小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1602 最善説への痛烈な皮肉 小説『カンディート』の世界

 

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 今年も残すところ、きょうを入れて30日になった。少し早いが、2017年を回顧すると、内外とも芳しくない年だったといえよう。この世は到底、哲学の「最善説」を信じることができない時代であることを思い知らされた1年だった。そんな思いに浸っているとき、たまたまフランスの思想家・作家ヴォルテール(本名、フランソワ=マリー・アルエ。1694-1778)の最善説をテーマにした小説『カンディート』(光文社古典新訳文庫)を読み、あらためて世界の在り方を考えさせられた。  

 最善説の原語はオプティミスムで、楽天主義、楽観主義とも訳されるという。ドイツの哲学者ライプニッツは、この世界は神が創造したものであり、必然的に最善の世界であるはずだ、とする考えを提唱し、18世紀前半ヨーロッパを中心に大きな影響を与えた。ヴォルテールもこの考え方に惹かれた時期もあったといわれるが、小説はこれを風刺した視点で書かれており、最善説から離れて人の世について考察を試みたのだろう。  

 小説はドイツからスタート、ヨーロッパ、南米各地が舞台となり、主人公のカンディートが困難を乗り越えて愛する女性と再会を果たす冒険と恋の物語である。荒唐無稽なストーリーでもあるが、それが哲学の「最善説」という難しいテーマの小説が、幅広い層に読まれる要因なのかもしれない。  

 労苦の末にカンディートは、最愛の女性と再会し結婚、旅の途中古代インカ族からもらったダイヤモンドを持ち帰ったから、幸福な生活が待っているはずだった。だが、結末は違う。恋人は過去の美しさを失い、財産も度々盗みに遭い残されたのは小さな農園だけになった。この世は、実は最善な世ではなかったのだ。だが、そんな小さな農園でもカンディートとその仲間たちは自分の才能を生かす道を見つける。カンディートの最後のセリフが象徴的だ。「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」  

 この小説には、歴史的にもよく知られているポルトガルの首都、リスボンで発生した大地震(1755年11月1日、マグニチュード8・7、死者不明者1万人―10万人)の現地の姿も描かれている。さらに、『カンディート』とは別に、ヴォルテールの『リスボン地震に寄せる詩』(1756年)もこの本には載っている。悲惨な大地震を通じて最善説に対する痛烈な批判がこの詩からは伝わってくる。(東日本大震災を「天罰」と言った政治家がいたことを思い出しながら、詩を読んだ)以下はその一部。

「『すべては善である』と唱える歪んだ哲学者よ 来い、すさまじい破壊のようすをよーく見るがいい その残骸、その瓦礫、その灰を見よ 地面には、女たち、子どもたちの死体が重なる 砕けた大理石のしたに、人の手足が散らばる……」

「死にゆく者の言葉にならない叫びを聞いて あるいは、焼けた体からのぼる煙を見て 哲学者は『こうなるのが永遠の法則だ』とか『法則は善なる神をも縛る』などと答えるのか 哲学者は、山をなす犠牲者を見て『天罰だ、自分が犯した罪の報いだ』と答えるのか……」  

 詩をめぐって、思想家ルソーとの間で論争があったことが、この本の解説で紹介されている。災害が人間の側に由来することもあるとするルソーの主張もまた意味があり、「この詩以降、災害が『神』の領分を離れて『人間』の領分に入ってゆくことになる」(渡名喜庸哲慶応大学講師)という説明が光っている。東電福島第一原発の事故は、まさしく人間が招いたものだった。

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写真 1、メタセコイアの見事な紅葉 2、けやきもまけじと色づいた