小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1076 「3月2日を忘れないで」 中国残留孤児ボランティアからの便り

画像「3月2日を忘れないでください」と書いた手紙が届いた。送ってきたのは、長い間、中国残留孤児問題のボランティアをしている東京・大田区の柏実さんだ。

 柏さんは、現在73歳。鉄工所を営み、作詞家の顔も持つ彼は、東日本大震災被災地支援の組曲(10曲)の作詞に取り組んでいるという。

 きょう1月17日は、阪神淡路大震災から18年。奇しくも同じ「46分」(阪神淡路は1995年1月17日午前5時46分52秒、東日本は2011年3月11日午後2時46分18秒)という時刻に発生した2つの大地震が自然災害とすれば、中国残留孤児の発生は、戦争という「人災」によるものだった。以下、柏さんの手紙を紹介する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「光陰矢の如し」時の過ぎるのは早いものですね。賀状、毎年毎年ありがとうございます。年齢を重ねますと、旧知の友ほどうれしいものです。厚生省の記者クラブが初対面でしたね。あれから30年余りが経過しました。私たちが中国残留日本人孤児の支援活動をしていたころの、厚生省の官僚、報道機関の記者さんも退職されて、現在は孤児訪日の実態を知る者は一人もおりません。

「熱しやすく、冷めやすい」日本人の持つ体質なのでしょうか。嘆かわしい現実です。 私と山本慈昭さん(注1)が生命を賭けて「中国残留日本人孤児調査団」を結成し中国訪問を成功させましたが、「生獄」(柏さんの著書)にも掲載したように、日本政府は対岸の火事でも見るような無策でした。

 私たちが中国訪問の選択をしていなければ、孤児訪日は実現しなかったことでしょう。私とともに活動した山本慈昭さんも他界され、中国政府の寛大な協力の下、孤児訪日の「帰国の道」を確立させた活動経過を知る者は、私一人となりました。 日本人である限り、来る3月2日(注2)は記念すべき日と固く信じます。

 ブログ「小径を行く」にて、残留孤児訪日のことを掲載していただきたく念じます。私の一生の役目は、満州におきざりにした邦人を祖国に帰すことでした。帰国を目的とした足跡を「生獄」として世に残せたのも幸運でした。今年で73歳となり、残りの生命を「東日本震災地支援作品」(組曲10編)作詞家として、千年に一度の地震により巻き起こした大津波、1万9636人もの尊い生命を奪った大震災を風化させることなく、後世に残すために作詞に取り組んでおります。

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 柏さんがペンネーム「海原光」でつづっている組曲のうち1曲目「海に祈る」。

 (1)遥かな海原に 両手を合わせ 亡き人の冥福を 静かに祈る  3月11日の あゝ昼下がり 青空も裂けるほど 大地は揺れた。

 (2)寒いなら俺の服 掛けてやろう 飲みたけりゃ俺の酒 注いでやろう  3月11日を あゝ忘れまい 悲しみと憎しみが 大地を濡らす。

 (3)緑なす松原は 津波に倒れ 懐かしい家並みは 藻屑と消えた  3月11日の あゝ時を越え 故郷を護る為 大地に生きる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

注1)長野県阿智村の住職。中国残留孤児の肉親捜しのために日中友好手をつなぐ会を設立して、中国残留孤児の帰国のために奔走し、中国残留孤児の父ともいわれた。吉川英治文化賞を受賞。1990年に死去、享年88歳。

(注2)第1回中国残留孤児の訪日肉親捜しが1981年3月2日にスタートした。集団訪日調査は1999年まで30回実施され、来日した2116人のうち31・8%に当たる673人の身元が判明した。1回目は47人が日本の土を踏み、30人の身元が判明、5回目までは身元判明率が50%を超えたが、以後判明率は下がり続けた。2000年からは情報公開調査として継続されている。

 このブログの筆者は第1回から第6回(1984年)まで継続してこの調査の取材を担当。この間、1984年には3週間にわたって中国東北部で中国残留孤児といわれる人たちを取材した。 柏さんの希望のように、このブログで今後も折に触れ、この問題を書いていきたい。

 写真は、津波で多くの児童が犠牲になった宮城県石巻市の大川小跡に残された壁画(卒業生が制作、宮沢賢治銀河鉄道の夜を題材にしたイラストと雨ニモマケズの一節 が記されている)