小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2011 平凡な日常への愛おしさ 1枚の絵が語る真実

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 コロナ禍によって、全国に初めて出された緊急事態宣言が全面的に解除になったのは、1年前の5月21日だった。当時の日記に私は「第2波は大丈夫か」と書いている。その懸念は当たってしまい、現在は第4波に見舞われている。コロナ禍は人々の日常生活に大きな影響を与え、閉塞状況がいつまで続くか分からない。そんな時、平穏な日常が戻ってほしいという思いが込められたような1枚の絵を見せてもらった。

 私の一日は、朝の散歩とラジオ体操で始まる。ラジオ体操は真ん中に花壇がある広場が会場で、周囲には、体操をする私たちを見守ってくれているようにマロニエセイヨウトチノキ)が植えられている。体操仲間の一人に水彩画を描くことを趣味にしているNさんがいて、これまでもこの場所を描いた何枚かの絵を見せてもらった。今回の絵は色とりどりの花が咲いている花壇を中心に、背景にはマロニエの木とベニカナメ、5月の青空を配置している。雨の日を除いて毎日目にする風景だ。それが1枚の絵になると、平凡な日常への愛おしさを感じる。

 近代絵画の父といわれるフランスのポール・セザンヌ(1839~1906)は、人物、静物画、水浴図など多くの作品を残した。1880年代以降は、故郷であるプロヴァンスの霊峰サント・ヴィクトワール山をモチーフとして連作に取り組んだ。齋藤孝は『ざっくり!美術史』(祥伝社黄金文庫)の中で、「山が持っている巨大な存在感、その存在が持つ引力のようなものに惹かれたのだ」と書いている。一方、Nさんは、これまでも何枚か同じ体操広場を描いている。Nさんにとって、ここは心が安らぐ場所であり、制作意欲がわき起こる特別な場所なのかもしれない。

 長田弘(1939~2015)の詩集『人生の特別な一瞬』(晶文社)の中に「美術館にゆく」という詩がある。そこには以下のような言葉が出てくる。(前段部分は割愛)

《絵を見るということ、彫刻を見るということは、日々のいつもの時間の中からぬけだして、絵を見にゆく、彫刻を見にゆく、そこへ見にゆく、ということだ。 

 絵を見に、彫刻を見にいって、絵の前に立ちどまり、彫刻の前に足をとめる。黙る。見る。絵を、彫刻を前にして、できることはそれだけだ。

 けれども、ただそうしているだけで、気がつくと、いつのまにか、澄んだ川が無言の空を映すように、無言の絵、無言の彫刻を映して、自分の気もちが澄んでいる。(中略)

 たまらなく美術館にゆきたくなるときがある。そして、美術館へゆき、見たかった絵や彫刻の前に立つと、ふだんはすっかり忘れている小さな真実に気づく。

 わたしたちの時間というのは、本来は、こんなにもゆっくりとして、すこしも気忙しいものではなく、どこか慕わしい、穏やかなものだった、ということに。》

  長田が書いているように、私もたまらなく美術館に行きたいと思う時がある。しかし、コロナ禍が続く今は美術館にはほとんど行かない。だから、どこか慕わしい、穏やかな真実を味わうことができない日々が続いている。そんな中でNさんが見せてくれた1枚の絵は、私の落ち込んだ気分を爽やかにする魔法のような効果を発揮した。画家たちが絵を描くのは「そこに生きて動いている生命を表現すること」(前記・齋藤著より)だという。そして、Nさんが描く花壇を中心にした小さな世界からも、自然界の不滅の生命力が伝わってくるのだ。