中国残留孤児が社会問題としてクローズアップされたのは、1980年代だった。1981年3月2日、中国残留孤児の訪日肉親調査がスタートし、1999年まで30回にわたって集団訪日調査が続いた。その結果、孤児とその家族の多くが帰国を果たしたのだが、かつての孤児たちは高齢化し、その2世も定年世代に入りつつあり、新たな問題が浮上しているという。
中国残留孤児を含めた中国帰国者の支援活動を続けている知人は、現在1人の残留孤児2世の再就職活動の付き添いをしている。知人によると、残留孤児だった母親とともに帰国した2世は、就職して17年間働いたが、60歳で定年退職となり、現在再就職の職場を探す日々だ。もらえる年金だけでは今後の生計は無理なため、働く必要があるのだが、なかなか職場が見つからないという。知人は言う。
「すべての2世3世への援護というのは壁があるとはいえ、将来の親の世話として国が同伴させた2世には配偶者同様、何らかの配慮があってもいいのではと思う。結果として多くの2世3世が生活保護に流れていく。親の世話のために生活を投げ打って帰国した2世が使い捨て同然になるのは胸が痛みます」
戦後も中国に残った日本人は「中国残留邦人」と呼ばれ、その中の「中国残留孤児」は、1945年8月9日以降、旧満州を中心に置き去りにされた、日本人の零歳―12歳までの子ども(両親とも日本人)とされており、帰国した孤児たちは72歳―84歳という年齢になっている。その子どもも知人の知り合いのように、還暦を迎える人も少なくないだろう。
つい先日、NHKが高齢化している元中国残留孤児の実態を取り上げたのを見た。夫婦2人暮らしの元孤児は、2人とも体が不自由なのに日本語をほとんど話すことができないため、介護を受けることができない。中国語ができるカウンセラーの支援で危機を乗り越えるが、このケースのように「孤立状態」の孤児たちは少なくいという。
私の知り合いに、東京・蒲田を中心に羽根つき餃子で成功を収めた元中国残留邦人がいる。彼は中国での比較的安定した生活を捨て、帰国した。自立への道のりは平坦ではなかった。彼の努力と人とのつながりがぶ厚い壁を乗り越えた要因なのだが、そのサクセスストーリーは元中国残留邦人の中でも稀有なケースといえるだろう。
人生には「光と影」があるが、中国残留孤児、中国残留邦人には光が少な過ぎる。政府は「1億総活躍社会」という政策を打ち出した。威勢はいいが、社会の片隅に生きる人たちへの配慮は十分でない。
拙著紹介 「你好」羽根つき餃子とともに