小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1514 中国の旅(1) 内モンゴル・薩拉斉にて

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 82歳になる知人がいる。八木功さんだ。生まれてから45年間を中国で暮らし、その後日本に移り、いまも蒲田の中華料理店「ニイハオ」を経営しながら現役の料理人として働き続けている。9月下旬、中国でこの人がどんなところに住み、どんな生活をしていたのかを見たり、聞いたりするため一緒に中国を旅し、日本人の姿を見たことがないという内モンゴルの町にも足を踏み入れた。この旅の模様を何回かに分け、報告する。

「薩拉斉」という町がある。「さらち」と読む。内モンゴルの比較的大きな都市である、包頭(パオトウ)と呼和浩特(フフホト)間の包頭寄りにある新興都市だ。新興都市と書くと、新しい町のイメージがあるが、実は中国共産党による新中国誕生前は人口7000人程度の農村であり、農家は禁断のアヘンを栽培していた。 八木さんの父親は戦前、遼東半島の旅順からこの町にやってきて、料理店を営んだ。だが、日本の敗色が濃くなった1945年6月、母親と八木さん兄弟4人は父親と別れ、旅順に戻り、父親と再会できたのは32年後のことだった。

 八木さん兄弟は、一歩間違えば中国残留孤児になっていただろうが、父親の判断で孤児にならずに済んだ。 八木さんがこの町に住んだのは3年間だった。当時、この町は周囲6キロの城壁に囲まれ、城内には駐蒙軍(日本の後ろ盾で成立した当時の蒙古聯合自治政府の政務指導や内モンゴル地域の警備が目的)の独立守備隊が置かれ、軍人以外に70数人の日本人が住んでいたという。

 八木さんの家族もこの中に含まれ、馬に乗って野山を駆け回り、頭のいい犬と遊び回り、冬にはスケートをした記憶があるという。 それから71年の歳月が過ぎている。城壁は道路となり、新しい町に変わっていた。石炭の町といわれ、高層住宅が立ち並び、道路も真っ直ぐに伸びている。八木さん兄弟が遊んだ城郭もない。しかし、町の中央付近に真新しい公園があり、そこに城郭が見つかった。

 公園はかつての城の北門「磐安門」をとって「磐安門広場」と名付けられていた。 新市街には「勅勒川博物館」という名の、2011年10月にオープンした巨大な博物館があった。かつてモンゴル草原に住んでいた民族の名前とその人たちが暮らしていた草原の意味がある博物館には、この地方で出土した土器などをはじめとする文化財、これまでの歴史を示す数多い資料が展示されていた。

 中国共産党軍(解放軍)によって、解放された当時の薩拉斉城のモノクロの写真が展示されているのを見つけた八木さんは「これが私がよく遊んだ薩拉斉の城です」と、叫んだ。 内モンゴルは戦争末期、ソ連との戦闘に備えて配置されていた駐蒙軍が南方や他の中国戦線に次々に引き抜かれて、兵力が次第に少なくなる中、ソ連の旧満州への侵攻後もソ連軍と戦い、約4万人の在留邦人が北京、天津へ避難することができた地域である。八木さんの父親も、戦後早く日本へ帰国できた。

 だが、父と家族はその後、音信が途絶え、日本と中国でそれぞれの生活を送った。薩拉斉の城は知人にとって思い出のものだが、それは再現されたやや小さな城だった。 (続く。次回はモンゴルの人々が大事にする青い布、ハダクの話)

 写真 1、再現された薩拉斉城 2、巨大な博物館 3、薩拉斉の住宅街 4、交通量もあまりない 5、ナンバーは蒙ナンバー

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 若い時分にお世話になった大先輩の田中弘一さんの訃報が届いた。享年84歳。ご冥福をお祈りします。