

2068 学ぶことを忘れると堕落する 2つのニュースを読んで

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 最近2つの新聞記事に驚いた。いずれも政治にかかわるニュースであり、政治の信頼とは何かを考えさせられたのは私だけではないはずだ。近くにあった高橋健二訳『ゲーテ格言集』(新潮文庫)を見ていたら、「有能な人は、常に学ぶ人である」という言葉が出ていた。確かにそうだと思う。学ぶことを怠ると、想像力も枯渇しついいい加減なことを口走り、愚策と気づかぬまま税金を湯水のように使ってしまうのだろうか。2つのニュースから私も自戒し、これからも本を読み学び続けたいと考えた。

 ゲーテの言葉はエピグラム(ウィットに富んだ短い詩・寸鉄詩)で知られるローマ帝国時代の諷刺家マルティアリス(40ごろ~104ごろ)の言葉が由来で、本来は「よき人は常に初心者である」という意味だそうだ。世阿弥の能に関する著書『風姿花伝』の中の「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」(ブログ筆者意訳=未熟だった時も芸に慣れた時も、そして年老いても初心者として芸に挑むことを忘れてはならない)と共通するものだろう。

 前書きはこの程度にして、私が驚いた2つのニュースは以下の通りだ。1つは自民党麻生太郎副総裁が25日、自民党の公認候補の応援に行った小樽市内で「温暖化と言うと悪いことしか書いていないが、いいことがある。昔『やっかいどう米』と言うほど(北海道産米は)売れない米だったが、うまくなった。農家のおかげか、違う。温度が上がったからだ。それを輸出している。これが現実だ」などと述べたことだ。

 これに対し北海道農民連盟が翌26日、「温暖化を肯定するような発言は耳を疑う」と抗議の談話を出したのに続き、岸田文雄首相が同日夜のテレビ番組で、「(麻生発言は)適切ではなかった。申し訳ないと思う」と陳謝した。この後、岸田首相が麻生氏に何と言ったかは分からない。何も言わなかったのではないかと疑う。

 麻生氏は毒舌で知られた政治家で、これまでの様々な発言が物議を醸している。温暖化=米がうまくなったと主張する今回の発言は、各道県の農業試験場(現在は農業研究センターなどと呼称)の品種改良の地道な取り組みと農家のうまい米を作ろうという努力を否定するものといっていい。長い間、うまい米の代表としてコシヒカリが君臨していたが、現在では北海道、青森を含めてその地域にあった銘柄が誕生し、いずれもコシヒカリにそん色ないうまい米になっていることを麻生氏は知っているのだろうか。麻生氏の発想は、地球温暖化対策の世界的枠組みの「パリ協定」を離脱した(バイデン政権が今年2月に復帰)温暖化否定論者の米国トランプ前大統領と似たり寄ったりだ。

 2つ目は昨年の安倍政権当時、新型コロナ対策として調達・配布した布マスクが大量に倉庫に保管され、6億円もの保管料がかかっていたことが会計検査院の調査で判明したことだ。昨年の配布後から現在までアベノマスクといわれる布製の小ぶりなマスクを付けた人はほとんど見かけたことがない。

 側近官僚の進言で打ち出されたこの政策。当時の安倍首相は全世帯に1億3千万枚と介護施設福祉施設、妊婦向けに1億6千枚の計2億9千枚を配ると宣言した。だが実際には、双方合わせて約8千200万枚(115億円相当)が配られずに倉庫に保管されたままになっており、昨年度だけでこの保管料6億円を支払ったというのだ。このマスクは子ども用といえるほど小さく、もらっても使う人はまれだったようだ。しかも不織布マスクに比べウイルスを含んだ飛沫の吐き出し、吸い込み防止の効果が低いことが判明、多くの人が不織布マスクを使っているのが現状だ。

 これに対し、政府は「調達で問題があったとは考えていない」(磯崎官房副長官)、「保管費はかかるが税金で買ったので簡単に捨てられない。有効活用を考えている」(厚生労働省)と答えたそうだ。問題がありありで、有効活用も難しいから、税金の無駄遣いを続けているのだろう。会計検査院は「法律に基づいた是正勧告はしない」というものの、コロナ禍の歴史の中で政治の失敗例として人々の記憶に刻まれることになるだろう。

 マルティアリスはスペイン出身でローマに移り住んで同郷の政治家でストア学派の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ(「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである」という言葉が有名)家に身を寄せていた。エピグラムで当時のローマの人々の生活や知人たちのスキャンダラスな行動、地方の教育などを描いた。マルティアリス流に言えば、2つのニュースから得たものは「学ぶことを忘れると、人は堕落する」だろうか。

2067 自分の信じる道を真っ直ぐ歩いた人 ある長い墓碑銘

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 かつて取材で知り合った東京のNさんがことし1月に亡くなったと、奥さんから喪中のはがきが届いた。間もなく11月。そろそろ年賀状を書く季節が近づいている。Nさんとは、中国まで一緒に旅をしたことがある。脳梗塞で倒れ、1年間は車いす生活を送り、奥さんに「幸せだった。ありがとう」を何度も繰り返して旅立ったという。Nさんについて書いた7年前の文章がある。やや長いが、「独立独歩の生き方」として書いた文を墓碑銘として以下に紹介したい。個性豊かで、自分の信じる道を真っ直ぐに歩いた人だった。

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 はじめに 

 株の取引で生計を立てる傍ら、太平洋戦争で亡くなった戦死者の遺骨収集、日本軍とソ連軍が激突し、日本側に甚大な被害が出たノモンハン事件の現地巡礼、さらに終戦前後の混乱で旧満州中国東北部)に残された中国残留日本人孤児の支援活動を続けた知人がいる。東京在住のNさん(79)歳だ。幼くして両親を失い、独立心が旺盛だったNさんは、これまでの人生の大半をフリーの身で過ごしてきた。その気概に満ちた歩みをたどってみる。

  生い立ち 

 1935年(昭和10)4月27日、愛知県岡崎市で生まれた。父親は山を購入し、そこから石材を採取して販売する仕事をしており、自宅含め家を5軒持つほど裕福な家庭だった。しかし、軍隊に召集された父親は中国で除隊後、病気で亡くなる。母親も後を追うように病死し、6歳で両親を失ったNさんは3歳上の姉とともに愛知県内の母方の祖母宅に引き取られ、中学校までこの家で多感な少年時代を送った。中学を終えると、母校の中学校の校長の家に下宿して、岡崎市内の高校を卒業した。早くに両親を亡くしたNさんの境遇に同情した校長が手を差し伸べてくれたのだという。

 高校卒業後、自転車用ライトメーカーの東京支店でアルバイトをしながら大学進学を目指すが、志望校に合格しなかったため断念する。そのままアルバイトをしながら25歳になったころ、たまたま証券会社の幹部と話す機会があった。株に関する話に興味を持ち「この程度の人が株をやっているのなら、自分にもできる」と思い込み、これまで大学進学用にと貯めてきた50万円を元手に株の取引を始めた。傲慢、自信過剰とも思える動機だったが、水に合っていたのか、元手の資金は少しずつ増えていき、30歳の時には東京・新宿のマンションを購入できるほど羽振りがよくなった。

 Nさんは、株取引に関して「新聞や雑誌はあてにならない」という信念を持っていて、新聞を定期購読したことはない。それよりもできるだけ人に会い、多くの人とよもやま話をして情報を蓄積、それに自分の勘も働かせて取引するという「株取引の方程式」を独学でつくり上げた。バブル経済が崩壊した際、持ち株の一部が下落して損失を受けたが、危ない業種はできるだけ避けていたため、大きな損失には至らなかったという。株取引の極意については、フランスの哲学者、デカルト方法序説の中の一節「我思う故に我あり」のようなものだと話している。やや難しいが、すべてを疑い、慎重に投資を続けるのが基本的考えのようだ。その結果、バブル崩壊の被害も少なかったのかもしれない。長年の経験の結果、Nさんは持ち株を10社程度に絞り、それ以上は広げない。それがけがをしない秘訣だともいう。時価どの程度の株を保有しているかについてはノーコメントとして教えてくれなかった。

 Nさんは若いころ、政治家を志したことがある。愛知県選出の国会議員の秘書的な動きもして、郷里から選挙に出ようと岡崎に事務所を構え、準備を始めた。その途中、選挙には想像以上の金がかかることを知らされ、ばからしくなって断念したという。それだけに政治家の言動に対する見方は厳しい。最近の政治家の姿を見て「日本も世界もそうだが、政治家はけんかばかりをしている」と感想を述べ、「平和がいかに大事かを考えてほしいし、親切心を忘れないでほしい。お互いにもっと話し合い、ささやかでもいいから握手をすべきだ」と注文を付けている。

 ボランティアとして 

 早くに両親を亡くし、寂しい少年時代を送った体験からか、ボランティアとしての取り組みにも力を注いだ。その活動は3点が中心だ。1つ目は、太平洋戦争の激戦地で戦死した日本人の遺骨収集だ。国会議員の秘書グループと一緒に東南アジア諸国を視察した際、現地の人から「日本人の遺骨が放置されたままになっている」と聞かされたことが頭を離れず、1974(昭和49)年10月、政府派遣の遺骨収集団に参加し、18日間、米国自治領・北マリアナ諸島テニアンで、初めて風雨にさらされた多数の遺骨の収容作業を経験する。以来、ペリリュー(パラオ)、サイパン(米国自治領・北マリアナ諸島)、ラバウルパプアニューギニア・ニューブリテン島)、硫黄島(東京都)など、全部で9回の遺骨収集に参加し「戦争の悲劇と悲惨な死を遂げた戦没者のことを忘れないことが生き残った人間の責任だということを痛感した」と語っている。

 ボランティアとしての2つ目は、1939年(昭和14)に旧満州国モンゴル人民共和国の国境紛争をきっかけに日本軍とソ連軍が武力衝突、日本軍が壊滅的打撃を受けたとされる「ノモンハン事件」の現地への慰霊訪問のリーダーとしての働きだ。事件から41年目になる1980年、知り合いの政治家から、事件の遺族が現地に行きたいので中国側と交渉してほしいという要請があった。当時、現地への訪問は認められていなかったが、Nさんは早速訪中し、内モンゴル自治区の主席に直談判。主席は「関係者ではないあなたがよく来てくれました」とNさんの行動に驚き、周辺を「解放区」として遺族の巡礼を認めたという。この年の訪問以来、遺族を引率したNさんのノモンハン行きは30回を数えた。

 Nさんは途中からノモンハンに近い、中露国境の満州里市の平原に現地の政府と一緒にアンズの木を植える植樹運動も実施し、これまでに日本から持参した22万本を植えた。現地の平原は砂漠化が進行しており、植樹はそれを防ぐとともに戦没者の慰霊の意味もあるという。満州里に比べると、ささやかだが、山形県大石田町最上川岸にも52本の桜の苗木を植樹している。南方の太平洋戦争戦跡への旅で知り合ったこの町に住む女性が、桜の植樹活動をしていると聞いて協力した。その桜は今では花が咲くようにまで成長し、Nさんも何度か現地を訪問した。

 3つ目は、中国残留日本人孤児の支援活動だ。Nさんは中国の東北部でも遺骨収集をと考え、ノモンハンより以前の1970年代後半にハルビンを訪問した。当時、旧満州への日本人の訪問は少ない時代だった。宿泊したホテルに日本人孤児だという人たちがやってきて、Nさんに「日本の肉親を捜す手助けをしてほしい」と訴えた。帰国したNさんは厚生省(現在の厚生労働省)の援護局長(当時)の部屋に怒鳴り込むような形で入り込み「国が日本人孤児の支援をしないのはおかしい」と抗議し、局長と押し問答になったという。互いに興奮し、相手の局長はNさんが暴力をふるったと主張したが、その場は何とか収まった。自分がこうと思ったら、相手の社会的地位は忘れてしまうNさんの猪突猛進ぶりは内モンゴルに続き、ここでも発揮されたといえる。

 Nさんらの運動の結果、旧満州には終戦前後の混乱で肉親とはぐれ、中国人の養父母に育てられた多くの日本人孤児たちが残っていることが大きな社会問題となり、1981年から訪日調査が始まる。東京・代々木の調査会場にも駆け付け、孤児たちの激励を続けた。Nさんは、孤児たちだけでなく中国に残留した婦人たちの里帰りにもかかわり、満州里からの留学生の面倒も見た。

 人生を振り返って 

 これまでの人生を振り返って、Nさんは「多くの人に助けられた人生で、運がよかった」と述べている。両親を幼い時に亡くしたこともあって、早く独立独歩をしたいという思いが強く「節目、節目で人に親切にされ、運にも助けられた」とも言う。そのうえで、遺骨収集やノモンハンへの巡礼、中国残留日本人孤児への支援活動は「多くの人から親切を受けたことに対するささやかな恩返しだ」と謙虚に語っている。

 個人の株取引という、傍目から見れば不安定でギャンブル的生活を送ったはずのNさんの風貌は優しく、そうした影は全く感じられない。それがNさんの魅力なのかもしれない。

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 無宗教のNさんは「死んだら海に散骨してほしい」と言い残した。奥さんはその言葉通りにし、「今頃あの人は世界中を回り、株をやっているのかもしれません」と話している。

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