小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2065 1人泡盛を飲む夜  蘇った銘酒物語

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「酒 傾ければ 愁い来らず」。中国、唐時代の詩人・李白の「月下独酌」の中の一句だ。人は、この世の憂いを忘れるために酒を飲む。コロナ禍が続き友人たちと酒を飲みかわす機会はほとんどなくなった。秋の夜長、私はひとり沖縄の酒・泡盛を飲む。火事で焼失した那覇首里城。その近くにある老舗、瑞泉酒造の「瑞泉」という銘柄だ。同酒造には「御酒」(うさき)という復活した銘酒がある。その復活の物語はなかなかいい。

 数年前、家族が住む沖縄を何回か訪問し、延べ1カ月ほど滞在した。場所は那覇市の高台、首里城近くだった。散歩コースに瑞泉酒造があった。店の前には「サガリバナ」の木があり、夏の夜、散った白い花が道路に積り、幻想的な装いになる。瑞泉酒造は1887(明治20)年に創業(名前は喜屋武酒造場~佐久本酒造場を経て現在の瑞泉酒造株式会社に)した老舗だ。首里城の地下には旧陸軍・第32軍の司令部壕があったため、太平洋戦争末期、首里地区は米軍の空襲で壊滅的打撃を受け、泡盛づくりで貴重な泡盛菌も失われた。

 戦後、同酒造が操業を再開したのは1951年。しかし長い間沖縄は米国の施政権下にあり、ウィスキーが脚光を浴び、泡盛醸造は苦難の時代が続いた。人々が泡盛に回帰するのは1972年の本土復帰以降のことだ。それから26年後の1998年6月、沖縄の泡盛の歴史に刻印されるうねりが一人の若い記者によって起こされる。そのきっかけを作ったのは長期研修のため共同通信社から地元新聞社・沖縄タイムスに派遣されたN記者だった。好奇心旺盛な彼は、泡盛の歴史を調べるため文献を漁っていた。そして農芸化学者で「酒の博士」といわれた坂口謹一郎東大名誉教授(1897年~1994年)が、泡盛とのかかわりが深いことを著書から探り出したのだ。

 坂口さんは1935年頃から数回沖縄を訪れ、研究のため68の酒造所から約620株の黒麹菌を採取して持ち帰っていた。太平洋戦争で東京が空襲されるようになると、これらの黒麹菌を自身の出身地新潟県高田(上越市)に疎開させ、戦後これらは研究室に戻された。だが、その後廃棄処分の対象になったりして東大で発見されたのは14酒造所の19株だけだった。

 前述の通り、戦後泡盛業界は苦難の時代が続いたため廃業する酒造所が多く、東大で発見された黒麹菌の酒造所で営業していたのは瑞泉酒造ともう1社のみになっていた。このうち瑞泉酒造は残っていた黒麹菌を使って伝統の泡盛を造ることを計画。黒麹菌は東大で培養、分離され、首里へと戻ってきた。失敗もあった。それでも紆余曲折を経て翌年6月には幻の泡盛が蘇った。その泡盛は「御酒」(昔の泡盛の呼称)と名付けられた。

 私は首里滞在中、瑞泉酒造前の通りや首里城周辺、那覇市内を見下ろす崎山公園を毎日のように散歩した。首里城は2019年10月31日未明、正殿、南殿、北殿など計8棟が火事で焼失してしまった。政府は正殿の再建について2022年に着工、2026年までの完成を目指すと発表しており、そう遠くない時期に首里城は以前の姿に復元されるだろう。私は時々焼失前の首里城と瑞泉酒造の姿を思い出す。そんな時、南宋末期の詩人・劉克荘の「酒を売る家」の詩が頭に浮かんでくるのだ。

「小憩す 城の西 酒を売る家 緑陰 深き処に 啼く鴉あり」

(ブログ筆者の意訳=散歩をしていて城の西へときてしまった。ちょうど売酒家=居酒屋があったので、軽く休憩しようと店に入ると鴉の鳴き声が聞こえてきた。だが、緑陰深き樹の中にいるらしく、鴉は見えない)

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 追記

 ①2011年の東日本大震災でも似たような話があった。上野敏彦著『福島で酒を造りたい』(平凡社新書)にそのことが書かれている。大津波によって蔵を流された福島県いわき市浪江の酒造店が、若い兄弟を中心に多くの人たちの支援を受け山形県長井市で酒造りを再開し、「磐城壽」という銘酒を復活させるまでを追ったノンフィクションだ。ここに、坂口博士と同様、「酒の神様」といわれる福島県ハイテクプラザ会津若松技術支援センターの研究者が紹介されている。研究熱心なこの研究者は、震災前に酒造店の「山廃(蒸米をつぶす山卸し作業を廃止した製法)酵母」をサンプルとして4種類預かっていて、震災後酵母の分離、選別作業の結果、銘酒復活に役立てたというのだ。

 ②中国に長く残留、日本に帰国してから餃子を中心とする、東京蒲田の中国料理店「ニーハオ」のオーナー、八木功さんは、大連から母親譲りの中華まん(マントウ)の酵母となる中華まんを持ち帰った。これには酵母(菌)が含まれている。それは現在まで数十年使われている店の宝物だ。この菌を使うと中華まんは弾力性が出て、おいしくなるのだそうだ。完成した中華まんを冷蔵庫で保管し、新しく中華まんをつくる際にこれを小さく切って水で溶かし4回程発酵させ、中力粉に混ぜてイースト菌の代わりに使うのだ。そのため、八木さんは必ず一定数の中華まんを保存する。ところが、ある時それを忘れ、店の味が一つ消えてしまったと嘆いた。それを救ったのは長男の奥さんで、八木さんがつくった中華まんを冷蔵庫に保管していて、かろうじて危機は脱したという。

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 写真①瑞泉酒造前の歩道に咲くサガリバナ

           ②散ったサガリバナの不思議な模様

   ③首里から見た那覇の街。虹が浮かんでいて美しい