小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2017 優しい眼差しで紡ぐ言葉 詩人たちとコロナ禍

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 現代に生きる私たちにとって逃げることができない重い存在は、コロナ禍といっていい。この1年半、この話題が果てしなく続く日常だ。それは詩人にとっても無縁ではなく、最近、手元に届いた詩誌や小詩集にもコロナ禍が描かれている。この厄介な感染症が収束する日が一刻も早くやってくることを願いつつ、それらを読んでいる。

 詩人でコラムニストの高橋郁男さん(元朝日新聞記者・天声人語担当)は文芸誌「コールサック」に『風信』という小詩集を連載している。2021年6月号の22回目は「東京・全球感染日誌・4」と題し、コロナ禍で明けた2021年を次のように書いた。

  2021年 元旦 丑年が明ける

 コロナ禍の先行きが不透明で

 人の行き来がままならない日々に

 空を行く鳥たちの姿が 目にとまる

 雀 鳩 烏 目白 尾長 椋鳥 鵜 鴎 鳶

 天と地の間を 自由に往来する

 翼あるものたちの再発見

 翼あるものたちに憧れて生まれた

 銀色の人口の翼の方は

 飛び立つ機会が減って 地上に逼塞している

 

 今年中には コロナ禍明けを告げるような

 一条の光が差し込むようにと念じつつ

 賀状に うし年の折句を添えて投函する

  う っすらと

 し ょこうきざすや

 とし のあけ

 うっすらと曙光兆すや年の明け

 (この後、高橋さんは2回目の緊急事態宣言のこと、3・11から10年になった原発事故の福島の現地について記し、第2次大戦が終わった1945年まで遡って「全球感染日誌」を続けている)

 私は元旦のブログの最後に「望みを持ちましょう。でも、望みは多すぎてはいけません。(モーツァルトの手紙)という言葉を忘れず、日々を送りたい」と書いた。コロナのワクチン接種が始まったが、これが一条の光になることを願うばかりだ。

 『薇』という詩誌の同人たちは、近刊24号の「小景」という短いエッセィの中で、やはりコロナ禍に触れている。子どものころ、十五夜には団子泥棒が許されていたという月見の思い出(「月見」)を書いた杜みち子さん。「窓を開けっ放しにして、月を眺めていたあの時代、団子泥棒の手がにゅっと伸びてきても、あの時代が好きだ。たとえ、オリンピックが来なくても、コロナなどないあの時代が好きだ」という結びに、相槌を打つ。

 昨今の自粛生活を振り返り、続いて『薇』が創刊(2009年12月1日)して10年以上が過ぎたこと、主宰した飯島正治さん(元新聞記者、2010年9月7日死去)、創刊時からのメンバーの一人石原武さん(英米文学者、文教大学名誉教授、2018年3月20日死去)の2人がこれまでに亡くなったことにも触れた北岡淳子さん(「コロナ禍に、ふと」)。「振り返る道が長くなった。その杣道の随所が温く明るむのは恵まれた出会いや関わりの記憶だ。ひとつずつの命を包みもつ同時代の生き物たちがとても親しく、年ごとに日々を優しくする。コロナ禍の日々も、慈しみに潤っていて欲しいと願う」と書く、北岡さんの優しさを私たちも見習いたいと思う。

 『薇』の創刊以降、私たちは21世紀の歴史に大きく刻まれる2つの災厄を経験した。東日本大震災(2011年3月11日)とコロナ禍である。もし飯島さんが健在だったなら、この2つの災厄をテーマにどのような詩を書いただろうかと考えたりする。……苦闘する人々に温かい眼差しを向け、言葉を紡いだに違いない。

「記すに価することがあってはじめて筆をとれ。書くべきこと、語るべきことがあるとき、言葉は力強く流れるだらう(だろう)。これこそは人間の精神と文章との極めて自然な関係にはほかならない」。作家で文芸評論家の丸谷才一は『文章読本』(中央公論)の最後を、こんなふうに結んでいる。現代のコロナ禍は、記すに価することであり、書くべきこと、語るべきことが少なくない。