小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2071 秋から冬への移行 時雨の季節感

    f:id:hanakokisya0701:20211108105335j:plain

 ものの本(ある事柄に関することやその方面のことについて書かれた本)によりますと、「時雨」の季節は、『万葉集』(7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存するわが国最古の歌集)のころは秋と捉えられていたそうです。その後、都が奈良から京都に移ってから作られた『古今和歌集』(平安時代中期の勅撰和歌集)のころからは次第に冬という季節に考えられるようになり、俳句でも現在は冬の季語になっています。今年は7日が立冬でした。天気予報では今夜(8日)あたりから時雨が降りそうです。いよいよ冬なのですね。

《冬のはじめ、晴れていても急に雨雲が生じて、しばらく雨が降ったかと思うとすぐに止み、また降り出すということがある。これを時雨といい、本来は京都など、山がちの場所で見られる現象で、「北山時雨」「能登時雨」などとも使われていたが、しだいに都会でも冬の通り雨を時雨と呼ぶようになった。》(角川学芸出版『合本 俳句歳時記』)

 大岡信の『瑞穂の国うた』(新潮文庫)によれば、時雨が冬の季節になったことに大きな影響を及ぼしたのは、平安中期の勅撰集である『後撰集』(『古今集』の次にできた勅撰和歌集)に収められているよみ人しらずの次の歌なのだそうです。

《神無月降りみ降らずみ定めなき 時雨ぞ冬のはじめなりけり》

 この歌によって、時雨は冬という日本人の季節感が決まったと言ってもいいと、大岡は述べています。

《しぐれふるみちのくに大き佛あり》(『岩礁』より) 

 私の好きな句の一つです。作者は水原秋桜子(1892~1981)です。この句は1935(昭和10)年11月、福島県会津地方中央に位置する河沼郡湯川村にある真言宗豊山派勝常寺という寺を訪れた際に作られたそうです。この寺には薬師三尊像(薬師如来坐像、脇侍の日光菩薩立像・月光菩薩立像)という木製の国宝など、合わせて12体の仏像がある古刹です。時雨が舞う中、寺を訪れた秋桜子は本尊の薬師如来坐像を拝観、この仏像に対する畏敬の念を持ったのでしょう。薬師如来の像高は141・8センチです。薬師寺奈良市西ノ京町)のよく知られている銅製の国宝、薬師三尊像・薬師如来坐像の254・7センチに比べると、決して大きいとは言えませんが、秋桜子は堂々とした雰囲気から「大き佛」と受け止めたのでしょう。

 勝常寺は807(大同2)年、最澄の論敵として知られる法相宗の徳一によって開かれたといわれる東北を代表する古刹で、私も以前この寺を訪れ、「大き佛」を拝観したことがあります。平安時代初期の作とされ、どのような仏師によって彫られたのかは不明ですが、造形技術は他の東北の仏像と比べ際立っているとのことで、一見の価値があるといえます。薬師如来は額が狭く、目鼻立ちはあくまで彫りが深く、いかめしい表情に見えます。この仏像から私は、病をもたらす者に立ち向かう強い意志を感じ取ったものです。言うまでもなく薬師如来衆生(しゅじょう=すべての生き物のこと)の病苦を救い、無明の痼疾(いわゆる持病)を癒す如来と言われています。コロナ禍が続く現代、この仏像を拝観する人は絶えないようです。皆様も機会があれば、ご覧になってください。

        f:id:hanakokisya0701:20211108105353j:plain

                              f:id:hanakokisya0701:20211108142243j:plain

写真

1、遊歩道の街路樹プラタナス

2、モミジもいい色になった

3、勝常寺の国宝、薬師如来坐像小学館『古寺をゆく 勝常寺会津名刹』より)

 

 関連ブログ↓ 

 45 西ノ京で受けた善意 偶然の出会いも

1411 会津の歴史が詰まる古刹 国宝を持つ勝常寺

1884 永遠ではないから尊い 薬師如来とお地蔵さんのこと

 

2070 ある晩秋の風景 日だまりを求めて

    f:id:hanakokisya0701:20211104120258j:plain

 さうか

 これが秋なのか

 だれもゐない寺の庭に

 銀杏の葉は散ってゐる

     (草野天平「秋」・定本草天平全詩集より。天平は詩人草野心平の弟)

 晩秋。銀杏の葉も黄色く色づき、散り始めている。私のふるさとの浄土真宗の寺にも銀杏の木があった。秋になると、黄色い葉が境内を舞い、実が落ち始める。この詩のように、あの銀杏の木も秋の終わりを演出しているのだろうかと思う。

 寺を引き継いだ私の兄の同級生は別の地域で生活していて、仏事があれば車で通ってくる。現在、寺にはだれも住んでいないから、上掲の詩のモデルのような存在だ。もちろん、銀杏の実を拾う人もいないはずだ。…そんなことを思いながら久しぶりにシャンソン『枯葉』を聴いた。静かな秋の時間が過ぎていく。

 この曲は1946年公開の『夜の門』(Les Portes de la Nuit)という映画の挿入歌(ジョセフ・コスマ作曲、ジャック・プレヴェール作詞)で、当時新人歌手だったイヴ・モンタンが歌った。ビング・クロスビーナット・キング・コールが歌った英語版(「Autumn Leaves」ジョニー・マーサー作詞)もあり、ジャズの曲としても知られている。枯れ葉が舞う季節、人生の晩年を迎えた人物が美しく輝いていた幸せだった昔を思い出しているもので、人生の機微やペーソスをテーマにしたシャンソンの名曲として世界で歌い継がれている。

 シャンソンを生涯の友として歩んでいる友人がいる。彼の「枯葉」のピアノでの弾き語りを何度か聴いたことがある。彼の人生は平坦ではなかった。幾度か荒波にもまれたことがあったという。それがこの歌に深い陰影を与え、聞く者の心に響くのだ。誰にも輝く若い日があった。そして、いやおうなく年老いていく。『枯葉』を聴くと、そうした人生の哀感が伝わってくるのだ。晩秋の遊歩道。日差しを求めて散歩をしている人が少なくない。一人で黙々と歩いている人、友人同士や夫婦らしき人たちもいる。その道には枯れ葉が舞い落ちている。

 日だまりの枯葉いつとき芳しき 石橋秀野(俳句評論家の山本健吉の妻。戦時中の疎開生活で病に侵され1947年9月26日、38歳で死去。俳句では枯葉は冬の季語)

 私も日だまりの中、枯葉を踏みしめて歩いた。「カサコソ、シャリシャリ…」足元から聞こえてくる音が心地いい。

 

    f:id:hanakokisya0701:20211104120319j:plain

    f:id:hanakokisya0701:20211104120335j:plain

写真

1、色づいたけやきの葉

2、遊歩道沿いにある銀杏も葉が落ち始めた

3、体操広場のマロニエはほとんど葉が落ちている

 

2069 ありふれた日常の中で ランドセルの少年と履き慣れた靴

             f:id:hanakokisya0701:20211029154356j:plain

 庭の外に遊歩道があって、1キロに及ぶけやき並木が続いている。春から冬までの季節、けやきは様々な表情を見せてくれる。葉を落とした冬の姿も風情がある。秋たけなわ。例年なら美しい紅葉となるのだが、この秋は様子がややおかしい。葉が色づく前に散り始め、残った葉も茶色っぽくて、お世辞にもきれいだとは言えない。今月初め、房総総半島に接近した台風26号が太平洋からの塩を含んだ風をもたらし、けやきもこんな状態になってしまったようだ。塩害だ。3年前もそうだった。

 このけやき並木の遊歩道は多くの人が利用している。通勤、通学、散歩(犬の散歩も)、ジョギング、買物等々の人々だ。車いすの人もいるし自転車も少なくない。背景が美しいためか、最近はテレビドラマの撮影場所としても利用されている。一番賑やかなのは子どもたちの登下校の時間帯だ。少子化時代といわれているが、近くの小学校は1年生から6年生まで3クラスずつある。今朝、一人で鼻歌を歌いながら登校している男の子がいた。ランドセルで背中が隠れるほど小柄だから、1年生のようだ。天気もよくて気分がいいのか、私には分からない歌を口ずさんでいた。

 散歩途中の私は、男の子を追い抜きながら「おはよう」と声を掛けた。すると鼻歌をやめ、あいさつ代りに首をこくんと下げてくれた。その仕草がなかなか可愛いい。私は「元気でいってらっしゃい」と言って、先を急いだ。途中で振り返ると、男の子は再び鼻歌を歌いながら歩いている。友だちは先に登校したようで、一人で歩いていても表情は明るい。学校が楽しいに違ない。

 これより1時間以上早い時間、ラジオ体操に行く。途中、空を見上げると、雲の間から漏れている陽光が面白い光景を演出していた。数匹の黄金の鯉が泳いでいて、最後尾の鯉からは4本の光が立ち上っているように見える。しばらくすると、上空は光に包まれた雲が幾条にも広がった。この後、近所の高台から雪を抱いた富士山が見えた。近くにいた老婦人がもう一人に「富士山を見ると、心が豊かになったような気がするの。うれしいわ」と話しているのが聞こえた。私が住む千葉市郊外では富士山は空気が乾いた冬しか見ることができない。富士山は私たちにとって冬の到来を告げてくれる季節の山であり、生きる喜びを実感させてくれる山なのだ。

 10月も29日。今年の立冬は11月7日(日)だから、あと1週間余だ。朝の散歩を終わって、これまで履き慣れた運動靴を廃棄した。底が減り、内側のかかと部分もすり減っていた。海外旅行にも何度か履いていった靴との別れはやや寂しい……。秋の日。これがありふれた私の日常の一コマ。

    f:id:hanakokisya0701:20211029154435j:plain

    f:id:hanakokisya0701:20211029154418j:plain

 

 1725 けやきの遊歩道無残 紅葉奪った塩害

 

 

2068 学ぶことを忘れると堕落する 2つのニュースを読んで

    f:id:hanakokisya0701:20211028164130j:plain

 最近2つの新聞記事に驚いた。いずれも政治にかかわるニュースであり、政治の信頼とは何かを考えさせられたのは私だけではないはずだ。近くにあった高橋健二訳『ゲーテ格言集』(新潮文庫)を見ていたら、「有能な人は、常に学ぶ人である」という言葉が出ていた。確かにそうだと思う。学ぶことを怠ると、想像力も枯渇しついいい加減なことを口走り、愚策と気づかぬまま税金を湯水のように使ってしまうのだろうか。2つのニュースから私も自戒し、これからも本を読み学び続けたいと考えた。

 ゲーテの言葉はエピグラム(ウィットに富んだ短い詩・寸鉄詩)で知られるローマ帝国時代の諷刺家マルティアリス(40ごろ~104ごろ)の言葉が由来で、本来は「よき人は常に初心者である」という意味だそうだ。世阿弥の能に関する著書『風姿花伝』の中の「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」(ブログ筆者意訳=未熟だった時も芸に慣れた時も、そして年老いても初心者として芸に挑むことを忘れてはならない)と共通するものだろう。

 前書きはこの程度にして、私が驚いた2つのニュースは以下の通りだ。1つは自民党麻生太郎副総裁が25日、自民党の公認候補の応援に行った小樽市内で「温暖化と言うと悪いことしか書いていないが、いいことがある。昔『やっかいどう米』と言うほど(北海道産米は)売れない米だったが、うまくなった。農家のおかげか、違う。温度が上がったからだ。それを輸出している。これが現実だ」などと述べたことだ。

 これに対し北海道農民連盟が翌26日、「温暖化を肯定するような発言は耳を疑う」と抗議の談話を出したのに続き、岸田文雄首相が同日夜のテレビ番組で、「(麻生発言は)適切ではなかった。申し訳ないと思う」と陳謝した。この後、岸田首相が麻生氏に何と言ったかは分からない。何も言わなかったのではないかと疑う。

 麻生氏は毒舌で知られた政治家で、これまでの様々な発言が物議を醸している。温暖化=米がうまくなったと主張する今回の発言は、各道県の農業試験場(現在は農業研究センターなどと呼称)の品種改良の地道な取り組みと農家のうまい米を作ろうという努力を否定するものといっていい。長い間、うまい米の代表としてコシヒカリが君臨していたが、現在では北海道、青森を含めてその地域にあった銘柄が誕生し、いずれもコシヒカリにそん色ないうまい米になっていることを麻生氏は知っているのだろうか。麻生氏の発想は、地球温暖化対策の世界的枠組みの「パリ協定」を離脱した(バイデン政権が今年2月に復帰)温暖化否定論者の米国トランプ前大統領と似たり寄ったりだ。

 2つ目は昨年の安倍政権当時、新型コロナ対策として調達・配布した布マスクが大量に倉庫に保管され、6億円もの保管料がかかっていたことが会計検査院の調査で判明したことだ。昨年の配布後から現在までアベノマスクといわれる布製の小ぶりなマスクを付けた人はほとんど見かけたことがない。

 側近官僚の進言で打ち出されたこの政策。当時の安倍首相は全世帯に1億3千万枚と介護施設福祉施設、妊婦向けに1億6千枚の計2億9千枚を配ると宣言した。だが実際には、双方合わせて約8千200万枚(115億円相当)が配られずに倉庫に保管されたままになっており、昨年度だけでこの保管料6億円を支払ったというのだ。このマスクは子ども用といえるほど小さく、もらっても使う人はまれだったようだ。しかも不織布マスクに比べウイルスを含んだ飛沫の吐き出し、吸い込み防止の効果が低いことが判明、多くの人が不織布マスクを使っているのが現状だ。

 これに対し、政府は「調達で問題があったとは考えていない」(磯崎官房副長官)、「保管費はかかるが税金で買ったので簡単に捨てられない。有効活用を考えている」(厚生労働省)と答えたそうだ。問題がありありで、有効活用も難しいから、税金の無駄遣いを続けているのだろう。会計検査院は「法律に基づいた是正勧告はしない」というものの、コロナ禍の歴史の中で政治の失敗例として人々の記憶に刻まれることになるだろう。

 マルティアリスはスペイン出身でローマに移り住んで同郷の政治家でストア学派の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ(「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである」という言葉が有名)家に身を寄せていた。エピグラムで当時のローマの人々の生活や知人たちのスキャンダラスな行動、地方の教育などを描いた。マルティアリス流に言えば、2つのニュースから得たものは「学ぶことを忘れると、人は堕落する」だろうか。

2067 自分の信じる道を真っ直ぐ歩いた人 ある長い墓碑銘

    f:id:hanakokisya0701:20211023201847j:plain

 かつて取材で知り合った東京のNさんがことし1月に亡くなったと、奥さんから喪中のはがきが届いた。間もなく11月。そろそろ年賀状を書く季節が近づいている。Nさんとは、中国まで一緒に旅をしたことがある。脳梗塞で倒れ、1年間は車いす生活を送り、奥さんに「幸せだった。ありがとう」を何度も繰り返して旅立ったという。Nさんについて書いた7年前の文章がある。やや長いが、「独立独歩の生き方」として書いた文を墓碑銘として以下に紹介したい。個性豊かで、自分の信じる道を真っ直ぐに歩いた人だった。

   ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ 

 はじめに 

 株の取引で生計を立てる傍ら、太平洋戦争で亡くなった戦死者の遺骨収集、日本軍とソ連軍が激突し、日本側に甚大な被害が出たノモンハン事件の現地巡礼、さらに終戦前後の混乱で旧満州中国東北部)に残された中国残留日本人孤児の支援活動を続けた知人がいる。東京在住のNさん(79)歳だ。幼くして両親を失い、独立心が旺盛だったNさんは、これまでの人生の大半をフリーの身で過ごしてきた。その気概に満ちた歩みをたどってみる。

  生い立ち 

 1935年(昭和10)4月27日、愛知県岡崎市で生まれた。父親は山を購入し、そこから石材を採取して販売する仕事をしており、自宅含め家を5軒持つほど裕福な家庭だった。しかし、軍隊に召集された父親は中国で除隊後、病気で亡くなる。母親も後を追うように病死し、6歳で両親を失ったNさんは3歳上の姉とともに愛知県内の母方の祖母宅に引き取られ、中学校までこの家で多感な少年時代を送った。中学を終えると、母校の中学校の校長の家に下宿して、岡崎市内の高校を卒業した。早くに両親を亡くしたNさんの境遇に同情した校長が手を差し伸べてくれたのだという。

 高校卒業後、自転車用ライトメーカーの東京支店でアルバイトをしながら大学進学を目指すが、志望校に合格しなかったため断念する。そのままアルバイトをしながら25歳になったころ、たまたま証券会社の幹部と話す機会があった。株に関する話に興味を持ち「この程度の人が株をやっているのなら、自分にもできる」と思い込み、これまで大学進学用にと貯めてきた50万円を元手に株の取引を始めた。傲慢、自信過剰とも思える動機だったが、水に合っていたのか、元手の資金は少しずつ増えていき、30歳の時には東京・新宿のマンションを購入できるほど羽振りがよくなった。

 Nさんは、株取引に関して「新聞や雑誌はあてにならない」という信念を持っていて、新聞を定期購読したことはない。それよりもできるだけ人に会い、多くの人とよもやま話をして情報を蓄積、それに自分の勘も働かせて取引するという「株取引の方程式」を独学でつくり上げた。バブル経済が崩壊した際、持ち株の一部が下落して損失を受けたが、危ない業種はできるだけ避けていたため、大きな損失には至らなかったという。株取引の極意については、フランスの哲学者、デカルト方法序説の中の一節「我思う故に我あり」のようなものだと話している。やや難しいが、すべてを疑い、慎重に投資を続けるのが基本的考えのようだ。その結果、バブル崩壊の被害も少なかったのかもしれない。長年の経験の結果、Nさんは持ち株を10社程度に絞り、それ以上は広げない。それがけがをしない秘訣だともいう。時価どの程度の株を保有しているかについてはノーコメントとして教えてくれなかった。

 Nさんは若いころ、政治家を志したことがある。愛知県選出の国会議員の秘書的な動きもして、郷里から選挙に出ようと岡崎に事務所を構え、準備を始めた。その途中、選挙には想像以上の金がかかることを知らされ、ばからしくなって断念したという。それだけに政治家の言動に対する見方は厳しい。最近の政治家の姿を見て「日本も世界もそうだが、政治家はけんかばかりをしている」と感想を述べ、「平和がいかに大事かを考えてほしいし、親切心を忘れないでほしい。お互いにもっと話し合い、ささやかでもいいから握手をすべきだ」と注文を付けている。

 ボランティアとして 

 早くに両親を亡くし、寂しい少年時代を送った体験からか、ボランティアとしての取り組みにも力を注いだ。その活動は3点が中心だ。1つ目は、太平洋戦争の激戦地で戦死した日本人の遺骨収集だ。国会議員の秘書グループと一緒に東南アジア諸国を視察した際、現地の人から「日本人の遺骨が放置されたままになっている」と聞かされたことが頭を離れず、1974(昭和49)年10月、政府派遣の遺骨収集団に参加し、18日間、米国自治領・北マリアナ諸島テニアンで、初めて風雨にさらされた多数の遺骨の収容作業を経験する。以来、ペリリュー(パラオ)、サイパン(米国自治領・北マリアナ諸島)、ラバウルパプアニューギニア・ニューブリテン島)、硫黄島(東京都)など、全部で9回の遺骨収集に参加し「戦争の悲劇と悲惨な死を遂げた戦没者のことを忘れないことが生き残った人間の責任だということを痛感した」と語っている。

 ボランティアとしての2つ目は、1939年(昭和14)に旧満州国モンゴル人民共和国の国境紛争をきっかけに日本軍とソ連軍が武力衝突、日本軍が壊滅的打撃を受けたとされる「ノモンハン事件」の現地への慰霊訪問のリーダーとしての働きだ。事件から41年目になる1980年、知り合いの政治家から、事件の遺族が現地に行きたいので中国側と交渉してほしいという要請があった。当時、現地への訪問は認められていなかったが、Nさんは早速訪中し、内モンゴル自治区の主席に直談判。主席は「関係者ではないあなたがよく来てくれました」とNさんの行動に驚き、周辺を「解放区」として遺族の巡礼を認めたという。この年の訪問以来、遺族を引率したNさんのノモンハン行きは30回を数えた。

 Nさんは途中からノモンハンに近い、中露国境の満州里市の平原に現地の政府と一緒にアンズの木を植える植樹運動も実施し、これまでに日本から持参した22万本を植えた。現地の平原は砂漠化が進行しており、植樹はそれを防ぐとともに戦没者の慰霊の意味もあるという。満州里に比べると、ささやかだが、山形県大石田町最上川岸にも52本の桜の苗木を植樹している。南方の太平洋戦争戦跡への旅で知り合ったこの町に住む女性が、桜の植樹活動をしていると聞いて協力した。その桜は今では花が咲くようにまで成長し、Nさんも何度か現地を訪問した。

 3つ目は、中国残留日本人孤児の支援活動だ。Nさんは中国の東北部でも遺骨収集をと考え、ノモンハンより以前の1970年代後半にハルビンを訪問した。当時、旧満州への日本人の訪問は少ない時代だった。宿泊したホテルに日本人孤児だという人たちがやってきて、Nさんに「日本の肉親を捜す手助けをしてほしい」と訴えた。帰国したNさんは厚生省(現在の厚生労働省)の援護局長(当時)の部屋に怒鳴り込むような形で入り込み「国が日本人孤児の支援をしないのはおかしい」と抗議し、局長と押し問答になったという。互いに興奮し、相手の局長はNさんが暴力をふるったと主張したが、その場は何とか収まった。自分がこうと思ったら、相手の社会的地位は忘れてしまうNさんの猪突猛進ぶりは内モンゴルに続き、ここでも発揮されたといえる。

 Nさんらの運動の結果、旧満州には終戦前後の混乱で肉親とはぐれ、中国人の養父母に育てられた多くの日本人孤児たちが残っていることが大きな社会問題となり、1981年から訪日調査が始まる。東京・代々木の調査会場にも駆け付け、孤児たちの激励を続けた。Nさんは、孤児たちだけでなく中国に残留した婦人たちの里帰りにもかかわり、満州里からの留学生の面倒も見た。

 人生を振り返って 

 これまでの人生を振り返って、Nさんは「多くの人に助けられた人生で、運がよかった」と述べている。両親を幼い時に亡くしたこともあって、早く独立独歩をしたいという思いが強く「節目、節目で人に親切にされ、運にも助けられた」とも言う。そのうえで、遺骨収集やノモンハンへの巡礼、中国残留日本人孤児への支援活動は「多くの人から親切を受けたことに対するささやかな恩返しだ」と謙虚に語っている。

 個人の株取引という、傍目から見れば不安定でギャンブル的生活を送ったはずのNさんの風貌は優しく、そうした影は全く感じられない。それがNさんの魅力なのかもしれない。

    ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ 

 無宗教のNさんは「死んだら海に散骨してほしい」と言い残した。奥さんはその言葉通りにし、「今頃あの人は世界中を回り、株をやっているのかもしれません」と話している。

        f:id:hanakokisya0701:20211023201903j:plain



2066 イスラムの秘薬から世界の飲み物に コーヒーをめぐる物語

        f:id:hanakokisya0701:20211203170352j:plain

 急に寒くなったため、庭に出していた鉢植えのコーヒーの木を慌てて部屋に入れた。普段の年なら11月半ばにやるのだが、今年は特別早い取り込みだ。これで寒さに弱いというコーヒーの木も何とか持ちこたえるだろう。十数年前、娘が百円ショップで買ってきたわずか10センチほどの植物は、今や堂々と私の部屋を飾ってくれている。この夏は水やりもうまくいったせいか、葉も艶がよく、元気がいい。しばらくすると、待望の実がつくかもしれない。

 コーヒーの歴史を調べると、①原産地はエチオピアと考えられ、その後アラビアに伝えられたと思われる②エチオピアの羊飼いカルディが山羊のコーヒー豆を食べるのを見てコーヒーの飲用を発見。あるいは、イスラム教の聖者シーク・オマールが、鳥がコーヒーの実をついばんでいるのを見てコーヒーの飲用を発見③13世紀後期豆を煎って煮出すようになったと思われる(全日本コーヒー協会)――らしい。

 1511年にはメッカ事件というコーヒーをめぐる事件が起きている。同協会図書館(HP)の文章を要約すると、以下のような事件である。

    ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ 

《1511年、イスラエルのメッカでは総督カイル・ベイによって「コーヒー禁止令」が出された。カイル・ベイは自ら招集した会議で「コーヒーという飲みものは、人の心をひきつける驚くべき不思議な力を持っている。人を興奮させることもあり、人々を堕落させてしまうに違いない」と、コーヒー禁止についての考えを主張した。同席したアラブの医師たちは、「総督様、尊敬する大科学者アビセンナ先生の記録にありますように、コーヒーは胃にも良く、おいしい飲みものです。お考えを改めてください」と訴えたが、総督は言うことを聞かなかった。

 コーヒー禁止令はメッカの支配者であるエジプトの君主・カーンサウフに伝えられると、カーンサウフは、カイル・ベイの独断に不快感を示し、直ちにメッカに使者を送り、禁止令を撤回させた。カーンサウフは、医師に勧められてコーヒーを薬として飲み、その風味をとても気に入っていたというのだ。君主の怒りを買ったカイル・ベイとその賛同者は、厳しく罰せられたと伝えられている。この騒動は「メッカ事件」と呼ばれ、この事件をきっかけに僧侶の秘薬だったコーヒーはイスラムの庶民にさらに広まり、人々の暮らしになじんでいく。

 事件当時、コーヒーはイスラム教の聖堂・モスクにおける神聖な儀式と結びついた、特別な飲み物だった。しかし、そうした信仰とは無関係にコーヒーは人々の間に少しずつ広まっており、厳格なイスラム教徒のカイル・ベイは、それを苦々しく感じ、禁止令を出してコーヒーの神聖を保とうとしたとみられている。》

   ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ 

 こうした歴史を経て、コーヒーは現在では世界で愛される飲み物になっている。特に日照時間の少ない北欧の国々はコーヒーの消費量が世界有数といわれる。北欧の人々は興奮・覚醒作用というカフェインを多く含んだコーヒーを、喉の乾きを潤す飲み物としてだけでなく、昼が極端に短い季節でも気持ちを明るく保てるよう飲むのだという。だが、世界でコーヒーの消費が増える弊害も忘れてはならない。アフリカのウガンダでは、農民たちが大規模コーヒー園に土地を奪われ、困窮生活を送っているというニュースを見た。

 日本とコーヒーのかかわりはどうなのだろう。日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代、第5代徳川綱吉のころで長崎の出島でオランダ人が武士に振る舞ったが、その苦さは当時の日本人の口には合わなかったという記録が残っているという。

 明治時代になるとコーヒーを出す店が次第に出始め、1911(明治44)年にはカフェという名のついた喫茶店が誕生した。その一つの「カフエーパウリスタ」(現在銀座8丁目で営業)について、村松友視は『銀座の喫茶店物語』(文春文庫)で「喫茶店前史からの伝統」として、その歴史の古さを紹介している。

 この店は、ブラジル移民158家族、781人と自由移民12人を乗せ、明治41年4月28日に神戸港を出港した第1回ブラジル移民船「笠戸丸」の団長だった水野龍(りょう)(1859―1951年。ブラジル移民の苦闘を描いた北杜夫の『輝ける碧き空の下で』(新潮社)の最初の方に水野も移民会社社長として登場する)が創立。「『カフエー』はポルトガル語の『コーヒー』、『パウリスタ』は『サンパウロっ子」の愛称だ。第1号店は大阪の箕面店であり、この時代は『喫茶店』ではなく、『喫店』(きつてん)と呼ばれていたという』と、村松は書いている。

 水野は土佐藩の武士の家で生まれ、明治維新自由民権運動の闘士を経て移民会社社長となり、第1回移民船の「笠戸丸」の運行に尽力し、日本にブラジル・コーヒーを紹介した。移民から預かった金の一部を返さなかったことでトラブルもあったが、日本で「カフエーパウリスタ」を創立してブラジルコーヒーの普及に努め、自身も後に家族とともにブラジルに移住した。パラグアイとアルゼンチンに近いパラナ州世界遺産イグアスの滝のブラジル側もこの州にある)クリチーバ市郊外で果樹、茶、蔬菜栽培を続け、一時帰国した後、サンパウロに戻り92年の生涯を閉じている。

 人それぞれにコーヒーにまつわる話はある。数奇な人生を送った水野もまた、コーヒーに惹かれた一人だったに違いない。

    f:id:hanakokisya0701:20211022182315j:plain

 写真(いずれも撮影はブログ筆者)

2065 1人泡盛を飲む夜  蘇った銘酒物語

        f:id:hanakokisya0701:20211020194653j:plain

「酒 傾ければ 愁い来らず」。中国、唐時代の詩人・李白の「月下独酌」の中の一句だ。人は、この世の憂いを忘れるために酒を飲む。コロナ禍が続き友人たちと酒を飲みかわす機会はほとんどなくなった。秋の夜長、私はひとり沖縄の酒・泡盛を飲む。火事で焼失した那覇首里城。その近くにある老舗、瑞泉酒造の「瑞泉」という銘柄だ。同酒造には「御酒」(うさき)という復活した銘酒がある。その復活の物語はなかなかいい。

 数年前、家族が住む沖縄を何回か訪問し、延べ1カ月ほど滞在した。場所は那覇市の高台、首里城近くだった。散歩コースに瑞泉酒造があった。店の前には「サガリバナ」の木があり、夏の夜、散った白い花が道路に積り、幻想的な装いになる。瑞泉酒造は1887(明治20)年に創業(名前は喜屋武酒造場~佐久本酒造場を経て現在の瑞泉酒造株式会社に)した老舗だ。首里城の地下には旧陸軍・第32軍の司令部壕があったため、太平洋戦争末期、首里地区は米軍の空襲で壊滅的打撃を受け、泡盛づくりで貴重な泡盛菌も失われた。

 戦後、同酒造が操業を再開したのは1951年。しかし長い間沖縄は米国の施政権下にあり、ウィスキーが脚光を浴び、泡盛醸造は苦難の時代が続いた。人々が泡盛に回帰するのは1972年の本土復帰以降のことだ。それから26年後の1998年6月、沖縄の泡盛の歴史に刻印されるうねりが一人の若い記者によって起こされる。そのきっかけを作ったのは長期研修のため共同通信社から地元新聞社・沖縄タイムスに派遣されたN記者だった。好奇心旺盛な彼は、泡盛の歴史を調べるため文献を漁っていた。そして農芸化学者で「酒の博士」といわれた坂口謹一郎東大名誉教授(1897年~1994年)が、泡盛とのかかわりが深いことを著書から探り出したのだ。

 坂口さんは1935年頃から数回沖縄を訪れ、研究のため68の酒造所から約620株の黒麹菌を採取して持ち帰っていた。太平洋戦争で東京が空襲されるようになると、これらの黒麹菌を自身の出身地新潟県高田(上越市)に疎開させ、戦後これらは研究室に戻された。だが、その後廃棄処分の対象になったりして東大で発見されたのは14酒造所の19株だけだった。

 前述の通り、戦後泡盛業界は苦難の時代が続いたため廃業する酒造所が多く、東大で発見された黒麹菌の酒造所で営業していたのは瑞泉酒造ともう1社のみになっていた。このうち瑞泉酒造は残っていた黒麹菌を使って伝統の泡盛を造ることを計画。黒麹菌は東大で培養、分離され、首里へと戻ってきた。失敗もあった。それでも紆余曲折を経て翌年6月には幻の泡盛が蘇った。その泡盛は「御酒」(昔の泡盛の呼称)と名付けられた。

 私は首里滞在中、瑞泉酒造前の通りや首里城周辺、那覇市内を見下ろす崎山公園を毎日のように散歩した。首里城は2019年10月31日未明、正殿、南殿、北殿など計8棟が火事で焼失してしまった。政府は正殿の再建について2022年に着工、2026年までの完成を目指すと発表しており、そう遠くない時期に首里城は以前の姿に復元されるだろう。私は時々焼失前の首里城と瑞泉酒造の姿を思い出す。そんな時、南宋末期の詩人・劉克荘の「酒を売る家」の詩が頭に浮かんでくるのだ。

「小憩す 城の西 酒を売る家 緑陰 深き処に 啼く鴉あり」

(ブログ筆者の意訳=散歩をしていて城の西へときてしまった。ちょうど売酒家=居酒屋があったので、軽く休憩しようと店に入ると鴉の鳴き声が聞こえてきた。だが、緑陰深き樹の中にいるらしく、鴉は見えない)

   ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ 

 追記

 ①2011年の東日本大震災でも似たような話があった。上野敏彦著『福島で酒を造りたい』(平凡社新書)にそのことが書かれている。大津波によって蔵を流された福島県いわき市浪江の酒造店が、若い兄弟を中心に多くの人たちの支援を受け山形県長井市で酒造りを再開し、「磐城壽」という銘酒を復活させるまでを追ったノンフィクションだ。ここに、坂口博士と同様、「酒の神様」といわれる福島県ハイテクプラザ会津若松技術支援センターの研究者が紹介されている。研究熱心なこの研究者は、震災前に酒造店の「山廃(蒸米をつぶす山卸し作業を廃止した製法)酵母」をサンプルとして4種類預かっていて、震災後酵母の分離、選別作業の結果、銘酒復活に役立てたというのだ。

 ②中国に長く残留、日本に帰国してから餃子を中心とする、東京蒲田の中国料理店「ニーハオ」のオーナー、八木功さんは、大連から母親譲りの中華まん(マントウ)の酵母となる中華まんを持ち帰った。これには酵母(菌)が含まれている。それは現在まで数十年使われている店の宝物だ。この菌を使うと中華まんは弾力性が出て、おいしくなるのだそうだ。完成した中華まんを冷蔵庫で保管し、新しく中華まんをつくる際にこれを小さく切って水で溶かし4回程発酵させ、中力粉に混ぜてイースト菌の代わりに使うのだ。そのため、八木さんは必ず一定数の中華まんを保存する。ところが、ある時それを忘れ、店の味が一つ消えてしまったと嘆いた。それを救ったのは長男の奥さんで、八木さんがつくった中華まんを冷蔵庫に保管していて、かろうじて危機は脱したという。

                             f:id:hanakokisya0701:20211020194711j:plain

              f:id:hanakokisya0701:20211020083147j:plain

 写真①瑞泉酒造前の歩道に咲くサガリバナ

           ②散ったサガリバナの不思議な模様

   ③首里から見た那覇の街。虹が浮かんでいて美しい

2064 国連から消えた『ゲルニカ』タペストリー パウエル演説と暗幕

              f:id:hanakokisya0701:20211019124521j:plain

 米ブッシュ政権国務長官を務めたコリン・パウエル氏(84)が、新型コロナ感染合併症のため18日に亡くなった。パウエル氏といえば、2003年2月5日、国連安全保障理事会で幾つかの証拠とされる例を挙げてイラク大量破壊兵器保有していると演説、この後米国がイラク戦争へ踏み切ったことを記憶している人は多いだろう。安保理での演説の際、国連本部に掲げられていたピカソの『ゲルニカ』のタペストリー(絵画的な模様を表した織物。主に壁掛として使われる)が暗幕で覆われた事実も消えない。このタペストリーも今年撤去され、イラク戦争の歴史はかなたへと遠のくばかりだ。

 ピカソの『ゲルニカ』は、スペイン内戦中の1937年、ドイツ軍によって行われた北部都市ゲルニカへの無差別爆撃の惨状をモチーフに、パリ万国博覧会のパビリオンの壁画として描かれた大きな油彩画だ。作品はパリで展示された後米国に渡り、ニューヨーク近代美術館(MoMA)を経て、現在はスペイン・マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。このほか3点(うち2点はフランスのウンターリンデン美術館と群馬県立近代美術館に収蔵)のタペストリーがあり、国連本部に掲げられたものはニューヨーク州知事や副大統領を務めたネルソン・ロックフェラーの依頼で、ピカソの監修のもと、フランスの職人が1955年に制作。85年以降国連に貸与されてきた。

 パウエル氏の演説当日、タペストリーは暗幕で覆われてしまったことはよく知られている。誰がこの行為をしたのか分かっていないが、国連本部はニューヨークにあり、米国人の職員が多いはずだ。暗幕をかけた人物は米国がイラクに軍隊を向けることの正当性を主張する演説に、反戦を訴える『ゲルニカ』はそぐわないと、忖度したのかもしれない。タペストリーが撤去されたことが明らかになったのはことし2月のことで、「ロックフェラー家の意向で2月に返却された。理由は明らかにされていない」と報道されている。

 作家の原田マハはこの暗幕事件を基に、『暗幕のゲルニカ』(新潮社)という小説を書いている。出版元の新潮社のインタビューで原田は「ゲルニカほどメッセージ性が強くインパクトのある絵画を私は知らない。ピカソは決して反戦主義者、平和主義者ではない。けれども、ゲルニカはアート性が強いメッセージを持ち、政治や国を動かすこともありうると信じさせてくれる作品だ。美術が戦争を直接止められることはできないかもしれない。それは小説も同じ。けれど、止められるかもしれないと思い続けることが大事なのだ」(一部。要約)と語っている。作家の沢木耕太郎の見方(「世界中の巨大な錯覚の集合体のような気がしてならない」「壁一面に掲げられたその絵に向かい合って、心を動かされることがまったくない」『キャパの十字架』文春文庫)と比べ、美術に造詣が深い原田の言葉の方が説得力があると私は思う。

   ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄

 原田はこの本の中で米国務長官演説と暗幕に関し、以下のように書いている。

アメリカのイラクに対する武力行使を容認するとした国連安全保障理事会。その決議が採択されたとの報告を、各国の報道陣が見守る中で、淡々と行ったアメリカ合衆国国務長官コーネリアス・パワー(ここでは実名ではない)そして、その背後に掛かっていたのは――。

 そう、いつもであれば、「囲み取材ポイント」である安保理議場ロビーの壁には、パブロ・ピカソの〈ゲルニカ〉のタペストリーが掛かっているはずだった。しかし、昨日は違っていた。パワー国務長官の背後に掛かっていたのは、「暗幕」だったのだ。アメリカがイラクに対してついに武力行使をする。それを国務長官が世界に向けて発表する場面から、何者かが〈ゲルニカ〉を消し去った。》

(ブログ筆者注・暗幕は青い色で、パウエルはこの前で記者団のぶら下がり取材に応じた)

   ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄

 結果として大量破壊兵器は見つからず、CIAの情報を信じたパウエル氏は後に「あの演説は私の人生の汚点」と語った。歴史に「if」はないことを承知の上で書いてみれば、もしパウエル氏の背後にゲルニカが見えたなら彼は「汚点」という以上に苦悩したに違いない。アフリカ系黒人として制服組のトップ統合参謀本部議長国務長官を務め、内外に人気があった彼が暗幕で覆われたゲルニカをどう思ったのか、知るすべはもうない。

        f:id:hanakokisya0701:20211019124541j:plain

写真1、スペイン・マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されたゲルニカ

  2、ソフィア王妃芸術センター

        (いずれもブログ筆者撮影)

2063 群馬は魅力がいっぱい ランキング下位でも

    f:id:hanakokisya0701:20211016142658j:plain

 時々地図を取り出して、見ることがあります。日本地図だったり、世界地図だったり、その時の気分によって変わりますが、地図を見ることは楽しみの一つです。先日「都道府県魅力度ランキング」が発表になり、茨城県が最下位の47位、群馬県が下から4番目の44位(昨年は40位)になりました。群馬県の山本知事はこの結果に怒り、法的措置をとるかどうか検討すると発言しました。それほど群馬県は魅力がないのでしょうか。地図で群馬を見てみました。

 私はこれまで全47都道府県に行ったことがあります。各都道府県庁所在地にも足を踏み入れています。このランキングでは昨年に続き北海道、京都、沖縄の順でベスト3となっています。私は北海道に住んだことがあり、沖縄には短期間滞在しました。京都は旅行その他で何度も訪れ、3道府県の魅力は知っているつもりです。特に北海道と沖縄は別格といえるほど大好きな地域です。

 北海道の春から秋にかけては、確かに魅力があります。自然が素晴らしいのです。しかし、長い冬はどうでしょうか。スキーなどのウインタースポーツをやる人はいいのですが、それをやらない人には我慢・忍耐の季節になってしまうのです。魅力度を探るアンケートには、到底こうした厳しい自然環境の中での暮らしや地域が抱える問題ついて考慮に入れてはいないのではないでしょうか。沖縄も京都も含め、この3地域は「観光面」ではとても魅力があります。その一方で北海道の冬は、白銀の世界とはいえ、その寒さに慣れるまで時間がかかります。夏の京都は暑くて暮らしにくいし、沖縄には深刻な米軍基地問題があります。

 では、改めて地図を開いて44位になった群馬県を見てみましょう。この地図は学研発行の『読んでみて楽しむ日本地図帳』で、その地域の特徴やよく知られた観光地なども紹介されています。群馬県の産業の特徴として「高原野菜の栽培が盛ん。周囲に産地が多く、夏の涼しい気候を利用して、キャベツやレタスなどの高原野菜を栽培、南部には平地が広がり、こんにゃくいもなどが生産される。かつては繊維工業が盛んだったが、近年は電気機器、自動車などの製造業が発展」とあります。このほか、2014年にユネスコ世界文化遺産に登録された「旧富岡製糸場」と2009年に日光国立公園から分離して29番目の国立公園になった「尾瀬」が紹介されています。

 群馬県は昼と夜の寒暖差が大きいのを利用して高原野菜の栽培が盛んであることは地図の説明にある通りです。以前、嬬恋(つまこい)村で高原キャベツを食べたことがあります。それまで食べていたキャベツとは別物で、甘くてやわらかみのあるいい味をしていました。

 群馬県の県庁所在地は前橋市で、詩人萩原朔太郎の出身地です。朔太郎の『純情小曲集』(1925年)の中の「郷土望景詩」に収められている「広瀬川」という詩は、渋川市前橋市~伊勢崎市を流れる利根川水系一級河川をテーマにしたものです。前橋市広瀬川沿いの遊歩道にはこの詩碑があります。ここにはこの詩碑だけでなく山村暮鳥、伊藤信吉、東宮七男、北原白秋などの詩碑、歌碑が多数並んでいて、散策するだけでも豊かな気分になるのではないでしょうか。

  ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄

 (以下、朔太郎の詩「広瀬川」)

  広瀬川白く流れたり

  時さればみな幻想は消えゆかん。

  われの生涯を釣らんとして

  過去の日川辺に糸をたれしが

  ああかの幸福は遠きにすぎさり

  ちひさき魚は眼にもとまらず。

  ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄

 群馬には山男を引き寄せる魔の山谷川岳(標高1963メートル)、志賀直哉の短編『焚火』で知られる赤城山(同1828メートル)など山を愛する人になじみの深い百名山に入る山々がそびえています。私は遠い学生時代、赤城山の麓のスケート場で友人のコーチで初めてスケートをしたことをかすかに覚えています。

 群馬は草津温泉水上温泉四万温泉と、名湯がある温泉県としても知られています。また、県のほぼ中央部に位置する渋川市は、へその町とPRしていることをご存じでしょうか。日本の主要四島で最北端の北海道宗谷岬と最南端の鹿児島県佐多岬を円で結んだ中心に渋川市が位置しているため、「日本のまんなか」といわれるのがへその町の由来だそうです。

 群馬にゆかりがある思想家の内村鑑三(江戸生まれだが、家は高崎藩士)は、上州人(群馬県人)のことを「正直で剛毅朴訥の至誠の人」と評しています。武光誠は『県民性の日本地図』(文春新書)の中で「生涯厳しい信仰態度を貫き、反骨精神をもって世の不正と戦った内村鑑三の生き方は群馬県民の気質の一つのあらわれといえる」と指摘し、「群馬県民は、がいして働き者で、目標を見つけるやそれにむかって一途につきすすむ生き方をとる」と書いています。同志社大学の前身、同志社英学校を設立した新島襄、『蒲団『田舎教師』で知られる作家の田山花袋も群馬の出身ですね。

 以上のように、私なりに群馬の魅力について書いてみました。これを見て、誰しもが「ランキング恐れるに足らず」と思うのではないでしょうか。茨城も同様です。

    f:id:hanakokisya0701:20211016142633j:plain

 写真 1、今朝散歩コースの調整池の上に出た彩雲

    2、昨日の日の出の頃の調整池

 

2062 「よく分からないから不気味」コロナ感染急減の背景は 

    https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/h/hanakokisya0701/20211013/20211013205123.jpg

「なぜ、コロナ感染者がこんなに急に減ったのだろうね。よく分からないから不気味なの」。小学校高学年の家族が「登校中、低学年を送ってきた大人がこんなことを話しているのが聞こえたよ」と教えてくれた。今夏、あれほど猛威を振るったコロナ禍。一時は1日の感染者が2万人を超えた第5波が、このところ感染者数は急減している。だれしもがその理由を知りたいと思う。1世紀前、世界的に猛威を振るったスペイン風邪は、いつの間にか流行が収まった。コロナも同じ道をたどればいいのだが……。

 政府分科会の尾身茂会長は、緊急事態宣言と蔓延防止特別措置の前面解除が決まった先月28日の記者会見で、感染者急減の理由として①連休やお盆休みといった感染拡大につながる要素が集中する時期が過ぎた②医療が危機的状況にあることが広まり、国民の間で危機感が共有された③感染が拡大しやすい夜間の繁華街の人出が減少した④ワクチンの接種が進み、若い世代の感染も減少した⑤気温や雨など天候の影響があったのではないか―と、5つの項目を挙げて説明した。

 これらの複数の要因が重なり、感染減につながったことは間違いないだろうが、急速な減少の理由は現段階では明確に説明できないというのが実情ではないか。公表された感染者数が実態を反映しているのかどうか分からないとの研究者の声もあり、減少傾向にあるとしても、まだまだ油断はできない。ワクチン接種の拡大、感染者数の増加が集団免疫獲得につながっているのではないかという見方もある一方で、これがそのまま収束に向かうのかどうか、判断は困難なようだ。いずれにしろマスクの着用、帰宅後の手洗いは続ける必要があるだろう。

 ワクチン接種が進んでいないインドは、半年前は爆発的流行で危機的状況が続いた。しかし、このところ減少傾向をたどり、都市部では抗体を持つこと、いわゆる免疫獲得者の増加が背景にあるという指摘もある。そのほかインドが人口構成で若い世代が多いことが感染減につながっているとの見方もあるそうだが、よく分からない。日本もインドも感染者が減っている背景には複合的要因が作用しているといえるだろう。素人的には集団免疫に加え、ウイルスの毒性が弱まりつつある(根拠はなく、あくまでも希望的観測です)のかもしれないと、考えたりする。軽症や無症状の人の多くは検査を受けず、感染に気付かないままの可能性もある。

 13日の発表によると、全国では731人、最も多い大阪で125人、東京72人、埼玉51人、神奈川50人、兵庫39人、愛知40人、千葉36人、沖縄32人などと8月とは雲泥の差になっている。いい傾向に違いない。なぜこうした状況になっているのだろう。コロナ禍は5波で収束するのだろうか。コロナ禍の収束は、21世紀に生きている誰しもが願う、最大の関心事なのではないか。冒頭の「不気味」という発言には感染の揺り戻し、ウイルスのこれまで以上の猛毒化、これから普通の生活に戻ることができるかどうかなど、さまざまな恐れや疑問がある。それに対する明確な答えはない。しかし、私は恐れよりも希望を持つ方が精神的にも絶対いいと思うのだ。コロナ感染者の急減を不気味と思うか、あるいは人類がコロナ禍を克服する予兆ととらえるか。あなたはどう思いますか?

   f:id:hanakokisya0701:20211014074335j:plain