小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1788 屈原と気骨の言論人 ある上海旅行記から

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「私はどうしても屈原(くつげん)でなければならぬ。日本の屈原かもしれない」という言葉を残したのは、明治から昭和にかけての言論人、菊竹淳(すなお、筆名・六皷=ろっこ・1880~1937)である。屈原は、このほど上海周辺を旅した知人の旅行記にも出てくる、中国戦国時代の悲劇の詩人だ。一方、昨今の新聞、テレビの実態は屈原とは対照的に、権力に迎合するトップが目立つのが現状といえるだろう。  

 屈原は、楚(紀元前3世紀)の貴族として懐王に信任され、国の再興に尽力した。しかし、その後讒言(ざんげん)によって失脚、中国湖南省北東部を流れる湘江の支流、汨羅(べきら)で投身自殺した人物だ。後世、屈原の死んだ日である5月5日に粽(ちまき)を食べる風習が端午の節句になったという言い伝えがある。彼の詩は古代中国の代表的詩集「楚辞」の中に収められ、特に「離騒」はその格調の高さから「史記」で知られる漢の歴史家、司馬遷に評価され、中国最初の詩人として歴史に名を残した。  

 冒頭の言葉のように、自身を屈原に譬えた菊竹は西日本新聞の前身「福岡日日新聞」の編集局長として犬養毅首相が暗殺された1932年の5・15事件で、全国のほとんど(例外は桐生悠々信濃毎日新聞)の新聞が沈黙する中で、痛烈な軍部批判のコラムを繰り返し執筆、掲載した気骨ある言論人だった。その生涯は木村栄文著『記者ありき』(朝日新聞社)に詳しく紹介されている。「世を挙げて皆濁りて我独り清めり」という屈原漢詩を、菊竹は自身の姿に重ね合わせたのだ。首相と夜の懇談を重ねる現代の大新聞社幹部の動静を見る度に、私は六皷を思い起こす。  

 屈原のことは、知人の上海旅行記の蘇州編、「蹌踉亭」訪問のところに描かれている。それは旧城郭「蘇州」の南門(現在の人民橋)そばにある10世紀ごろに造られた庭園だという。この庭園の様子は省くが、知人は「蹌踉」という園名からかつて学生時代に習った漢文の屈原を思い出す。自殺する前にある湖で出会った漁夫との会話の中にこの蹌踉が出てくることを忘れていなかったのだ。

《「世の中は皆濁り切っている。私は清廉が嫌われ、貶められて追放された」「あなたも皆に合わせて汚れればいいではないか」「そんな生き方をするくらいなら湖の水に沈んで魚の餌食になった方がましだと思う》というやり取りのあと、去っていく屈原に漁夫は以下のように語るというのだ。  

 蹌踉之水清兮 可以濯吾綏 (蹌踉の水澄めば 以て〈えい〉を洗うべし)  蹌踉之水濁兮 可以濯吾足 (蹌踉の水濁らば 以て足を洗うべし) 《知人の現代訳 蹌踉の水が澄んでいる時は冠の顎紐(えい)を洗えばいい。だが、蹌踉の水が濁っているのなら足でも洗うしかないでしょうよ》  

 知人はこうした屈原と蹌踉のかかわりについて触れた後、「調べてみると屈原自死したのはここ江南よりずっと西の湘川のほとりらしく、蘇州とは何の縁もない。彼は詩人としても有名なので、後世この名邸を買い取った宋時代の詩人が彼の詩才にあやかろうと「蹌踉亭」と命名したというのだ。まあそれでもよしとしよう」と続けている。  

 知人は旅行記の最後に「雑感」を記している。その中で現在の日本と中国の姿を簡潔に述べた記述がある。まさに私の思いを代弁する言葉である。

《老境に入った者が外交を云々しても詮方ないのではあるが、今やますます軍事面を外交の中心に据えてアメリカ追従アメリカ一辺倒に回帰してゆく日本。一方、彼の国も近代化に舵を切った鄧小平の英断を称えることを止めて、習近平は己を終身の地位(核心)に引き上げ、あたかも毛沢東時代への回帰を目指す魂胆のようである。この日中双方のそれぞれの懐古と回帰は、何やら先の行く手をますます不透明で危険にしているように思う》

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