小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2066 イスラムの秘薬から世界の飲み物に コーヒーをめぐる物語

        f:id:hanakokisya0701:20211203170352j:plain

 急に寒くなったため、庭に出していた鉢植えのコーヒーの木を慌てて部屋に入れた。普段の年なら11月半ばにやるのだが、今年は特別早い取り込みだ。これで寒さに弱いというコーヒーの木も何とか持ちこたえるだろう。十数年前、娘が百円ショップで買ってきたわずか10センチほどの植物は、今や堂々と私の部屋を飾ってくれている。この夏は水やりもうまくいったせいか、葉も艶がよく、元気がいい。しばらくすると、待望の実がつくかもしれない。

 コーヒーの歴史を調べると、①原産地はエチオピアと考えられ、その後アラビアに伝えられたと思われる②エチオピアの羊飼いカルディが山羊のコーヒー豆を食べるのを見てコーヒーの飲用を発見。あるいは、イスラム教の聖者シーク・オマールが、鳥がコーヒーの実をついばんでいるのを見てコーヒーの飲用を発見③13世紀後期豆を煎って煮出すようになったと思われる(全日本コーヒー協会)――らしい。

 1511年にはメッカ事件というコーヒーをめぐる事件が起きている。同協会図書館(HP)の文章を要約すると、以下のような事件である。

    ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ 

《1511年、イスラエルのメッカでは総督カイル・ベイによって「コーヒー禁止令」が出された。カイル・ベイは自ら招集した会議で「コーヒーという飲みものは、人の心をひきつける驚くべき不思議な力を持っている。人を興奮させることもあり、人々を堕落させてしまうに違いない」と、コーヒー禁止についての考えを主張した。同席したアラブの医師たちは、「総督様、尊敬する大科学者アビセンナ先生の記録にありますように、コーヒーは胃にも良く、おいしい飲みものです。お考えを改めてください」と訴えたが、総督は言うことを聞かなかった。

 コーヒー禁止令はメッカの支配者であるエジプトの君主・カーンサウフに伝えられると、カーンサウフは、カイル・ベイの独断に不快感を示し、直ちにメッカに使者を送り、禁止令を撤回させた。カーンサウフは、医師に勧められてコーヒーを薬として飲み、その風味をとても気に入っていたというのだ。君主の怒りを買ったカイル・ベイとその賛同者は、厳しく罰せられたと伝えられている。この騒動は「メッカ事件」と呼ばれ、この事件をきっかけに僧侶の秘薬だったコーヒーはイスラムの庶民にさらに広まり、人々の暮らしになじんでいく。

 事件当時、コーヒーはイスラム教の聖堂・モスクにおける神聖な儀式と結びついた、特別な飲み物だった。しかし、そうした信仰とは無関係にコーヒーは人々の間に少しずつ広まっており、厳格なイスラム教徒のカイル・ベイは、それを苦々しく感じ、禁止令を出してコーヒーの神聖を保とうとしたとみられている。》

   ⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄⬄ 

 こうした歴史を経て、コーヒーは現在では世界で愛される飲み物になっている。特に日照時間の少ない北欧の国々はコーヒーの消費量が世界有数といわれる。北欧の人々は興奮・覚醒作用というカフェインを多く含んだコーヒーを、喉の乾きを潤す飲み物としてだけでなく、昼が極端に短い季節でも気持ちを明るく保てるよう飲むのだという。だが、世界でコーヒーの消費が増える弊害も忘れてはならない。アフリカのウガンダでは、農民たちが大規模コーヒー園に土地を奪われ、困窮生活を送っているというニュースを見た。

 日本とコーヒーのかかわりはどうなのだろう。日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代、第5代徳川綱吉のころで長崎の出島でオランダ人が武士に振る舞ったが、その苦さは当時の日本人の口には合わなかったという記録が残っているという。

 明治時代になるとコーヒーを出す店が次第に出始め、1911(明治44)年にはカフェという名のついた喫茶店が誕生した。その一つの「カフエーパウリスタ」(現在銀座8丁目で営業)について、村松友視は『銀座の喫茶店物語』(文春文庫)で「喫茶店前史からの伝統」として、その歴史の古さを紹介している。

 この店は、ブラジル移民158家族、781人と自由移民12人を乗せ、明治41年4月28日に神戸港を出港した第1回ブラジル移民船「笠戸丸」の団長だった水野龍(りょう)(1859―1951年。ブラジル移民の苦闘を描いた北杜夫の『輝ける碧き空の下で』(新潮社)の最初の方に水野も移民会社社長として登場する)が創立。「『カフエー』はポルトガル語の『コーヒー』、『パウリスタ』は『サンパウロっ子」の愛称だ。第1号店は大阪の箕面店であり、この時代は『喫茶店』ではなく、『喫店』(きつてん)と呼ばれていたという』と、村松は書いている。

 水野は土佐藩の武士の家で生まれ、明治維新自由民権運動の闘士を経て移民会社社長となり、第1回移民船の「笠戸丸」の運行に尽力し、日本にブラジル・コーヒーを紹介した。移民から預かった金の一部を返さなかったことでトラブルもあったが、日本で「カフエーパウリスタ」を創立してブラジルコーヒーの普及に努め、自身も後に家族とともにブラジルに移住した。パラグアイとアルゼンチンに近いパラナ州世界遺産イグアスの滝のブラジル側もこの州にある)クリチーバ市郊外で果樹、茶、蔬菜栽培を続け、一時帰国した後、サンパウロに戻り92年の生涯を閉じている。

 人それぞれにコーヒーにまつわる話はある。数奇な人生を送った水野もまた、コーヒーに惹かれた一人だったに違いない。

    f:id:hanakokisya0701:20211022182315j:plain

 写真(いずれも撮影はブログ筆者)