小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2064 国連から消えた『ゲルニカ』タペストリー パウエル演説と暗幕

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 米ブッシュ政権国務長官を務めたコリン・パウエル氏(84)が、新型コロナ感染合併症のため18日に亡くなった。パウエル氏といえば、2003年2月5日、国連安全保障理事会で幾つかの証拠とされる例を挙げてイラク大量破壊兵器保有していると演説、この後米国がイラク戦争へ踏み切ったことを記憶している人は多いだろう。安保理での演説の際、国連本部に掲げられていたピカソの『ゲルニカ』のタペストリー(絵画的な模様を表した織物。主に壁掛として使われる)が暗幕で覆われた事実も消えない。このタペストリーも今年撤去され、イラク戦争の歴史はかなたへと遠のくばかりだ。

 ピカソの『ゲルニカ』は、スペイン内戦中の1937年、ドイツ軍によって行われた北部都市ゲルニカへの無差別爆撃の惨状をモチーフに、パリ万国博覧会のパビリオンの壁画として描かれた大きな油彩画だ。作品はパリで展示された後米国に渡り、ニューヨーク近代美術館(MoMA)を経て、現在はスペイン・マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。このほか3点(うち2点はフランスのウンターリンデン美術館と群馬県立近代美術館に収蔵)のタペストリーがあり、国連本部に掲げられたものはニューヨーク州知事や副大統領を務めたネルソン・ロックフェラーの依頼で、ピカソの監修のもと、フランスの職人が1955年に制作。85年以降国連に貸与されてきた。

 パウエル氏の演説当日、タペストリーは暗幕で覆われてしまったことはよく知られている。誰がこの行為をしたのか分かっていないが、国連本部はニューヨークにあり、米国人の職員が多いはずだ。暗幕をかけた人物は米国がイラクに軍隊を向けることの正当性を主張する演説に、反戦を訴える『ゲルニカ』はそぐわないと、忖度したのかもしれない。タペストリーが撤去されたことが明らかになったのはことし2月のことで、「ロックフェラー家の意向で2月に返却された。理由は明らかにされていない」と報道されている。

 作家の原田マハはこの暗幕事件を基に、『暗幕のゲルニカ』(新潮社)という小説を書いている。出版元の新潮社のインタビューで原田は「ゲルニカほどメッセージ性が強くインパクトのある絵画を私は知らない。ピカソは決して反戦主義者、平和主義者ではない。けれども、ゲルニカはアート性が強いメッセージを持ち、政治や国を動かすこともありうると信じさせてくれる作品だ。美術が戦争を直接止められることはできないかもしれない。それは小説も同じ。けれど、止められるかもしれないと思い続けることが大事なのだ」(一部。要約)と語っている。作家の沢木耕太郎の見方(「世界中の巨大な錯覚の集合体のような気がしてならない」「壁一面に掲げられたその絵に向かい合って、心を動かされることがまったくない」『キャパの十字架』文春文庫)と比べ、美術に造詣が深い原田の言葉の方が説得力があると私は思う。

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 原田はこの本の中で米国務長官演説と暗幕に関し、以下のように書いている。

アメリカのイラクに対する武力行使を容認するとした国連安全保障理事会。その決議が採択されたとの報告を、各国の報道陣が見守る中で、淡々と行ったアメリカ合衆国国務長官コーネリアス・パワー(ここでは実名ではない)そして、その背後に掛かっていたのは――。

 そう、いつもであれば、「囲み取材ポイント」である安保理議場ロビーの壁には、パブロ・ピカソの〈ゲルニカ〉のタペストリーが掛かっているはずだった。しかし、昨日は違っていた。パワー国務長官の背後に掛かっていたのは、「暗幕」だったのだ。アメリカがイラクに対してついに武力行使をする。それを国務長官が世界に向けて発表する場面から、何者かが〈ゲルニカ〉を消し去った。》

(ブログ筆者注・暗幕は青い色で、パウエルはこの前で記者団のぶら下がり取材に応じた)

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 結果として大量破壊兵器は見つからず、CIAの情報を信じたパウエル氏は後に「あの演説は私の人生の汚点」と語った。歴史に「if」はないことを承知の上で書いてみれば、もしパウエル氏の背後にゲルニカが見えたなら彼は「汚点」という以上に苦悩したに違いない。アフリカ系黒人として制服組のトップ統合参謀本部議長国務長官を務め、内外に人気があった彼が暗幕で覆われたゲルニカをどう思ったのか、知るすべはもうない。

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写真1、スペイン・マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されたゲルニカ

  2、ソフィア王妃芸術センター

        (いずれもブログ筆者撮影)