小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1812 炎暑地獄の9月 台風去って難が来る

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 9日未明に千葉市に上陸した台風15号は、最大瞬間風速57・5メートルを記録し、同じ千葉市に住む私は眠れぬ夜を明かした。台風のすごさはテレビの映像で知ってはいたが、それを目のあたりにした。あちこちで街路樹が倒れ、屋根のテレビのアンテナが横倒しになり、瓦も飛んでいる。屋根が飛んでしまったガレージもある。遊歩道にはけやきの倒木と飛ばされた枝が散乱している。夜になると、街の半分が停電で暗闇の世界になっていた。そして、1日が過ぎた。停電の家で暮らしている体操仲間は「炎暑地獄ですよ」と話した。  

 台風が去った後、9日の夕方になると、美しい夕焼けが広がった。それは、右足の大けがをした2年前の9月の夕焼けと匹敵する絶景だった。沖縄から近所に移ってきた娘は「沖縄と同じくらいきれいな夕焼けだ」と感心した。時間差はあるものの、自然は荒々しさと美しさを私たちに与えくれたのだ。まるで、ごめん、ごめん、さっきの乱暴は許してね、その代わりにきれいな空を見せてあげるね、とでも言うかのように……。

 テレビや新聞で報道されているためか、昨日から今日にかけ、お見舞いの電話がかかり、メールが届いている。庭中を、飛んできた枯れ枝とけやきの葉が埋め尽くしたが、それ以外は特に被害はない。だから「お陰様で私のところは大丈夫です」という返事を繰り返した。「二百十日」という言葉がある。立春から210目(2019年は9月1日)のことをいい、このころは台風や風の強い日が多いといわれる。最近は春から台風がくるので、この言葉は死語になっていたと思っていたら、そうではなかった。死語が蘇ってしまったのだ。  

 朝日新聞のコラム「天声人語」にも、この言葉が紹介されていた。「『二百十日』は、嵐の起きやすい時期を指す古い言葉だ。(中略)夏目漱石の小説『二百十日』では、阿蘇山の火口目指して登る2人連れが雨と嵐で散々な目に遭う。今のような気象予報があれば、二人連れは山行を見合わせたに違いない」  だが、気象予報があっても、避けることができないほど、自然の荒々しさは増しているように思えてならない。  

 21世紀になって、この地球を取り巻いている自然環境は、残念ながら荒々しいという言葉が当てはまるほど人類の傲慢な姿勢を背景に、世界で猛威を振るっている。一方で、人類は自然の変容に対抗できる手立てを持たないままに自国第一主義の政治家がリーダーとなり、米中に代表されるように、あきれるばかりの対立を繰り返している。日韓関係もその範疇に入る。21世紀は、後世の人々に何と言われるのだろう。

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1592 夕焼け断章 暗くなるまで見ていたい  

1686 夕焼けの中で 郷愁誘う自然の芸術