小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1892 青春の地は金峰の麓村 地図を見ながらの想像の旅(2)

CIMG0580 (3).JPG

  閑古啼くこゝは金峰の麓村 山形県鶴岡市生まれの作家、藤沢周平(1927~1997)の句(『藤沢周平句集』文春文庫)である。藤沢の死後、主に鶴岡で集められた色紙や短冊などに見られた7句のうちの1句で、藤沢は鶴岡師範学校を出た後、当時の湯田川村立湯田川中学校(現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)の教師(国語と社会)をしていたことがある。

 後に、この村の風景を思い出しながら、こんな句をつくった。若い教師時代、藤沢はどのような思いで故郷の山を見ていたのだろう。地図を見ながらの私の想像の旅は続いている。  

 30歳代、庄内地方を放浪した森敦は、芥川賞を受賞した『月山』の中で次のように庄内にある山について記している。「月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連亙させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を平野へと落としている」。

 ここに登場する3つの山のうち金峰山(きんぼうさん、471メートル)が、若い時代の藤沢が見慣れた山だった。金峰山鶴岡市の南部にある信仰の山として知られ、山頂に金峯神社(なぜか金峰とは書かない)がある。山頂や登山道から庄内平野が広がるのが見え、鶴岡市民にとっては憩いの山だそうだ。

「閑古鳥」は郭公(かっこう)の別名で「閑古鳥が鳴く」は「物寂しいさま」の意味だから、藤沢は湯田川温泉で知られる村の風景を、こんな風に思い出し、自作の句にしたのだろう。同じ「金峰山」と書いて、「きんぷさん」(山梨側)、「きんぽうさん」(長野側)という2つの呼び方をする山が山梨と長野県境にある。標高は2599メートルで奥秩父の主峰といわれ、日本百名山にも登録されているから、こちらの方を知っている人の方が多いかもしれない。  

 岩手出身の石川啄木の「ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな」という歌はあまりにも有名だ。「後年流離の生活を送った彼の眼底には、いつも北上川の岸べから望んだ岩手山の姿があったに違いない」と、深田久弥が(『日本百名山』「岩手山」より)で書いているように、啄木はつらい現実の中で故郷の山の姿を思い出し、このような歌を詠んだのだ。    

 美しい故郷をすてて若者は都会に出ていく。そして長い年月が過ぎる。でも故郷の山はいまも美しい……。ジャン・フェラが作詞作曲したシャンソン「ふるさとの山」は、古賀力さんの名訳によって日本でもよく知られる望郷の歌である。藤沢周平のこの句が望郷の句と言えるかどうかは分からない。

 だが、肺結核のため教師を2年でやめ、その後東京で長く暮らし、1997年に69歳で亡くなった藤沢にとって、金峰の麓の湯田川は青春時代の思い出の地だった。だからこそ、こんな句を詠んだのだと考えることができる。それは藤沢作品の舞台である『海坂藩』に金峰山を思わせる山が何度も登場することでも、容易に想像できるのだ。

俳人松尾芭蕉は、奥の細道の旅の途中、旧暦6月8日、月山登山をしている。登頂後、夜になったため山中で一夜を明かし下山した。芭蕉45歳の時である)  

 写真 山形から鶴岡に向かう高速道路から見た風景。月山は雲に隠れていた。

 1124 望郷の思いで聞く名曲 友人のシャンソンコンサートにて  

 1438 人生の選択 グローバル化時代の望郷とは   

 1827 郷愁と失意と 秋の名曲『旅愁』を聴きながら