小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1604 生を愛し日々を楽しむ 冬木立の中で

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 12月ともなると、遊歩道の街路樹のけやきもほぼ葉を落とした。我が家のすぐ前にある2本だけがなぜか、頑張って赤茶けた葉を3分の1ほど残している。しかし、間もなくこの木の葉も落ちてしまい、遊歩道は「冬木立」の風景になるだろう。「妻逝きて我に見えたり冬木立」。知人が詠んだ句からは寂寥感、孤独感が伝わる。

 喪中の便りが届く季節である。この知人のように、伴侶や肉親を亡くしたという知らせを見ると、人生のせつなさを感じる。同じ世代の集まりがあると、病気の話が必ず話題になる。そんなときこそ、吉田兼好の「徒然草」の言葉通りの生き方をしたいと思うのだ。  

 第93段の後半に以下のような言葉がある。

《されば、人死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや》  

 エッセイストの木村耕一さんは、これを「今、生きている、この喜びを、日々、楽しもうではありませんか」(『こころを彩る徒然草』一万年堂出版)と意訳し、国語学者の武田友宏さんは「人間誰しも死ぬのがいやならば、だからこそ、今ある命を愛するべきなのだ。命ながらえる喜びを、毎日たいせつに楽しまなくてはいけない」(『徒然草角川ソフィア文庫)と解説している。  

 9月から10月にかけて1カ月弱、けがで入院生活を送った。病院には寝たきり状態の患者も少なくなかった。そうした人たちの姿を垣間見ただけに、退院して元の生活に戻ることができた喜びは大きかった。そして、兼好の言葉が身にしみるのだ。  

 冒頭の俳句は、私も参加している句会の兼題「冬木立」で詠まれたものだ。「冬木立ふと逝きし友数えてみる」の句も友との別れを詠った句である。兼好は《友あれど心の友(同じ心ならむ人)はなし》(第12段)とも書いている。兼好によると、人の世で真の友人は少ないという。しかし、それに近い友は誰もが持っているし、友を失った辛さ、悲しみを人生では避けることができないのである。だからこそ、生きている者は生を愛し、日々を大切にしなければならないのだろう。  

 街路樹が冬木立の姿になり、冬が到来した。広辞苑には冬木立について「冬枯れの木立。葉を落とし、さむざむとした木立」とあるが、茂った街路樹のために遮られていた日差しが我が家の庭いっぱいに差すようになった。だから、私は冬木立も満更嫌いではない。しかも、よく見てみると、葉を落としたけやきは、空に向かって精一杯枝を伸ばしている。その姿は凛とした風情がある。

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写真 1、葉をほとんど落とした街路樹のけやき 2、近所の公園の紅葉が美しく色づいた

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