小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1452 3月2日とは 忘れてはならない中国残留孤児問題

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 1981年3月2日、中国残留日本人孤児の訪日肉親捜しがスタートした。日中の国交回復から9年、経済大国を歩む日本と文化大革命の後遺症に苦しむ中国の実情は、やってきた日本人孤児の人民服姿にも反映されていた。 あれから35年が過ぎている。

 その中国はGDPで日本を追い越し、世界2位の経済大国に変身し、中国人観光客の「爆買い」が話題になっているが、中国残留孤児問題は世間からも忘れられつつある。だが、ボランティアが言うように3月2日は忘れてはならない日なのである。

 この日以降、中国残留孤児問題は社会問題として国民の間に浸透していくのだが、日本政府の取り組みはあまりにも遅すぎた感がある。ここで書くまでもなく、中国残留日本人孤児というのは第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、ソ連軍の侵攻と旧関東軍の撤退によって中国東北部(旧満州)が大混乱に陥ったため帰国できずに残留、中国人に引き取られて成長した日本人をいう。

 終戦後、日本と中国は長い間、国交断絶状態が続き、日本政府は孤児の存在を否定し続けた。ボランティアや民間団体の働きかけでようやく訪日調査が実現し、1回目には47人が訪日、30人の身元が判明した。 中国残留孤児問題は、ドラマにもなった山崎豊子の『大地の子』や新聞報道などにより社会問題になった。

 旧満州に取り残された孤児の数ははっきりしないが、数千人規模ではなく、もっと多いのではないかという見方もあるが、これまで厚生労働省によって認定されたのは2818人だけである。戦後71年。本人だけでなく、肉親側も高齢化しており、認定作業はより困難になっている。戦争がもたらした悲劇も風化しているように思えてならない。

 私は1984年6月、3週間にわたって中国東北部を回った。何人かの残留孤児といわれる人と会い、話を聞いた。ハルビンでは41歳の女性中学教師と出会った。彼女は吉林省の延吉で生まれた。軍人だった父親は1943年に亡くなり、たばこ屋で生計を立てていた母親は終戦戦後の混乱の中、4人の子どものうち彼女を中国人の養父母に売ったのだという。

 その後養父が亡くなり、養母は懸命に崔さんを育て、師範学校にまで入学させる。その養母も日中が国交を回復した1972年にこの世を去った。 彼女は子どものころから自分が日本人と知っていたのに、養母から両親のことを聞くのをためらったため明確な手掛かりはないが、両足のかかとに傷跡がある。実の母がたばこを売りに行く時にあとを追って転んでけがをしたものだ。

 彼女はこんなふうに半生を語ってくれたのだが、その最後に「家族の団らんを一度だけ味わってみたいのです」と話し、涙を流した。 それから半年後、彼女は訪日孤児のメンバーとして日本の土を踏んだ。そして、彼女を売ったという母親が名乗り出、親子の対面を果たし、その後彼女一家は日本に永住帰国した。

 それが彼女にとって幸せだったかどうかは分からない。 難民問題が大きな課題になるほど、21世紀は平和とは程遠いのが実情だ。中国残留孤児たちが味わった悲しみを、世界の多くの現代の子どもたちが背負って生きている。人類は歴史に何を学んでいるのだろう。

1076 「3月2日を忘れないで」 中国残留孤児ボランティアからの便り