小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1484『わが定数歌』 ある大先輩の歌集から

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 芽を吹きて欅(けやき)は空に濃くなりぬわが「市の樹(まちのき)」と思ひつつ行く

 私の2階の部屋の窓から、街路樹のけやきが見える。緑の葉が遊歩道を覆っている。冒頭の短歌は、若い時分にお世話になった秋田市の大先輩が「わが定数歌」として詠んだうちの一首である。けやきは秋田市の市の木になっている。秋田ではちょうど今ごろは芽吹いたけやきの葉の色が濃くなる時期である。背筋を伸ばして、けやきの並木道を歩く大先輩の在りし日の姿を想像する。

「わが定数歌」のあとがきには「一定数をきめての詠歌方式、またその作品を『定数歌』といい、百首歌が基本となる。そこで堀河百首ふう(あくまでふう)に内容を四季・恋・雑と大別し、歌詞『かりん』(96~99年)所載作品から自撰してみた」とある。

 堀河百首は、康和年間(1099~1104)、藤原公実源俊頼大江匡房、藤原基俊ら当時の代表的歌人が詠んだ百首を堀河天皇勧進したことが謂れという。大先輩はこの例にならってそれまで詠んだ中から「あくまでふうに」と謙遜しながら百首を選んだ。その歌からは作者の優れた感性が伝わってくるのである。

 けやきの歌は、四季の「夏」の中にある。同じ「夏」に収められている次の歌は、さわやかな初夏の光景が目に浮かぶ一首だ。

 自転車に翅(はね)ある朝よ夏服となりたる少女らかぜを載(き)りゆく

 いつも新刊書を数冊持ち歩いていた大先輩は、こんな歌も残している。

 学問のさびしさは知らず広辞苑読み了へにける夏九十日

「夏の間の三カ月、広辞苑の全頁に目を通していて(あるいは、読みふけっていて)学ぶことの物足りなさを感ずることはなかった」。こんな解釈でいいのだろうか。

 人生(ひとのよ)は去りゆく影に過ぎざりとマクベスの獨白(せりふ)まだ憶えゐて  シェクスピアの「マクベス」の中で、夫人の死の報を聞いてマクベスがつぶやくせりふ「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ」(Life's but a walking shadow, a poor player)から思いついた歌で、大先輩の人生観が垣間見えるのだ。

 酒と書を愛し、故郷秋田で生涯を送った大先輩が82歳でこの世を去ったのは2003年10月だった。季節感、人生観が31文字の中からにじみ出ているこの歌集は、その4年前の1999年10月に編まれた。