小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2074 寂の空への旅立ち 瀬戸内寂聴さん逝く

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 紅葉燃ゆ旅立つあさの空や寂(じゃく)

 作家の瀬戸内寂聴さんが今月9日に亡くなった。99歳。瀬戸内さんの名前を聞くと、私は必ずある日のことを思い出す。瀬戸内さんが得度し、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴になった1973年11月14日のことである。あれから間もなく48年になるが、記憶は鮮明だ。中尊寺は晩秋、燃え立つような紅葉に包まれていた。

 瀬戸内さんが平泉の中尊寺で出家、得度式をしたのは51歳の時だった。瀬戸内さんのことは、当時の私は『美は乱調にあり』という評伝のほかほとんど予備知識がなかった。そのころ仙台支社に勤務していた私にたまたま、取材のお鉢が回ってきたのだ。中尊寺は盛岡と仙台のちょうど中間に位置するとはいえ、本来なら盛岡支局のカバー範囲だ。ただ、深夜の取材ということで、デスクは車もありカメラマンがいる支社から取材させようと私に現地行きを指示したのだ。

 支社のデスクに取材を依頼してきたのは東京本社社会部の斉藤茂男という連載のルポ記事で名の高いデスクで「瀬戸内さんに会い、得度する心境を聞いてほしい」ということだった。これに関しては他の報道機関には漏れていないという話で、事前に会って話を聞くことができれば独占記事になるはずだった。カメラマンとともに社有の車で真夜中に仙台を出た私たちは、未明に中尊寺に到着した。宿坊を探し東京からやってくる瀬戸内さんを待ち構えているうち、次第に夜が明けてくる。中尊寺の周囲には紅葉が残っていて、美しい晩秋の姿を見せていた。しかし気温は零度近くまで下がっていて、体の震えが止まらない。  

 斉藤さんは瀬戸内さんと親交があると聞いた。徳島ラジオ商殺し事件で犯人とされた冨士茂子さんの冤罪をともに信じ、記者と作家としてそれぞれ支援活動をしていて知り合ったのだ。(懲役13年の有罪判決を受け冨士さんは仮出所後、再審請求の途中でがんのために死去したが、請求が通り、死後無罪判決が出ている)

 夜が明けても瀬戸内さんがやってくる様子はない。しびれを切らした私は宿坊を訪ね、瀬戸内さんの関係者に面会を求め「東京の斉藤デスクの指示で来た」と伝え、名刺を渡した。しばらくして関係者が戻ってきた。マスコミを警戒してひそかに裏玄関から宿坊に入ったそうで、「瀬戸内は間もなく得度なのでお会いはできないが、この朝の心境を句に書いたので渡してほしいと言われた」と、小さな紙片をくれた。そこには冒頭の句が書いてあった。  

 それは、人生に一つの区切りをつけ、剃髪をする朝の感懐が伝わる句だった。瀬戸内さんは得度後、記者会見し「50歳を過ぎて、自分の精神にアカがついてきたように思う。ここで自分自身を解体し、新しい自分を探りたいという欲求が日増しに強まり、得度を決心した」と話した。この後、瀬戸内さんは、人々に希望を持つことの大切さを訴え続けた。

 手元に「仏教新発見」(朝日新聞出版、全30巻)という日本の名寺を紹介した冊子がある。瀬戸内さんはこの冊子で「いま、釈迦のことば」というエッセーを毎号に載せている。この最終号・30巻『萬福寺』(京都府宇治市黄檗宗=おうぼくしゅう=の総本山)には「この世は美しい」と題した文を寄せている。この中で瀬戸内さんは「『この世は美しい。人の命は甘美なもの』。私はお釈迦さまの遺された多くの尊いことばの中でも、このことばが、天来の音楽のようにかぎりなく美しく聞こえてきます」と書いている。

 紅葉の美しい季節に旅立った瀬戸内さん。その朝の空も、静寂だったに違いない。

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 昨年、婦人解放運動家で無政府主義者伊藤野枝を描いた村山由香の小説『風よあらしよ』(集英社)を読んだ後、瀬戸内さんの代表作である伊藤野枝と思想家で社会運動家大杉栄の評伝『美は乱調にあり』(岩波現代文庫)と『諧調は偽りなり』(岩波現代文庫)を続けて再読した。現場主義をモットーとする瀬戸内さんらしい徹底取材した作品だった。瀬戸内さんは、3・11の東日本大震災後は、住まいのある京都から被災地に度々足を運び、被災者の心の支えになった。常に前を向いて歩く人だった。

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 写真は中尊寺金色堂と昨日に続き今朝も現れたビーナスベルト現象