小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2067 自分の信じる道を真っ直ぐ歩いた人 ある長い墓碑銘

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 かつて取材で知り合った東京のNさんがことし1月に亡くなったと、奥さんから喪中のはがきが届いた。間もなく11月。そろそろ年賀状を書く季節が近づいている。Nさんとは、中国まで一緒に旅をしたことがある。脳梗塞で倒れ、1年間は車いす生活を送り、奥さんに「幸せだった。ありがとう」を何度も繰り返して旅立ったという。Nさんについて書いた7年前の文章がある。やや長いが、「独立独歩の生き方」として書いた文を墓碑銘として以下に紹介したい。個性豊かで、自分の信じる道を真っ直ぐに歩いた人だった。

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 はじめに 

 株の取引で生計を立てる傍ら、太平洋戦争で亡くなった戦死者の遺骨収集、日本軍とソ連軍が激突し、日本側に甚大な被害が出たノモンハン事件の現地巡礼、さらに終戦前後の混乱で旧満州中国東北部)に残された中国残留日本人孤児の支援活動を続けた知人がいる。東京在住のNさん(79)歳だ。幼くして両親を失い、独立心が旺盛だったNさんは、これまでの人生の大半をフリーの身で過ごしてきた。その気概に満ちた歩みをたどってみる。

  生い立ち 

 1935年(昭和10)4月27日、愛知県岡崎市で生まれた。父親は山を購入し、そこから石材を採取して販売する仕事をしており、自宅含め家を5軒持つほど裕福な家庭だった。しかし、軍隊に召集された父親は中国で除隊後、病気で亡くなる。母親も後を追うように病死し、6歳で両親を失ったNさんは3歳上の姉とともに愛知県内の母方の祖母宅に引き取られ、中学校までこの家で多感な少年時代を送った。中学を終えると、母校の中学校の校長の家に下宿して、岡崎市内の高校を卒業した。早くに両親を亡くしたNさんの境遇に同情した校長が手を差し伸べてくれたのだという。

 高校卒業後、自転車用ライトメーカーの東京支店でアルバイトをしながら大学進学を目指すが、志望校に合格しなかったため断念する。そのままアルバイトをしながら25歳になったころ、たまたま証券会社の幹部と話す機会があった。株に関する話に興味を持ち「この程度の人が株をやっているのなら、自分にもできる」と思い込み、これまで大学進学用にと貯めてきた50万円を元手に株の取引を始めた。傲慢、自信過剰とも思える動機だったが、水に合っていたのか、元手の資金は少しずつ増えていき、30歳の時には東京・新宿のマンションを購入できるほど羽振りがよくなった。

 Nさんは、株取引に関して「新聞や雑誌はあてにならない」という信念を持っていて、新聞を定期購読したことはない。それよりもできるだけ人に会い、多くの人とよもやま話をして情報を蓄積、それに自分の勘も働かせて取引するという「株取引の方程式」を独学でつくり上げた。バブル経済が崩壊した際、持ち株の一部が下落して損失を受けたが、危ない業種はできるだけ避けていたため、大きな損失には至らなかったという。株取引の極意については、フランスの哲学者、デカルト方法序説の中の一節「我思う故に我あり」のようなものだと話している。やや難しいが、すべてを疑い、慎重に投資を続けるのが基本的考えのようだ。その結果、バブル崩壊の被害も少なかったのかもしれない。長年の経験の結果、Nさんは持ち株を10社程度に絞り、それ以上は広げない。それがけがをしない秘訣だともいう。時価どの程度の株を保有しているかについてはノーコメントとして教えてくれなかった。

 Nさんは若いころ、政治家を志したことがある。愛知県選出の国会議員の秘書的な動きもして、郷里から選挙に出ようと岡崎に事務所を構え、準備を始めた。その途中、選挙には想像以上の金がかかることを知らされ、ばからしくなって断念したという。それだけに政治家の言動に対する見方は厳しい。最近の政治家の姿を見て「日本も世界もそうだが、政治家はけんかばかりをしている」と感想を述べ、「平和がいかに大事かを考えてほしいし、親切心を忘れないでほしい。お互いにもっと話し合い、ささやかでもいいから握手をすべきだ」と注文を付けている。

 ボランティアとして 

 早くに両親を亡くし、寂しい少年時代を送った体験からか、ボランティアとしての取り組みにも力を注いだ。その活動は3点が中心だ。1つ目は、太平洋戦争の激戦地で戦死した日本人の遺骨収集だ。国会議員の秘書グループと一緒に東南アジア諸国を視察した際、現地の人から「日本人の遺骨が放置されたままになっている」と聞かされたことが頭を離れず、1974(昭和49)年10月、政府派遣の遺骨収集団に参加し、18日間、米国自治領・北マリアナ諸島テニアンで、初めて風雨にさらされた多数の遺骨の収容作業を経験する。以来、ペリリュー(パラオ)、サイパン(米国自治領・北マリアナ諸島)、ラバウルパプアニューギニア・ニューブリテン島)、硫黄島(東京都)など、全部で9回の遺骨収集に参加し「戦争の悲劇と悲惨な死を遂げた戦没者のことを忘れないことが生き残った人間の責任だということを痛感した」と語っている。

 ボランティアとしての2つ目は、1939年(昭和14)に旧満州国モンゴル人民共和国の国境紛争をきっかけに日本軍とソ連軍が武力衝突、日本軍が壊滅的打撃を受けたとされる「ノモンハン事件」の現地への慰霊訪問のリーダーとしての働きだ。事件から41年目になる1980年、知り合いの政治家から、事件の遺族が現地に行きたいので中国側と交渉してほしいという要請があった。当時、現地への訪問は認められていなかったが、Nさんは早速訪中し、内モンゴル自治区の主席に直談判。主席は「関係者ではないあなたがよく来てくれました」とNさんの行動に驚き、周辺を「解放区」として遺族の巡礼を認めたという。この年の訪問以来、遺族を引率したNさんのノモンハン行きは30回を数えた。

 Nさんは途中からノモンハンに近い、中露国境の満州里市の平原に現地の政府と一緒にアンズの木を植える植樹運動も実施し、これまでに日本から持参した22万本を植えた。現地の平原は砂漠化が進行しており、植樹はそれを防ぐとともに戦没者の慰霊の意味もあるという。満州里に比べると、ささやかだが、山形県大石田町最上川岸にも52本の桜の苗木を植樹している。南方の太平洋戦争戦跡への旅で知り合ったこの町に住む女性が、桜の植樹活動をしていると聞いて協力した。その桜は今では花が咲くようにまで成長し、Nさんも何度か現地を訪問した。

 3つ目は、中国残留日本人孤児の支援活動だ。Nさんは中国の東北部でも遺骨収集をと考え、ノモンハンより以前の1970年代後半にハルビンを訪問した。当時、旧満州への日本人の訪問は少ない時代だった。宿泊したホテルに日本人孤児だという人たちがやってきて、Nさんに「日本の肉親を捜す手助けをしてほしい」と訴えた。帰国したNさんは厚生省(現在の厚生労働省)の援護局長(当時)の部屋に怒鳴り込むような形で入り込み「国が日本人孤児の支援をしないのはおかしい」と抗議し、局長と押し問答になったという。互いに興奮し、相手の局長はNさんが暴力をふるったと主張したが、その場は何とか収まった。自分がこうと思ったら、相手の社会的地位は忘れてしまうNさんの猪突猛進ぶりは内モンゴルに続き、ここでも発揮されたといえる。

 Nさんらの運動の結果、旧満州には終戦前後の混乱で肉親とはぐれ、中国人の養父母に育てられた多くの日本人孤児たちが残っていることが大きな社会問題となり、1981年から訪日調査が始まる。東京・代々木の調査会場にも駆け付け、孤児たちの激励を続けた。Nさんは、孤児たちだけでなく中国に残留した婦人たちの里帰りにもかかわり、満州里からの留学生の面倒も見た。

 人生を振り返って 

 これまでの人生を振り返って、Nさんは「多くの人に助けられた人生で、運がよかった」と述べている。両親を幼い時に亡くしたこともあって、早く独立独歩をしたいという思いが強く「節目、節目で人に親切にされ、運にも助けられた」とも言う。そのうえで、遺骨収集やノモンハンへの巡礼、中国残留日本人孤児への支援活動は「多くの人から親切を受けたことに対するささやかな恩返しだ」と謙虚に語っている。

 個人の株取引という、傍目から見れば不安定でギャンブル的生活を送ったはずのNさんの風貌は優しく、そうした影は全く感じられない。それがNさんの魅力なのかもしれない。

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 無宗教のNさんは「死んだら海に散骨してほしい」と言い残した。奥さんはその言葉通りにし、「今頃あの人は世界中を回り、株をやっているのかもしれません」と話している。

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