小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

575 体験者の真実の遺言 少年の過酷な現実を描いた「生獄」

画像 ことしは戦後65年になる。この「戦後」という言葉は、多くの国民には遠い存在になっているようだ。だが、このほど出版された「生獄」(柏実著、文芸社刊)を読むと、65年前を忘れてはならないことを思い知らされる。著者の柏さんは、私の知人である。

 この本のあとがきの結びで彼は書いている。 「生獄」は今も私の中で息づいている歴史だ。血の通った真実の歴史なのだ。学校の歴史教科書にはない、体験者の真実の歴史を学んでいただきたい。これが、未来の日本を背負って立つ若者たちへの、私の遺言である。 柏さんは激情の人である。不条理なことについては手厳しく批判する。その後で涙を流す姿を何度も見た。不条理なことというのは、中国に残された日本人孤児たちに対し、国がなかなか救いの手を差し伸べなかった問題だ。

 中国残留孤児問題は柏さんと長野県の住職、山本慈昭さんが中心になって組織した民間団体「日中友好手をつなぐ会」の活動がなければ、今日のような進展はなかっただろう。 それについては、この本の後半部分で詳述されている。柏さんはなぜ、中国残留孤児問題にのめり込んだのだろう。家族とともに戦前、長崎から旧満州(現在の中国東北地方)牡丹江に移住した柏さん一家は幸せな一時期を送る。父親は満鉄の社員だった。しかし、昭和20年2月、父親が召集され、さらに8月、

 ソ連軍の侵攻によって一家6人で避難途中、難民収容所で母親が亡くなり、幼い妹と弟は中国人に預けられ、中国残留孤児となる。7歳の柏さんと2人の姉が日本に帰国する。 「生獄」は、冒頭から厳しい「逃避行」が記されている。ソ連の侵攻によって、旧満州に暮らしていた邦人はパニック状態となり、避難途中おびただしい犠牲者が出る。

 柏さんは、そうした生き地獄ともいえる状況を「多感な少年の眼」で記録する。それは忘れたくとも忘れることができない現実だった。 この本は、基本的には悲惨な引き揚げの記録である。しかし、中国人少年一家との交流のくだりを読むと、救われる思いがした。 柏さんの脳裏には中国人の親友がいまも残っている。有刺鉄線でさえぎられた日本人と中国人の住居、柏さんには龍君という友人がいる。

 そこで2人は秘密のトンネルをつくり、行き来を繰り返す。2人と家族の交流は暖かい。 後年、柏さんは中国人に預けられた妹と弟を探すため訪中する。そこで、妹の富美子さんと確信する女性と会うが、娘は日本人ではないと言い張る彼女の養父母を気遣い、きょうだいの名乗りはしない。弟は4歳で亡くなったことを知る。 この本では富美子さんと確信した中国残留孤児とのその後のことについては、触れられていないが、行動的な柏さんのことだ。妹の幸せのためにと動いているはずだ。(柏さんは、引き揚げ後も苦しい生活を送るが、東京・蒲田で鉄工所を営みながら、中国残留孤児や残留婦人の支援活動を続けている。海原光という名前で歌謡曲の作詞も手がけている)