小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

842 ニーハオ店主の個人史(4)完 仕事の鬼として

画像 生活もひどい時よりは少しよくなってきたので、16歳から知人の紹介で大工の見習いに行くことになりました。私の師匠は優れた才能を持っていました。

  仕事が終わった夜、いつも私の耳を引っ張って私を起こし、修理を手伝わせました。その時は「師匠は何という人なんだ。皆が寝ているのに、何でわたしだけを」と思いましたが、しばらくすると修理は自分だけでできるようになっていました。師匠のお陰で一人前の腕前になりましたが、いつも私は一番重いものを選んで担いでいました。仕事を早くするために多くの工夫もしました。

  1956年、私が22歳の時から連続して3年間、旅大市の優秀青年に選ばれました。そのため市や職場に呼ばれて講演し、新聞に出たりしたので有名になりました。そして、10人くらいの女性から交際を申し込まれましたが、彼女たちを相手にすることはありませんでした。

  生活は以前よりもよくなっていましたが、家族が多く、弟たちも大学に通っていたので、養父と私がいくら働いてもまだまだ貧乏だったからです。給料はすべて母に渡していて、自由に使えるお金が全然なく、彼女たちと遊ぶ余裕はなかったのです。

  その後、私は旅順から大連の木工場に転職しました。木工場で家具を作る職人でした。料理も得意で職場の若い人が結婚する時、家具作りから披露宴の料理まで頼まれました。そのため、毎週日曜日は休みなしですが、頼まれればいくら忙しくとも方法を考え、奉仕していました。他人に奉仕するのが私の楽しみでした。

  同時に私は職場のサッカー選手で、毎日仕事が終わると、練習をしていました。旅大市の代表として中国全国の試合にも参加しました。当時、私は国家2級運動員でした。そのころ、私はまだ若いので、将来のためにいろいろなことを勉強しなければならないと考え、工場長に建築の現場に行ってもっと技術を覚えたいと何回も申し入れました。それが実現し、現場に入って3年くらいで大工の組長になりました。組長になっても皆より早く職場に行き、遅くまで仕事をしたので、みんなは私のことを「夜鬼」(夜出てくる鬼、仕事の鬼)と呼びました。

  32歳から現場監督の仕事をまかされるようになり、難しい仕事や急ぎの仕事、新しい技術も任され、仕事が多くても文句を言わずに一生懸命働きました。当時の給料は46元でした。普通の現場監督は100元以上もらっていました。それから13年後、45歳になった私は家族とともに日本に帰ったのです。(終わり) 

 

 日本への帰国後、八木さんはニーハオ一号店である本館を開店するが、内装は中国で鍛えた腕を生かし、自分でやった。

  八木さんのその後については、別の媒体に発表した次の文章を参照してください。

 《逆境をバネに ある中国残留孤児の物語》

  値上げをしないがモットー知り合いに「値上げをしない」ことをモットーにした中華料理店経営者がいる。知り合ってからもう25年以上が経つ。彼はその信念を守って一度も値上げをしていないのだから、やるものだと思う。元中国残留孤児だった。ことしは戦後64年。城戸久枝さんが中国残留孤児だった父親の生きてきた道を書き、大宅ノンフィクション賞を受賞した「あの戦争から遠く離れて」がNHKでテレビドラマ化(遥かなる絆)され、反響を呼んだ。知人も城戸さんの父親同様、大変な思いで歳月を送ってきた。

  中国残留孤児は、第二次大戦(太平洋戦争)末期のソ連軍の侵攻による旧満州中国東北部)の混乱で、日本に帰国できずに中国に残留した日本人をいう。城戸さんの父親や中華料理店経営者のYさんのように、自力で日本の身内と連絡が取れ、帰国した人たちは残留孤児とは認定されず、政府が設立した中国残留孤児援護基金が行う事業の援護対象から外された。政府の援助はなくとも、Yさんは持ち前の頑張りでここまでやってきた。

  Yさんは1934年に中国の旅順(現在は大連市)で生まれた。父親は2つのレストランを経営する日本人、母親は中国人だ。家族は終戦時の混乱で父親とはぐれ、Yさんは12歳から土木作業や大工の仕事をして家計を支えた。東京に帰国していた父親と連絡が取れ、帰国できたのは1979年のことで、45歳になっていた。

  日本語が話せなかったYさんは都営住宅に住み、生活保護を頼りに日々を送っていた。そのころ、中国からの帰国者の子どもたちのための学級を併設した東京都江戸川区の公立の小学校に入った長男が川でおぼれ、亡くなるという悲劇が起きた。葬式などで世話を焼いてくれた学校の教師たちに餃子をつくり食べてもらった。Yさんは料理が得意で、中国時代、冠婚葬祭の集まりには腕を振るっていたという。

  この餃子の味が評判になり、教師やボランティアが「Yさんの餃子の店を作ろう」と立ち上がり、一口1万円のカンパを募った。結局370万の開店資金が集まり、東京・蒲田に小さな餃子店「你好」(ニーハオ)が誕生したのは1983年12月のことだった。中国で大工の仕事をしていたYさんは、ほとんど一人で店の内装工事をした。それに立ち会った私は、これならうまく行くと確信した。

  店は水餃子や羽根つき餃子といわれる焼き餃子、小籠包子が名物となり、税務署から税務調査が入るほど行列ができる店になった。年中無休で働いたYさんは、数年後カンパしてくれた人たちに全額を返済、お礼の会を開いた。中国で大工の仕事をしていた時代、Yさんは「夜鬼」(仕事の鬼)と呼ばれていたという。その夜鬼ぶりを餃子店でも発揮したのだ。

  もちろん経営の才覚もあったのだろう。「安くておいしいものを提供する」ことを自分に課したYさんは、料金を値上げしないことを守った。誠実な人柄が卸業者にも伝わり、市場で残った野菜を安く提供を受け、肉も安く卸してもらう関係ができたことが力になった。

  いま、Yさんは6つの中華料理店のオーナーだ。だが、白い帽子をかぶり、割烹着姿で店に出る。これまで病気で寝込んだ以外、休んだことはない。働くことが好きなのだ。

  大宅賞をもらった城戸さんの作品には、彼女が中国に留学したとき、父親から手紙が届き「車到山前必有路」(行き詰まっても、必ず打開の道はある)という言葉が書いてあったと記されている。Yさんの人生もこの言葉通りだった。帰国して前途に希望を見出せない当時から彼を支えた教師たちとの付き合いが、新しい道を開いてくれたのだ。その付き合いは、Yさんの子どもたちが大人になったいまも続いている。

 

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