小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1618 境界領域を超えて 作家に見る飛躍の時

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 最近、「境界領域」という言葉を聞いたり、文章に使われているのを見ることがある。「専門化した学問分野の2つ以上にまたがる領域」のことをいうが、人生での曲がり角にも使われる。人それぞれに境界領域の時期があり、それを抜け出し飛躍した人もいれば、抜け出せないままもがき続ける人もいるのだという。  

 文藝春秋の前社長平尾隆弘さんの講演を聞いた。平尾さんは若いころ山崎豊子さん担当の編集者を務めた人で、名作『大地の子』が生まれるエピソードを話す中で、山崎さんにも「境界領域」を超えた作品があると巧みに説明した。  

 大阪船場の昆布屋の一人娘だった山崎さんは、毎日新聞記者(大阪本社学芸部、副部長には作家の井上靖がいた)時代に、生家をモデルにした『暖簾』で作家デビュー、その後吉本興業吉本せいをモデルにした『花のれん』で直木賞を受賞した。『ぼんち』という作品も船場の商人の話だが、この後社会派作家として舵を切っていく。平尾さんによれば、これが境界領域を超えた1回目だという。  

 この後、医師の世界を描いた『白い巨塔』、銀行を舞台にした『華麗なる一族』、さらにシベリア抑留から帰還し、経済界の巨頭になった人物を描いた『不毛地帯』を書く。そして『大地の子』へと続いていく。この作品は戦争によって中国に残された日本人孤児の苦闘の物語で、山崎さんは医者、銀行、経済界の話は書いたので、次は「国際ものだ」と平尾さんに話していたという。こうして構想から完結まで8年という長期に及ぶ作品が生まれた。これが2回目の境界領域の突破だった。  

 1984年その取材のために中国に飛んだ山崎さんは当時の胡耀邦総書記に頼み込んで、反革命分子などを強制収容する労働改造所や農村など困難な現地取材を行い、作品に盛り込んだのだ。改革派の胡耀邦が死去すると、厳重警戒の中、自宅に行き、夫人と抱き合って泣いた。  

 平尾さんによると、作家は「横に広がる時と垂直に飛ぶ時」がある。山崎さんは船場の商家ものの時は横に広がっていたが、社会派の作品、さらに国際性を帯びた作品を書くことで垂直に飛んだのだそうだ。村上春樹さん、宮部みゆきさんも境界領域を超え作家として大きく成長したという。マンネリに陥った時、それを察知し乗り越えるには垂直に飛ばないといけないのだが、それができない作家はいつか埋没してしまうのかもしれない。企業に例えると、東芝はそれができなかったから、大きな困難に直面したという平尾さんの指摘は的確だ。  

 人生でも境界領域(言い換えると、分水嶺か)にいる時があるはずだ。それに気が付き乗り越えることができる人もいれば、そうでない人もいるだろう。平尾さんの「境界領域にあると自覚することが大切」という言葉を聞いて、自分の行動に常に懐疑心を持ち続けることが必要なのかもしれないと考えた。

大地の子』は、月刊文藝春秋の1987年5月号から1991年4月号まで連載され、91年に単行本になった。たまたま中国残留孤児問題に関係していた私は、山崎さんが現地取材を始めた1984年、約1カ月中国東北部(旧満州)を回って中国残留孤児や残留婦人に話を聞いた。ほとんどの人が『大地の子』の主人公、陸一心と同じく、辛く悲しい人生を歩んできた。そして、肉親との再会を待ちわびる痛切な思いを打ち明けてくれた。その後、肉親と再会した人も再会できなかった人もバラ色の夢を抱いて次々に日本に永住帰国した。

 しかし、現実は過酷で、多くが祖国日本で寂しい生活を送らざるを得なかったことは周知の事実である。この人たちはさまざまな厚い壁に阻まれ、境界領域を抜け出すことができなかったといえるだろう。実は今、日本社会も危うい境界領域にあるのではないだろうか。

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