1993 風景との対話 人もまた一本の樹
街路樹のうちけやきが緑の葉を出し始め、目に優しい季節になってきました。近所の体操広場にあるマロニエの木も1本だけ葉が茂ってきています。広場を取り囲むように植えられている30本ほどのマロニエ。この木々の葉が茂り始めますと、ラジオ体操に集まる人の数も増えてくるようです。
3月は終わり、明日から4月です。コロナ禍収束の先は見えませんが、生命力を感じる季節を楽しむ余裕を持ちたいですね。
吉野弘の「樹」という詩を読んでみました。
人もまた、一本の樹ではなかろうか。
樹の自己主張が枝を張り出すように
人のそれも、見えない枝を四方に張り出す。
身近な者同士、許し合えぬことが多いのは
枝と枝とが深く交差するからだ。
それとは知らず、いらだって身をよじり
互いに傷つき折れたりもする
仕方のないことだ
枝を張らない自我なんて、ない。
しかも人は、生きるために歩き回る樹
互いに刃をまじえぬ筈がない。
枝の繁茂し過ぎた山野の樹は
風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ
密生した枝を払い落す――と
庭師の語るのを聞いたことがある。
人は、どうなのだろう。
剪定鋏を私自身の内部に入れ、小暗い自我を
刈り込んだ記憶は、まだ、ないけれど。
(『吉野弘詩集』ハルキ文庫)
体操広場のマロニエを見ていますと、吉野が言う「人は一本の樹」という比喩がよく分かります。ある木は秋になって一度葉を落としたのに、秋のうちに再び葉を出して、木全体を青々と茂らせてしまいました。せっかちなのか、おっちょこちょいなのか……。別の木は、大きな実をたくさんつけて、体操をする人の近くにその実を次々に落下させました。空威張り? そして、この春。新緑の先頭を走るのは端から2、3本目の木です。「私が一番元気なんです」と、自己主張をしているように私は見てしまいました。コロナ禍の時代、話題になる人物たちの行動を見ていますと、吉野の詩が現実味を帯びてくるのです。
3月は交替する時期、大地が再生するとき――といわれます。詩人の大岡信は「古いものが新しいものになるだけでなくて、古いものを見ることによって逆にわれわれが新しい要素をはっきりと認識することもあるのです。そういう意味では、時間というものが交替していく時期が3月なのです」(『瑞穂の国うた』新潮文庫)と書いています。私は1カ月ごとに替える卓上カレンダーを見ながら、4月には何をやろうかと考えているのです。
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