小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2018 五輪は滅亡への道か 極度な緊張を強いられる東京

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 コロナ禍によって世界が混乱に陥っている中、1年延期された東京五輪パラリンピックの開催が迫ってきた。「安心・安全な大会を目指す」という言葉が開催当事者から繰り返されても、中止を求める声は根強い。作家の沢木耕太郎は、1996年の米アトランタ五輪をテーマにした『オリンピア1996 冠(コロナ)〈廃墟の光〉』(新潮文庫)で、「アトランタ五輪は五輪の滅びの道の始まり」と書いている。言うまでもなく、五輪の商業化=国際オリンピック委員会IOC)が米テレビ局NBCと結んだ巨額の放映権料を最優先にした、卑屈な姿勢がこの背景にある。そして、これまでの東京大会をめぐる数々の不祥事、不手際というゴタゴタぶりを見ていると、五輪は確実に滅亡への道を走り続けていると言わざるを得ない。

 アトランタ五輪といえば、オリンピック公園の屋外コンサート会場で大会7日目の7月27日午前1時20分ごろ(現地時間)爆破テロが発生した。ミュンヘン五輪事件(注1)とともに、五輪の負の歴史になっている爆破テロにより会場にいた2人が死亡し、111人が重軽傷を負った。爆発前に不審なバックを発見した警備員のリチャード・ジュエルさんは、周辺の人たちに離れるよう指示し、多くの命を救ったとして、メディアから英雄的扱いをされた。

 しかし早期の犯人逮捕ができなかった連邦捜査局FBI)は、ジュエルさんを有力容疑者として捜査の対象にした。それを報道機関にリークし、各報道機関はこぞってジュエルさん犯人説を報じ、周辺を徹底して嗅ぎまわる。この2年前に日本で起きた松本サリン事件(1994年6月)の河野義行さんと同様の扱いを受けた、メディアスクラム(注2)だ。

 結局、ジュエルさんは事件とは無関係と判明、FBIは元アメリカ陸軍兵士で爆弾に詳しいキリスト教原理主義者の男を容疑者として指名手配。男は2003年に逮捕され、裁判で終身刑となり、コロラド州の刑務所で服役している。沢木はこの本の中で、FBIがジュエルさんを有力容疑者としてリークした理由を「アトランタを覆う祭りを成功させるために、彼を生け贄の羊として祭壇に捧げたのだ」と書いている。ジュエルさん犯人説の報道によって、一般の観光客は既に犯人が逮捕されたと思い込み、アトランタに安心してやってくる、というわけだ。FBIは五輪というお祭りを盛り上げるためにジュエルさんを犠牲にした、というのである。

 この事件を基にしたクリント・イーストウッド監督の映画『リチャード・ジュエル』が昨年1月に公開された。私はこの映画を見落とし、最近になってネットフリックスで見た。事件を丁寧になぞった展開で、腕利きの弁護士とネタを取るためには何でもやるという女性記者の存在はいかにも映画的だが、淡白な映画を盛り上げていることに間違いはない。捜査に協力的だったジュエルさんがFBI捜査官と対決するシーンの最後の言葉が胸に迫った。「僕に対して根拠はあるのか、つまり証拠です。あの晩僕が仕事をしたから生きている人たちがいる。でも、次に警備員が不審な荷物を見つけたらその人は通報するだろうか。疑わしい。きっとこう思うはずだ。ジュエルの二の舞はご免だ、逃げようと。……誰も安全ではなくなる。(中略)僕を罪に問う証拠はあるのか?……どうだ」。捜査官はこの問いにまともに答えることができない。

 沢木は本の「あとがきⅢ」で「もし、(東京大会が)開催されたとしたら、さまざまな困難が待ち受けることになるだろう。東京は、極度な緊張を強いられる都市になる。そのとき、思いがけない事件が起き、予想もしなかった展開になり、信じられないようなパニックが生まれかねない。そして、そのパニックを抑えるため、誰かが、あるいは何かが、スケープゴートとして祭り上げられてしまうという可能性もないではないのだ」と、東京大会の開催に厳しい見通しを書いている。現実を直視すれば、コロナ禍が収束に至らない段階での開催は、東京を緊張感に包まれた危険な都市にしてしまうだろう。そして、第二のリチャード・ジュエルも……。この不安が的中しないことを願うばかりである。

 英誌エコノミストはこのほど世界で最も住みやすい都市の2021年版ランキングを発表、東京が5位に入った。本当かと思う。大阪は何と2位だ。驚きだ。トップはニュージーランド(NZ)のオークランド。このほかのトップ10をNZとオーストラリア、スイスの都市が占めたのは当然だとしても、大坂、東京のトップ10入りはやはり違和感がある。これでは、コロナ問題で後手後手の対策しかできなかった日本の政治家たちが図に乗ってしまうのではないか。

  注1、ミュンヘン五輪事件 1972年9月5日西ドイツ=現在のドイツ=ミュンヘン大会でパレスチナ武装組織黒い九月が起こしたテロ。イスラエルのアスリート11人が殺害された。

 注2、メディアスクラム 事件や事故が起きた際、被害者や容疑者とその関係者に多くの取材陣が押し寄せ、過熱した報道をすること。行き過ぎた取材行動によって取材対象者のプライバシーを侵害し苦痛を与える。さらに、無関係な一般市民にも影響が及ぶ場合がある。

2017 優しい眼差しで紡ぐ言葉 詩人たちとコロナ禍

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 現代に生きる私たちにとって逃げることができない重い存在は、コロナ禍といっていい。この1年半、この話題が果てしなく続く日常だ。それは詩人にとっても無縁ではなく、最近、手元に届いた詩誌や小詩集にもコロナ禍が描かれている。この厄介な感染症が収束する日が一刻も早くやってくることを願いつつ、それらを読んでいる。

 詩人でコラムニストの高橋郁男さん(元朝日新聞記者・天声人語担当)は文芸誌「コールサック」に『風信』という小詩集を連載している。2021年6月号の22回目は「東京・全球感染日誌・4」と題し、コロナ禍で明けた2021年を次のように書いた。

  2021年 元旦 丑年が明ける

 コロナ禍の先行きが不透明で

 人の行き来がままならない日々に

 空を行く鳥たちの姿が 目にとまる

 雀 鳩 烏 目白 尾長 椋鳥 鵜 鴎 鳶

 天と地の間を 自由に往来する

 翼あるものたちの再発見

 翼あるものたちに憧れて生まれた

 銀色の人口の翼の方は

 飛び立つ機会が減って 地上に逼塞している

 

 今年中には コロナ禍明けを告げるような

 一条の光が差し込むようにと念じつつ

 賀状に うし年の折句を添えて投函する

  う っすらと

 し ょこうきざすや

 とし のあけ

 うっすらと曙光兆すや年の明け

 (この後、高橋さんは2回目の緊急事態宣言のこと、3・11から10年になった原発事故の福島の現地について記し、第2次大戦が終わった1945年まで遡って「全球感染日誌」を続けている)

 私は元旦のブログの最後に「望みを持ちましょう。でも、望みは多すぎてはいけません。(モーツァルトの手紙)という言葉を忘れず、日々を送りたい」と書いた。コロナのワクチン接種が始まったが、これが一条の光になることを願うばかりだ。

 『薇』という詩誌の同人たちは、近刊24号の「小景」という短いエッセィの中で、やはりコロナ禍に触れている。子どものころ、十五夜には団子泥棒が許されていたという月見の思い出(「月見」)を書いた杜みち子さん。「窓を開けっ放しにして、月を眺めていたあの時代、団子泥棒の手がにゅっと伸びてきても、あの時代が好きだ。たとえ、オリンピックが来なくても、コロナなどないあの時代が好きだ」という結びに、相槌を打つ。

 昨今の自粛生活を振り返り、続いて『薇』が創刊(2009年12月1日)して10年以上が過ぎたこと、主宰した飯島正治さん(元新聞記者、2010年9月7日死去)、創刊時からのメンバーの一人石原武さん(英米文学者、文教大学名誉教授、2018年3月20日死去)の2人がこれまでに亡くなったことにも触れた北岡淳子さん(「コロナ禍に、ふと」)。「振り返る道が長くなった。その杣道の随所が温く明るむのは恵まれた出会いや関わりの記憶だ。ひとつずつの命を包みもつ同時代の生き物たちがとても親しく、年ごとに日々を優しくする。コロナ禍の日々も、慈しみに潤っていて欲しいと願う」と書く、北岡さんの優しさを私たちも見習いたいと思う。

 『薇』の創刊以降、私たちは21世紀の歴史に大きく刻まれる2つの災厄を経験した。東日本大震災(2011年3月11日)とコロナ禍である。もし飯島さんが健在だったなら、この2つの災厄をテーマにどのような詩を書いただろうかと考えたりする。……苦闘する人々に温かい眼差しを向け、言葉を紡いだに違いない。

「記すに価することがあってはじめて筆をとれ。書くべきこと、語るべきことがあるとき、言葉は力強く流れるだらう(だろう)。これこそは人間の精神と文章との極めて自然な関係にはほかならない」。作家で文芸評論家の丸谷才一は『文章読本』(中央公論)の最後を、こんなふうに結んでいる。現代のコロナ禍は、記すに価することであり、書くべきこと、語るべきことが少なくない。

2016 「苦しんでいても微笑みを」『今しかない』(2)完

             

「ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと(Humor ist,wenn man trotzdem lacht)」。これはドイツ語のユーモアの定義で、2020年9月6日、88歳で亡くなった上智大名誉教授アルフォンス・デーケンさんの講義で聞いたことがあります。デーケンさんは日本で半生を過ごした「死生学」で知られるドイツ人哲学者で、この言葉は「私は今苦しんでいる。それにもかかわらず、相手に対する思いやりとして笑顔を見せます(微笑みます)」という意味だそうです。コロナ禍の現代だからこそ、この精神が求められているのかもしれません。

  前回に続き、小冊子『今しかない』第3号「笑顔」を要約して掲載します。今回は「笑顔特集」その他です。

 「笑顔」

 ※この度天本先生(ボランティアとしてハーモニカ演奏を続けている天本淳司さん)が収録された(DVDの)ハーモニカを母と拝聴しました。合わせて上手に歌う母に、こんな曲も知っているんだと驚くとともに大変うれしく感じました。私はお風呂で母の背中を流している時に一番幸せを感じます。これからも「今私にできること」を大切に、一日でも長く母の背中を流してあげられるよう日々大切に過ごしていきたい。

  ※ある日突然歩けなくなりました。声も出ない、文字が書けない、隣にある物が取れない、まるで赤ん坊です。人生がなくなったのです。しかし、ここでお世話になり、リハビリを教えていただき、だんだんと元の身体が戻ってきたので、職員の方々に感謝するばかりです。以前やっていた野菜作りがしたい、これが今の目標です。

  ※コロナがすべてを変えてしまった日常に笑顔を届けたい。「笑う門には福来る」ということわざがありますが、コロナ禍でも大笑いしたいな、アハハハハと。いつまで続くのかコロナ、笑いがなくさみしいです。世界中にコロナウイルスが流行するとは想像もしませんでした。楽しみだったサークルや行事もすべて中止になり、語り合うことや笑い合うことが少なくなりました。家ごもりも数カ月続くと、それに慣れてきて生活のリズムが変わり、慣れとはすごいことだと思います。のんびりと過ごすことは自然に笑顔が生れるもの。「ひなたぼっこ」してもうれしい、おいしいものを食べてもうますぎると笑えます。笑顔をたやさない日常がほしい。みんなで助け合い、一日も早いコロナの収束を願っています。

  ※40年も前のこと、おじ達を名所に案内することになった。「いやぁたいしたもんだねー」「そだねー、内地の人は車のマナーもいいっしょ」明るくひょうきんなおじ達の言葉で車の中は花が咲いたよう。悲しい時なのに笑顔でいられた。父の葬儀に駆けつけてくれたおじ達と、こんなよい時を過ごせたのは、父や母のおかげです。

  ※笑顔の俳句

 大あくび所在なげなる梅雨の犬

 おかっぱに花びら一つ止まりけり

 老眼鏡取れば小さしてんとう虫

 「今しかないを読んで」

 ※いつも温かいお心のこの小冊子も皆様の肉声が拝読でき、本当にありがとうございます。

  ※人の思い出は十人十色。皆さん良い思い出をお持ちですね。心が和みました。私は6歳からここでお世話になるまでの歳月は忍一文字がほとんどでしたから、冊子にあった「感謝」2文字を胸に刻んでお世話になりたいと思います。まさしく「今しかない」ですね。ありがとうございました。

  ※良くできていました。涙が出ました。昔のことを思い出しました。

  ※良かったです。涙が出ました。

  ※戦争中のことなどを思い出しました。涙が出ました。

  ※作者の気持ちがよく伝わりました。

  ※ありがとうとごめんなさいは、早く言った方がいいよとの母の教えでした。いろんな表現で感謝の心は伝えられる、冊子を読むとまた一段と思いは深くなると感じました。ハーモニカの先生に見守られていることを実感された90歳の女性の方のういういしい表情が浮かび、優しいまなざしで接していらっしゃる方々に感謝です。

  ※飾らない心が伝わってきました。言葉たちが温かく、ずっと読んでいたいけど、そうすると涙が出てきそうで……。一旦本を閉じたりして、言葉を大事に追いました。この本に出会えてうれしいです。挿し絵も大好きです。

  ※ほんのりとあたたかく「今しかない」は心のぬくもりを感じます。それはその時その場所における真実が書かれているからだと思います。それぞれの長い人生における心に残ったことが真実でなくて何でしょうか。発表された方も本当のことを書きたくて待っていたように思います。

 「今だから話せる一言」

 ※私は戦前生まれで、大病をして今日まで長生きしていますが、数多くの言葉の中の一文字が頭にあります。それは「信」という文字です。信実、信念、信義、信賞必罰等、他にもありますが、(「信」という文字を)肝に銘じて生活している者です。信実と誠実なしでは世の中は渡って行けないと思いますが、どうでしょうか。

(注・「信実」と「真実」の違い。「信実」は偽りがなく誠実なこと。人物に対して使う。「真実」は間違っていない正しいこと。事象に対して使う)

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 冒頭に記した言葉はデーケンさんがよく口にしたそうです。「自分が苦しい状況に置かれていても、相手を喜ばせようと微笑みかける心遣いが真のユーモアだ」という訴えに、改めて耳を傾けたいと思うこのごろです。

2015「笑顔を取り戻そう!」『今しかない』第3号から(1)

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 長引くコロナ禍によって、世の中から笑顔が消えてしまったようです。日々のニュースは暗い話題ばかりだと感じます。そんな時、『今しかない 笑顔』という小冊子が届きました。友人もボランティアとして運営に協力している埼玉県飯能市の介護老人保健施設・飯能ケアセンター楠苑・石楠花の会発行の第3号(44頁)です。冊子発行の代表者・齋藤八重子さんは「一生けん命に生きている人の顔は美しい。笑顔の人はもっと美しい」と書いています。コロナ禍が収束し人々が笑顔を取り戻すことを願いながら、冊子に目を通しました。

 今回は子どものころの思い出に続き、特集として「笑顔」に関する短い文(俳句も)が載っています。いずれもが激動の昭和に生きたことを思い起こさせる話です。2回にわたって主な文章を要約して紹介します。(筆者名は割愛)

「思い出 子どものころ」

 ※子どものころ焚火をしていた近所のおじさんが「寒かんべー、あったまってけ」と声かけてくれた。「ついでにこれも食ってけ」と。筍の皮をむき、その中に梅干しを挟んで口に入れ、チュー、チューと吸うと竹の香りがして美味しかった。おじさんに会うのが楽しみだった。昔はご近所さんが親戚のようだった。いつの間にかご近所さんとの縁は薄れ、地域との交流もなく寂しい世の中になった。私もあと何年か後にはあのおじさんのような、地域の「名物ばあちゃん」になりたいと思っています。

 ※東京都東長崎で生まれ、富士山も見えて環境もよかったのです。6年生から戦争が始まり、勉強どころじゃなく働いていました。そのなかでも友達と仲よくすごしました。飯能に越してきてもう50年です。

 ※瀬戸内で育ったので、ハマグリをよく捕りに行きました。ハマグリはみんなに配って食べました。

 ※国民学校1年生でやっと友達ができたと思った途端に隣町に引っ越し。そこで戦争と関東大水害に遭い、またまた引っ越し。戦災で火に遭い、水害で泥水につかり火と水に付き合ったから、もうコワイものはないぞと思った途端、オヤジが大病に見舞われた。その上戦後の大不況。道端のタンポポのオカズに麦と大豆を一つまみの米でつなぎ合わせたメシ、黒斑病に侵されたメシ等、忘れようにも忘れられない非道(ひど)い食生活を絶対忘れられない思い出として、味わったものでした。

 ※小学6年生まで雪深い北海道で生活していました。子どものころ、大雪の中母親と兄弟3人で父親が夜不在だった日にバスで10分かけてラーメンを食べに行きました。手袋に10円玉(バス代)数枚握りしめて4人で大雪の中おいしくてあたたかいラーメンをおいしいネ、おいしいネと笑顔で食べたことを思い出し、心が温かくなりました。

 ※私は昭和18年生まれです。太平洋戦争の真っただ中です。名前は勝ち進むの「進」にしたと親から聞いています。戦争の記憶はほとんどありません。昭和25年が小学校1年生。川でウナギ、ナマズ、銀魚捕り、あんまづり、クキ、ハヤ、サッパつり、カジカのあこ捕り、箱メガネの夜灯突き、沢蟹捕りもしました。赤蛙のモモ肉も食べ、蜂の子も飲み込みました。凧揚げ、ベーゴマ、メンコはよくしました。木登り、メジロ捕り、クワガタ、カブトムシ捕り、イタドリ、ワラビ、ヨモギ、どどめ(桑の実)、ツクシも摘みました。お茶の実を集めて学用品を買いました。MPのジープを追いかけてガムやチョコレートをもらいました。貧乏で食べるものは何もなかったけれど、何でも食べてよく遊び、楽しかったです。

 ※菅原都々子が歌った「憧れは馬車に乗って」は幼いころを思い出させてくれる。子どものころは、バスや汽車に乗るのが楽しかった。米子へ遊びに行くには必ずバスに乗るから、それが楽しみだった。近所に材木運搬の馬車引きのおじさんがいた。小学校へ行くか行く前のころか忘れたが、玄関先で乗りたそうに馬車を見ていたら、おじさん夫婦が馬車を止めて乗せてくれた。近くの山に連れて行ってもらい、切り出された材木を積んでいたら昼になったので、おじさん夫婦の弁当を分けてもらい一緒に食べた。自然の中で食べるのは余計においしい。

 その息子は私より10歳ほど先輩で、今も現役で自営業をしている。ある時、地域の行事を終えて懇親会でその思い出話をしたら、大変喜び感激して聞いてくれた。あの時乗った馬車はいつまでも脳裏を離れない。子ども心に夢を乗せた希望の馬車だったかもしれない。

 ※「少年時代」の短歌

 薄明にクワガタ捕りの少年は怖さとわくわく森中へ入る

 店頭のテレビに拳振り上げて力道山と諸共戦う

 レンゲ畑腕を枕に寝ころべば霊は宇宙に吸い込まれて行く

                 (続く)

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 1917 8年間に6000キロを徒歩移動 過酷な運命を生き抜いた記録

2014 ベニバナ無惨 謝罪求めるボランティア  

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 近所の公園の一角にボランティアが管理している小さな花壇がある。そこにはベニバナが数十本植えられていた。それが最近ごっそり抜かれ、花壇の外に放置されているのが見つかった。この行為にボランティアたちが怒り、花荒らしに「謝罪を求める」看板を設置した。コロナ禍で世の中全体がギスギスしている、現代を象徴するような「事件」といえる。

  ベニバナはキク科の1年草~2年草で、6~8月にかけて紅黄色のアザミに似た花が咲く。原産はエジプトやヨーロッパ、あるいはアジアという説がある。古代のエジプト王の墓にはベニバナとヒナゲシが見つかっており、歴史がある花なのだ。日本には3~4世紀ごろに渡来し、染料や薬用として栽培されてきた。「みちのくに来て居る証紅の花」(森田峠)の句のように山形では栽培が盛んで、県花に指定されている。

  私は散歩の際、時々この公園に行き、花壇の花を愛でるのを楽しみの一つにしていた。きょうも花壇を見に行くと、驚くような内容の看板が立っていた。そこには以下の文章と抜き取られて花壇のわきに置かれたベニバナの写真が張られていた。

「謝罪を求めます 私たちが丹誠込めて育てていたベニバナが全て抜かれてしまいました。誰がこんなことをするのでしょうか。よほどベニバナが嫌いなのか、私たちの活動が気に入らないのでしょうか。いずれにせよこの行為は許されません。謝罪を求めます。抜き取りの現場を見た方も情報をお寄せください」

 昔から「花泥棒」あるいは「花盗人」という言葉がある。後者は室町時代から使われているという。「花盗人」は罪にならないともいわれ、「花盗人は風流のうち」という言葉がある。東京堂出版の『故事ことわざ辞典』には「桜の花の美しさにひかれて、つい一枝無断で失敬するのは風流心によるものだから、盗みとしてとがめるのは酷であるという意。藤原公任の『われが名は花盗人と立てば立てただ一枝は折りて帰らん』なども、それと通ずる風流である」と、出ている。

 しかし、この花壇のベニバナの被害は「花盗人」のつい一枝というイメージではなく、「花強盗」という造語が似合う、荒々しくて下品な行為であり、ボランティアが怒るのも無理もない。

  昨年から続くコロナ禍によって、人出の多い場所へ出かけることを自粛する一方で、自宅周辺を散歩する人が増えているようだ。私の散歩コースも散歩やジョギングをする人たちの姿が以前より多くなっている。荒らされた花壇がある公園も、コロナ以前より人影が目に付く。そんな中でのベニバナへのひどい仕打ち。いたずらなのか、イライラが募りこんな行動に走ってしまったのか……。ボランティアの怒りに対し、犯人はどう思うのか。暗い気分で家に帰ったら、友人から『今しかない 笑顔』という小冊子が届いた。コロナ禍によって、笑顔を失った人は少なくない。私も笑顔を取り戻したい。

(『今しかない 笑顔』については、次回に書く予定です)

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2013 地球の気候変動への処方箋? 斎藤幸平著『人新世の「資本論」』

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「人新世」(じんしんせい、ひとしんせい=アントロポセン)は、地球の時代を表す名前の一つで、環境破壊などによる危機的な状況を表す言葉として使われる。オゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞したオランダ人化学者、パウル・クルッツェン(1933~2021)によって考案された「人類の時代」という意味の新しい時代区分だという。人類が地球の生態系や気候に大きな影響を及ぼすようになった現代が、まさにこの言葉の時代なのだ。この本は、思想家で経済学者カール・マルクス(1818~83)の『資本論』を参照しながら資本主義社会と温暖化が進行中の自然の実態を分析し、これからの人類の生き方を探ったものだ。

 斎藤は冒頭から国連が主導し日本政府を含む各国、さらに大企業が推進する「SDGs」(持続可能な開発目標)は(気候変動を止める行動をやっているという)「アリバイ作り」、(資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげるための)「大衆のアヘン」と断じ、論を進める。この本を推薦してくれた知人は、「仰天の中味だった。衝撃を受ける本というものには数年に一度くらいしか遭遇しないのだが、本書はまさにそれであった」と、読書ノートに書いている。

 私たちの地球は、年々自然環境の荒々しさが増している。私は以前のブログ(1812回、2019年9月10日)で「21世紀になって、この地球を取り巻いている自然環境は残念ながら荒々しいという言葉が当てはまるほど人類の傲慢な姿勢を背景に、世界で猛威を振るっている。一方で、人類は自然の変容に対抗できる手立てを持たないままに自国第一主義の政治家がリーダーとなり、米中に代表されるように、あきれるばかりの対立を繰り返している。日韓関係もその範疇に入る。21世紀は、後世の人々に何と言われるのだろう」と書いた。この本はそうした荒々しくなっている気候変動について8章に分けて考察し、結論として「経済の脱成長」が地球を救うと、提言している。

 知人が読書ノートに「正直21世紀が20年も過ぎた今にマルクスの名が登場するとは思ってもみなかった」と書いている通り、私も何で今更マルクスなのかと驚いた。時代錯誤の本なのかと思いながら手に取った。だが、内容は現代文明に対する警鐘であり、提言自体も荒唐無稽ではない。斎藤は世界を震撼させているコロナ禍について「人新世の危機の先行事例」と書き、そのうえで「気候変動がもたらす世界規模の被害は、コロナ禍とは比較にならないほど甚大なものになる可能性がある。コロナ禍は一過性で、ささやかなものだったと、気候変動に苦しむ後世の人々は振り返ることになるかもしれない」と予測をしている。

 斎藤のこの論考が外れることを願うのは私だけではないだろう。斎藤は、経済の脱成長を実現するためには資本主義とそれを牛耳る1%の超富裕層に立ち向かう必要があるが、3・5%の人々が非暴力的方法で立ち上がれば社会は大きく変わると、訴える。だが、どうだろうか。わが日本ではこの数字に対し知人の疑問に同意せざるを得ない。「昔は政治に反発する若者がいて学生がいた。ゲバ棒学生運動の活動家が使った棒状の武器)を持つ者すらいた。しかし、今の若者は保守政権へ岩盤支持者になってしまっている」。私には、知人の嘆きに反論するだけの材料はない。だから、現代の若者よ、こうした人生の先輩の嘆きに反発せよと、私は願うのだ。

(斎藤は1987年生まれの34歳。大阪市立大准教授で経済思想家。2017年に優れたマルクス研究を対象にしたドイッチャー記念賞を受賞したマルクス研究者)

 

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  写真 皆既月食の風景。山形の知人、板垣光昭さん撮影。

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 1812 炎暑地獄の9月 台風去って難が来る

2012 どこを向く新聞社 孤軍奮闘・信濃毎日の社説

 

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 新聞各社は東京五輪パラリンピックについて世論調査を実施し、開催中止や再延期の声が強いことを伝えている。しかし、新聞社自体がコロナ禍での開催についてどのような姿勢なのか、よく分からない。そんな中で長野県の地方紙、信濃毎日新聞(信毎)が「政府は中止を決断せよ」という注目すべき社説を掲げた。孤軍奮闘の「勇気ある姿勢」といっていい。

 信毎の社説は「東京五輪・パラ大会 政府は中止を決断せよ」と題し、23日付朝刊に載った。「不安と緊張が覆う祭典を、ことほぐ気にはなれない」という書き出しだ。その内容は①新型コロナウイルスの変異株が広がる中で、医療体制が危機に陥っている②海外からの観客の受け入れ断念や多くの自治体が選手との交流事業や事前合宿を諦めたことで、開く意義はしぼみつつある③コンパクト五輪、復興五輪、完全な形での開催、人類が新型コロナに打ち勝った証し、などと安倍晋三前首相と菅義偉首相らが強調してきたフレーズは、いずれもかけ声倒れで、何のための誰のための大会かが見えない。反対の世論は収まらず、賛否は選手間でも割れている。開催に踏み切れば、分断を招きかねない――が柱で、結論として大会の中止を迫っている。

 この社説について「勇気ある姿勢」と書いたのは、他の全国紙などが立場を鮮明にしていない中で中止論を張ったからだ。その背景は全国紙とブロック紙の計6社が東京五輪パラリンピックのスポンサーとして名を連ねているからと見られている。この大会では企業71社がスポンサーとなり、3720億円の協賛金を出している。日本オリンピック委員会(JOC)のホームページによると、五輪のスポンサー契約は4種類あり、1番目はワールドワイドオリンピックパートナー、2番目がゴールドパートナー、3番目がオフィシャルパートナー、4番目がオフィシャルサポーターとなっており、協賛金はランクが上の方が多くなっている。

 スポンサーの1番目はトヨタパナソニックという著名企業の名があり、3番目に読売新聞社朝日新聞社毎日新聞社日本経済新聞社(日経)の4新聞社が、4番目に産業経済新聞社(産経)と北海道新聞社(道新)の名前がある。こられ6社のスポンサー契約には電通が仲立ちしていると見られ、協賛金を出す代わりに各社は関連の広告や事業で利益を確保する狙いがあるのだろう。

 本来、新聞社は多額の税金が投入される大会について監視役としての役割があり、スポンサーになること自体、あり得ない話だ。こうした背景もあって、開会2カ月を切った段階で世論とかけ離れた政府や国際オリンピック委員会(IOC)、東京大会組織委員会の動きに対し、信毎のような姿勢を明確にした報道ができないのだろう。

 この中で道新は信毎の社説と同じ23日の朝刊に「五輪開催の可否 冷静な判断を」という社説を載せた。要約すれば「政府、東京都、大会組織委員会、IOCはオープンな場で率直に話し合ってリスクを分析し、根拠に基づき開催可否を判断するという、冷静で合理的な取り組みが求められている。世界の人々が集い、親睦を深める平和の祭典としての意義を失ってもなお開催する理由は何なのか。IOCは説明し実情を踏まえた可否の判断に臨むべき。このまま開催に突き進み、感染拡大を招くことは許されまい」という内容で、信毎社説に比べる歯切れが悪い。新聞社が大会スポンサー契約を結んでいるから、論説委員もこのように苦しい表現をせざるを得なかったのかもしれない。

 インドのPTI通信によると、IOCのバッハ会長は22日に開かれた国際ホッケー連盟のオンライン総会であいさつし、五輪開催を実現するために「われわれは犠牲を払わなければならない」と述べたという。誰がどんな犠牲を払うのか、なぜこのような発言をしたのかは不明だが、何が何でも五輪を開催するというIOCの姿勢を体現したものといえる。さて、どうする新聞社さん……。

  追記 九州のブロック紙西日本新聞は25日付朝刊で「東京五輪・パラ 理解得られぬなら中止を」という社説を掲載した。社説は「政府は『安心安全』に五輪を実施するというが、菅義偉首相をはじめとする政府の言葉はあまりに乏しく、実際はワクチン頼みで、国民を納得させる手だてなどない。大会の開催に国民の理解と協力が得られないのであれば、開催中止もしくは再延期すべきである」と主張。結びで「国民に重い犠牲を強いてまで五輪は開催しなければならないのか、と私たちは問いたい」と政府とIOCの姿勢に疑問を投げかけている。信毎、西日本新聞は五輪の大会スポンサーではない。(25日)

 朝日新聞は26日付朝刊で「夏の東京五輪 中止の決断首相に求める」という菅首相に開催中止を迫る社説を掲載した。前日には米国が新型コロナウイルスの感染拡大を理由に「日本への渡航中止を勧告」という発表をしており、国際的にも五輪中止を求める動きが高まっている。社説はリード部分で「新型コロナウイルスの感染拡大は止まらず、東京都などに出されている緊急事態宣言の再延長は避けられない情勢だ。この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない。人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む政府、都、五輪関係者らに対する不信と反発は広がるばかりだ。冷静に、客観的に周囲の状況を見極め、今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める」と、訴えている。

 朝日新聞は前述の通り、東京大会のオフィシャルパートナーになっているだけに、この社説が波紋を広げることは間違いない。

 ただ同じ朝刊のスポーツ面には1頁を使って「ジェンダー平等を五輪レガシーに」と題し、橋本聖子大会組織委会長らの発言を紹介したオンラインフォーラムの記事が載っており、社説とは違和感がある。(26日)

  写真 久しぶりにのぞいた青空にカメラを向けました。

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2011 平凡な日常への愛おしさ 1枚の絵が語る真実

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 コロナ禍によって、全国に初めて出された緊急事態宣言が全面的に解除になったのは、1年前の5月21日だった。当時の日記に私は「第2波は大丈夫か」と書いている。その懸念は当たってしまい、現在は第4波に見舞われている。コロナ禍は人々の日常生活に大きな影響を与え、閉塞状況がいつまで続くか分からない。そんな時、平穏な日常が戻ってほしいという思いが込められたような1枚の絵を見せてもらった。

 私の一日は、朝の散歩とラジオ体操で始まる。ラジオ体操は真ん中に花壇がある広場が会場で、周囲には、体操をする私たちを見守ってくれているようにマロニエセイヨウトチノキ)が植えられている。体操仲間の一人に水彩画を描くことを趣味にしているNさんがいて、これまでもこの場所を描いた何枚かの絵を見せてもらった。今回の絵は色とりどりの花が咲いている花壇を中心に、背景にはマロニエの木とベニカナメ、5月の青空を配置している。雨の日を除いて毎日目にする風景だ。それが1枚の絵になると、平凡な日常への愛おしさを感じる。

 近代絵画の父といわれるフランスのポール・セザンヌ(1839~1906)は、人物、静物画、水浴図など多くの作品を残した。1880年代以降は、故郷であるプロヴァンスの霊峰サント・ヴィクトワール山をモチーフとして連作に取り組んだ。齋藤孝は『ざっくり!美術史』(祥伝社黄金文庫)の中で、「山が持っている巨大な存在感、その存在が持つ引力のようなものに惹かれたのだ」と書いている。一方、Nさんは、これまでも何枚か同じ体操広場を描いている。Nさんにとって、ここは心が安らぐ場所であり、制作意欲がわき起こる特別な場所なのかもしれない。

 長田弘(1939~2015)の詩集『人生の特別な一瞬』(晶文社)の中に「美術館にゆく」という詩がある。そこには以下のような言葉が出てくる。(前段部分は割愛)

《絵を見るということ、彫刻を見るということは、日々のいつもの時間の中からぬけだして、絵を見にゆく、彫刻を見にゆく、そこへ見にゆく、ということだ。 

 絵を見に、彫刻を見にいって、絵の前に立ちどまり、彫刻の前に足をとめる。黙る。見る。絵を、彫刻を前にして、できることはそれだけだ。

 けれども、ただそうしているだけで、気がつくと、いつのまにか、澄んだ川が無言の空を映すように、無言の絵、無言の彫刻を映して、自分の気もちが澄んでいる。(中略)

 たまらなく美術館にゆきたくなるときがある。そして、美術館へゆき、見たかった絵や彫刻の前に立つと、ふだんはすっかり忘れている小さな真実に気づく。

 わたしたちの時間というのは、本来は、こんなにもゆっくりとして、すこしも気忙しいものではなく、どこか慕わしい、穏やかなものだった、ということに。》

  長田が書いているように、私もたまらなく美術館に行きたいと思う時がある。しかし、コロナ禍が続く今は美術館にはほとんど行かない。だから、どこか慕わしい、穏やかな真実を味わうことができない日々が続いている。そんな中でNさんが見せてくれた1枚の絵は、私の落ち込んだ気分を爽やかにする魔法のような効果を発揮した。画家たちが絵を描くのは「そこに生きて動いている生命を表現すること」(前記・齋藤著より)だという。そして、Nさんが描く花壇を中心にした小さな世界からも、自然界の不滅の生命力が伝わってくるのだ。

2010 責任転嫁の時代 「小人は諸(これ)を人に求む」

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  今、政界である出来事が話題になっています。それは「責任転嫁」という言葉を見事に体現したニュースです。「矜持」とは無縁の動きを見ていてあきれたのは私だけではないでしょう。2019年参院選の買収事件で自民党本部から河井克行被告と案里氏の夫妻側に渡った1億5千万円の資金拠出について、自民党二階俊博幹事長と当時の選対委員長である甘利明氏がそれぞれ責任を回避する発言をしたからです。

  報道によると、案里元議員は当時の安倍晋三首相(党総裁)や菅義偉官房長官(現首相)の支援を受けて当選したのですが、裁判で有罪が確定し、当選無効(判決確定直前に議員辞職)となりました。1億5千万円について17日に二階氏は「支出された当時私は関係していない」と発言。同席した林幹雄幹事長代理が「当時の選挙対策委員長(甘利氏)が広島に関しては担当していた」と説明しました。18日の記者会見でも二階氏は「党全般の責任は私にある」としつつ「個別選挙区の戦略や支援方針はそれぞれの担当で行っている」と改めて説明。ここでも林幹事長代理が発言し、記者団に「根掘り葉掘り党の内部のことまで踏み込まないでもらいたい」と、見当外れの脅しをかけたのです。

  一方の甘利氏といえば、記者団に「1ミリもかかわっていない。もっと正確に言えば1ミクロンも関わっていない」と言い切り、かかわりを否定したというのです。林氏の発言を見当外れと書いたのは、1億5千万円のうち1億2千万円は政党助成金という国民の税金だったからです。大事な税金を使った以上、説明責任が生じるのは当然なことで、二階氏、甘利氏、林氏の言動は無責任そのものといえるでしょう。

 上述の自民党の幹部は、立場から言うと一応リーダー的存在なのでしょう。昨今は、というよりもこの世界は私も含めて「自分に甘く、他人に厳しく」の姿勢の人が多いのが現実です。しかし、政治のリーダーたる立場にいる人物は国民から不信感を持たれるような言動は慎まなければならないのは言うまでもありません。二階氏、甘利氏に加え安倍前首相、菅首相の4人にはこの問題に関し国民に詳しく説明する義務があると私は思うのです。

 責任といえば、大村秀章愛知県知事へのリコール署名偽造事件で、運動団体の事務局長で元愛知県議の田中孝博容疑者と妻、次男らが地方自治法違反(署名偽造)の疑いで愛知県警に逮捕されました。有権者の署名をアルバイトを使って偽造したという容疑です。このリコール運動団体の会長は美容外科高須クリニック高須克弥院長で、河村たかし名古屋市長も運動の有力な支援者でした。2人は事件への関与を全面否定していますが、このような民主主義を根底から揺るがす事件に発展した責任をどう取るつもりなのでしょうか。

  近くに『論語』(加地 伸行著・講談社学術文庫)の文庫本がありました。パラパラと頁をめくっていましたら「責任」に関する2つの言葉が出ていました。参考になりますね。

「子曰く、君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」(衛霊公21)=立派な人(あるいは素晴らしい人やリーダー)は何事でも自分で責任を取るが、小人(器の小さなつまらない人)は責任を他人のせいにする(ブログ筆者意訳)。

「子曰く、躬(み)自ら厚くして、薄く人を責むれば、則(すなわ)ち怨みも遠ざかる」(衛霊公15)=自分の責任を問うことは厳しくし他者に対して穏やかにすれば、人から怨まれることはなくなるだろう(同)。

2009 歴史に刻まれるミャンマー民衆への弾圧 ゴヤの『1808年5月3日』想起

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  クーデターによって政権を奪ったミャンマーの軍事政権が、これに反対する市民に容赦なく銃を向け、虐殺を繰り返している。その光景はスペインの画家、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746~1828)の『1808年5月3日』(あるいは『1808年5月3日の銃殺』)を連想させる、忌むべきものだ。ミャンマーに平和という国際社会の声は、軍事政権には届かないのだろうか。

  ゴヤの絵は、スペイン・マドリードプラド美術館に展示されている、スペイン独立戦争当時のフランス軍による惨劇をテーマにした油彩画(268センチ×347センチ)だ。ナポレオン率いるフランス軍は1807年スペインに侵攻し、翌08年にはナポレオンの兄ジョゼフがホセ一世としてスペイン王になった。この年から14年にかけてスペインの民衆はフランスからの解放を目指して独立戦争を続ける。08年5月3日にはマドリードで蜂起した市民をフランス軍が鎮圧し、反乱に加担した400人をプラド通り、ピオの丘など各所で銃殺した。多くの人々の命を奪った銃声は、真夜中のマドリードの街中に響いたという。

  既に聴力を失っていたゴヤは翌朝、処刑があった場所に出向き、累々と横たわる死体を目にし、1814年になって後世に残るこの絵を描いた。プラド美術館発行の「名作100選」は「午前中、フランス軍を襲った民衆はいまや銃殺される側となり、手前に見える既に処刑された者、突き付けられた銃に恐怖し慈悲を乞う者、諦めの表情を呈する者、絶望する者と、様々な表情が交錯する。そしてこれから処刑される人々の列が背景にある町の重厚な門へと続いている。街燈の強い光が冷たく湿った夜気を感じさせ、寂しく暗い荒地に展開されるぞっとするような死の光景を照らし出している」と、解説している。この絵の中央には、両手を挙げた白シャツ姿の男が描かれている。その姿は、十字架に磔になったキリストのように私は見える。

  ゴヤは40歳で国王付きの画家となり、40歳代でスペイン最高の画家として遇される。しかし、突然難聴となり、音のない世界に生きることになる。それでも制作意欲は衰えることなく、代表作といわれる作品群(この絵のほか『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『巨人』など)は聴力を失って以後の後半生に描かれた。マドリード市民の悲しみの歴史、戦争の愚かさを描いたこの絵は、プラド美術館の奥まった部屋に展示されている。スペインの後輩画家、パブロ・ピカソに影響を与えたといわれ、123年後の1937年、ピカソは『ゲルニカ』を完成させる。

  それから80数年、東南アジアのミャンマーでは軍事政権が復活。市民だけでなく批判的なメディアや記者への規制、弾圧を強めており、4月にヤンゴンで拘束された日本人記者、北角裕樹さん(45)は、ようやく14日に解放され、帰国した。ミャンマーの北西部チン州では、国軍が市民を「人間の盾」に使い、地元市民の武装組織を退散させたという報道もある。抵抗勢力を撲滅するためには手段を選ばない国軍のこうした姿は、悪しき歴史として後世へと刻まれるに違いない。       

      

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 写真1、バラの季節になった。散歩をしていると、美しいバラに出会う。2、ゴヤの『1808年5月3日』(プラド美術館 名作100選より)

 1985「不正のない国で暮らしたい」ミャンマー・デモ参加の女性に学ぶ