小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

2021 リトマス試験紙的存在の五輪 人が生き延びるために

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「馬の耳に念仏」ということわざは「馬を相手にありがたい念仏をいくら唱えても無駄。いくらよいことを言い聞かせてもまるで理解できないからまともに耳を傾ける気がなく、何の効果もないことのたとえ」あるいは「人の意見や忠告を聞き流すだけで、少しも聞き入れようとしないことのたとえ」という意味だそうだ。「馬耳東風」も同じような意味だ。東京五輪パラリンピックをめぐる政府と政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会有志の動きを見ていたら、このことわざが頭に浮かび不快な気持ちになった。本来なら多くの人が待ち望む五輪なのに、そうではないから、開催されれば歴史に残る異常な大会となる可能性が大といえる。

 1965年のロンドン。ペスト・パニックにより多くの市民が犠牲になり、ロンドンから避難しようとした市民も途中で次々に命を失う。その実態を描いたのがノンフィクション、フィクションどちらにも読むことができるダニエル・デフォーの『ペスト』(中公文庫)という作品だ。この本には「悪疫(ペスト)流行に関するロンドン市長ならびに市参事会の布告 1665年」という当時の法令が出てくる。その一項目が「放蕩無頼の徒および有害無益な集会に関する法令」で、浮浪者や乞食(物もらいのこと)の取り締まりのほか、すべての芝居や歌舞音曲(歌と踊りと音楽)、そのほかの雑踏を招く催し物、宴会の禁止、飲食店での過度の飲酒の取り締まりと午後9時過ぎ以降の出入り禁止――といった具体例がある。「浮浪者や乞食」を除いては、コロナ禍に関しロックダウンを含めた世界の国々の対応策に通じるものだ。

「雑踏を招く催し物」といえば、東京五輪パラリンピックはその典型といえる。分科会の尾身茂会長は今月初めの国会で「今の状況で(五輪は)普通はない。このパンデミックという状況の中でやるということであれば、開催規模をできるだけ小さくして管理体制を強化するというのが、五輪主催者の義務だと思う」と発言し、注目を集めた。医学・医療関係者なら当然の発言だし、それが普通の常識だろう。逆に言えば、コロナ禍での開催はまともではないと言いたかったのではないか。

 だが、菅首相はこれに耳を傾けず、イギリスで開かれた先進7か国(G7)の会合で大会開催の賛同を得られたとして、大会開催と観客数を上限1万人とする「有観客」に固執していると報道されている。これに対し尾身会長ら分科会有志は18日、五輪に関する提言を発表。①会場内の感染リスク拡大が最も低いので無観客開催が望ましい②有観客なら現行の大規模イベント基準より厳しい基準にすべき③有観客の場合、観客は開催地の人に限る④感染が拡大し、医療が逼迫の予兆が出た場合は無観客に――などを求めた。もっと早い段階での「大会中止」の提言も考えられただろうが、政権側との駆け引きがあってこのような内容に落ち着いたのだろうか。

 五輪の観客をどうするかは、21日の5者協議(国際オリンピック委員会=IOC=のバッハ会長、国際パラリンピック委員会=IPC=のパーソンズ会長、大会組織委の橋本聖子会長、小池百合子都知事丸川珠代五輪相場メンバー)で決める方針だそうだ。もちろん中止の選択肢はないだろうし、分科会有志の提言がどこまで受け入れられるかは分からない。ただ、この提言を無視して大会を運営し感染拡大という事態になった場合、その責任は極めて重大だと断言できる。

 ここで改めて書くまでもなく、コロナ禍は21世紀の中でも特筆すべき災厄となるだろう。その対応は困難で試行錯誤が続くのは当然だとしても、政治は結果責任だ。多くの命を救うためには、専門家の意見に最大限に耳を傾けた施策が必要なことは言うまでもない。政治にそうした姿勢がないと、国民の犠牲は計り知れない。人が生き延びるためにどうすべきか、五輪はそのリトマス試験紙のような存在になりつつある。

 

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 1948 世界が疫癘に病みたり デフォーが伝えるペスト・パニック