1974 広辞苑で学問のさびしさ知らず 歌集『わが定数歌』を読む
「学問のさびしさは知らず広辞苑読み了(お)へにける夏九十日」
私は若い時代、秋田市で暮らした。この短歌の作者、三浦右己さん(本名・祐起)は当時、秋田の支局長で、とても怖い、人生の師でもあった。
いつも新刊書を抱え、文章に厳しい人で歌人でもあった。本棚を整理していたら、この人の『わが定数歌』という歌集が出てきた。歌集に収められていたこの句を読みながら、「学問のさびしさ」という言葉が気になった。コロナ禍が学生たちにも大きな影響を及ぼし、食料支援がニュースになるなど、多くの学生が厳しい生活を余儀なくされているからだ。
「学問のさびしさ」とは、どう解釈したらいいのだろう。同じく「学問のさびしさ」を使った俳句がある。「學問のさびしさに堪へ炭をつぐ」。山口誓子(1901~1994)の大正13年冬の句。東大の学生時代、本郷の下宿で火鉢で暖を取りながら法律の勉強をしている途中、火鉢に炭を継ぎ足した動作を詠んだといわれ、「さびしさ」は法律の勉強の味気なさ、わびしさを表現したと解釈される。
三浦さんの短歌は、誓子のこの句を意識したのかもしれない。広辞苑の新しい版が出たのだろう。本好きな三浦さんは早速購入し、読み始める。毎日丹念に頁をめくる。そして、夏の3カ月で全頁を読み終えた。この間、読むことに集中していてわびしさや味気なさ、さらに孤独を感じることはなかった。……この短歌について、門外漢の私はこんなふうに解釈する。(違っていたら、すみません)そして、いかにも謹厳な三浦さんらしい短歌だと思うのだ。
「定数歌」は一定数を決めた詠歌方式・その作品のことを言い、百首歌が基本だという。三浦さんのこの歌集は「堀河百首(平安後期、堀河天皇のときに詠まれた百題による百首歌)ふうに内容を四季・恋・雑と大別し百首を自撰したという。このうちランダムに私が選んだ味わい深い短歌6首を以下に掲げる。(冒頭の広辞苑の短歌は「雑」に入っている)
夏 芽を吹きて欅(けやき)は空に濃くなりぬわが「市(まち)の樹(き)」と思ひつつ行く
秋 ここに咲く秋明菊の白花にひかりあつまる瑠璃のそらより
冬 わが生と地つづきのもの故里の雪の出羽丘陵ここに起臥(おきふ)す
恋 初恋はいつなりしやと妻の問ふ問はれて惑ふ心のおもかげ
雑 人生(ひとのよ)は去りゆく影に過ぎざりとマクベスの獨白(せりふ)まだ憶えゐて
三浦さんが亡くなって18年の歳月が流れている。20代の私は三浦さんから「じゃじゃ馬、駄々っ子」といわれ、厳しい指導を受けた。今思うと赤面の至りの日々だった。
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