小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1411 会津の歴史が詰まる古刹 国宝を持つ勝常寺

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「山は暮れて野は黄昏の薄哉」(与謝蕪村) 蕪村は江戸時代を代表する俳人で、絵師でもある。先日、未確認の俳句212句が俳句集「夜半亭蕪村句集」に収録されていたというニュースがあり、蕪村の俳句の奥の深さを感じたものだ。秋の気配が漂う会津や日光を訪れ、蕪村の冒頭の俳句を思い出しながら山の紅葉に見入った。

 会津は紅葉の季節。磐梯山の山腹も赤く染まり、稲の取り入れは終わっていてそば畑では収穫を待つそばが実っていた。 磐梯山を遠くに臨む会津盆地の中央に位置する福島県河沼郡湯川村に、勝常寺という真言宗豊山派の寺がある。

 この寺は平安時代初めの807年(大同2年)あるいは810年(弘仁元年)に法相宗の徳一が開基したといわれる古刹で、薬師三尊像(薬師如来坐像、脇侍の日光菩薩立像・月光菩薩立像)という木造の国宝がある。こうした国宝はなかなか拝観の機会はないが、事前予約で拝観することができた。

 徳一は空海最澄と同時代に生きた僧で、最澄との間で教理論争を展開したことで知られている。 勝常寺には多くの仏像があり、薬師堂(国重文)と観音堂と呼ぶ収蔵庫に分れて安置されている。薬師如来坐像(国宝)と十二神将立像(村指定文化財)、徳一上人坐像(同)が薬師堂(国重文)にあり、日光菩薩立像・月光菩薩立像(国宝)や十一面観音立像(国重文)など十体は収蔵庫に安置されていた。

 寺の関係者の案内で収蔵庫、薬師堂の順で仏像を拝観した。 国宝の薬師三尊像のうち、中尊の薬師如来坐像はけやきの一材を前後に割って内部をくり抜き再びはぎ合わせる割矧ぎという技法で作られた。肩から腹部にかけての量感が目に付き、厳しい表情もあって威圧感がある。

 脇侍の両菩薩はけやきの一材から彫られ、スマートに見えるが、腰から下半身の量感は薬師如来と共通するものだが、表情は中尊よりやや優しい。仏師はこれらの仏像をどのような思いで彫り続けたのだろうか。

 境内の一角には「土井晩翠ウォーナー碑」があった。詩人の土井晩翠は1946年(昭和21)にこの寺を訪れ、詩をつくった。碑の表には晩翠の次の詩が刻まれていた。ここでいう13体というのは、平安仏12体と徳一坐像を加えた数のことだ。

 一千余年閲(けみ)したる 仏像の数十三を 伝へ来りし勝常寺 尊き国の宝なり 秋のけしきの深みゆく 会津郊外勝常寺 仏縁ありて詣うできて 十三像を拝みみぬ

 一方、碑の裏側にはアメリカの美術史家で、太平洋戦争当時、貴重な文化財がある京都などを空爆対象から外すべき地域として米軍に提言したといわれるラングドン・ウォーナーを称える文章が刻まれ「爆撃しないリストに勝常寺のある会津中尊寺地方を入れた」とあり、さらにウォーナーが1907年(明治40)にボストン美術館から研修生として日本に派遣され、東京美術学校で漆工芸家の六角紫水から日本の古美術について学んだことなどが記されている。

 六角紫水は、1905年(明治35)に国宝級の仏像や社寺の調査のため全国を回り、勝常寺にも足を伸ばしている。 徳一時代の勝常寺は、奈良の古寺とひけをとらないほどの規模を誇り、七堂伽藍が並び、多くの僧が修行に励んでいたという。その後、伊達政宗会津侵攻で伽藍のほとんどが焼失、廃寺になる危機もあったが、会津の人々の強い信仰心に守られ、多くの仏像が残された。

 1935年(昭和10)の晩秋、勝常寺を訪れた俳人水原秋桜子(本名は水原豊で医学者)は、会津の歴史が詰まるこの寺の印象を「しぐれふるみちのくに大き佛あり」という句に残している。大き佛とは、もちろん薬師三尊像を指している。

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写真 1、稲の取り入れが終わった会津盆地から見た磐梯山 2、勝常寺・薬師堂 3、土井晩翠ウォーナー碑 4、観音堂・収蔵庫 5、紅葉の磐梯山 6、収穫を待つそば畑。遠くに磐梯山が見える。

薬師三尊像(湯川村HP)

1404 維持してほしい風情ある姿 2つの小さな仏堂