小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2025 出会いの瞬間に生れた悲劇の種 小池真理子『神よ憐れみたまえ』

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「どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。ジャン・グルニエ/井上究一郎訳『孤島』」。この本のエピグラフである。この引用文は何を意味しているのか。私はこれまでエピグラフを注目して読んだことはほとんどない。エピグラフギリシア語のepigraphで和訳では碑銘・碑文)は本文の前に記される短い文章のことで、何気なく読んだ本書の引用文には間違いなく重い意図があったのだ。

 1963年(昭和38年)11月9日夜、国鉄(現在のJR)史上に残る大事故・鶴見事故が発生した。当時の国鉄東海道本線鶴見駅新子安駅間の貨物線で下り貨物列車が脱線、最後部2両が転覆し3両目が東海道線上り線にかかった。そこに横須賀発東京行きの上り電車が衝突し脱線。電車の最前部の1両は貨物と並行して走っていた東京発逗子行きの横須賀線下り電車4両目と5両目に衝突した。この事故は死者161人、負傷者120人という大惨事になった。この日は土曜日で、福岡県大牟田市三井三池炭鉱で死者458人を出す爆発事故も発生、「血塗られた土曜日」「魔の土曜日」と呼ばれた。

  この夜、本書の主人公で12歳の私立小学校6年生、黒沢百々子の両親(函館の有名製菓会社の跡取り・黒沢太一郎と妻の須惠)が東京・久が原の自宅で何者かによって殺害されているのを通いの家政婦、石川たづが発見する。序章は犯人の男が百々子の両親を殺害する場面から始まるが、男の身元は明かされない。男は横須賀線に乗り、鶴見事故にも遭遇して、助かる。そんな入り方だから、ミステリー作品として展開するのかと読み進める。その思いはすぐに裏切られ、途中で2人を殺した男が誰であるかあっさりと明かされる。だが、警察の捜査は男に向かわず、犯行の動機が不明なまま物語は戦後の日本社会を背景に進行していく。

  両親を失った百々子は、否応なく犯罪被害者となる。マスコミには「血塗られた土曜日の令嬢」と書き立てられるが、その人生は決して後ろ向きではない。音楽家を目指す美貌の百々子の前にはさまざまな人たちが現れる。たづと夫で大工の多吉、長男の紘一と長女の美佐という石川家の人々は百々子を家族同様に温かく見守る。ほかにも祖父母の黒沢作太郎と縫、母の腹違いの弟で叔父の沼田佐千夫、池上署の間宮刑事と教師美村、百々子の結婚相手の北島らだ。これらの人々はこの本の中で重要な役割を果たし、百々子の人生に大きなかかわりを持つ人物もいる。美佐の息子律もその一人だ。

  本書の後半でようやく事件の動機が明らかになる。犯人の男の心理描写はウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ (Lolita)を思わせる。本書は終章で、律とともに東京から函館に移り住んだ百々子の晩年を描いている。ピアノを通じて輝く日々。だが、百々子に不幸の影が忍び寄る。戸惑いながらそれを意識し、生き抜こうとする百々子の姿は、夫の作家・藤田宜永をがんで失った小池と重なる。

 以前のブログに書いたが、『マルテの手記』(リルケ作)には「この世のことはどんな些細なことでも予断を許さない。人生のどんな小さなことも、予想できない多くの部分から組み合わされている」という一節がある。百々子と出会った瞬間に人生が狂い始めた男は言うまでもなく、私たちの人生には予断が許されない事象が待ち構えていることを痛感せざるを得ないのだ。小池は10年をかけてこの作品の構想を練ったと聞く。乃南アサ『チーム・オベリベリ』、村山由佳『風よあらしよ』同様、著者の代表作になるに違いない。

  本書の中でクラシックの2つの名曲が物語を肉付けするものとして使われている。冒頭の男の犯行現場では、ムラヴィンスキー指揮、レニングラード・フィル演奏のチャイコフスキー『弦楽セレナード』が流れている。百々子が父を回想する後半では、メンゲルベルク指揮のバッハ『マタイ受難曲』・「神よ憐れみたまえ」が出てくる。チャイコフスキーの『弦楽セレナード』は私が好きな明るい曲であり、陰惨な殺人事件の舞台回しに出てきたことに軽い衝撃を受けた。

『神よ憐れみたまえ』(新潮社・570頁)

 注 グルニエ(1898~1971)はフランスの作家・哲学者。パリ大学文学部で美学を担当した。『ペスト』を書いたアルベール・カミュ(1913~1960)は教え子で、グルニエから大きな影響を受けたといわれる。現在、東海道線横須賀線は別のルートになっているが、事故当時は同じルートを走っていた。