小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1661 坂の街首里にて(10)完 沖縄の心・芭蕉布

 

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 沖縄を歌った曲で「芭蕉布」(吉川安一作詞、普久原恒男作曲)は、詩の美しさ、曲のさわやかさで知られている。私も好きな歌の一つである。自宅に帰った後、首里の坂道、階段、石畳を思い出しながら、この曲をあらためて聞いた。夜、BS放送にチャンネルを合わすと、偶然だろうが、芭蕉布の織り方の特集をやっていた。  

 芭蕉布は、糸芭蕉という沖縄に多い植物の繊維で織った沖縄・奄美特産の布地である。茶褐色をしていて張りがあるため、さらっとしているのが特徴だ。夏の着物、座布団、蚊帳、ネクタイなどに使われる。これで作ったかりゆしウェアは高級品だという。芭蕉布の歌は1965年に発表され、海と空の青さに象徴される自然の豊かさや特産の芭蕉布の歴史を織り込み、沖縄の人々の心象風景を描いた名曲だ。かつて琉球王朝時代、庶民はこの繊維を紡ぎ、はたを織って王朝に上納したことが歌詞にもある。さわやかさの半面、このような庶民の苦難の歴史も込められた哀調を帯びた歌なのだ。  

 首里周辺でも、かつて糸芭蕉は珍しいものではなかったようだ。実際に滞在先の近所の庭先でバナナの木に似ている糸芭蕉を見かけたが、沖縄全体でこの植物を栽培しているところは激減しているという。戦後沖縄を占領した米軍が、マラリア蚊の発生源になるという理由で糸芭蕉畑を伐採、焼き払ったことが背景にあるといわれる。沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉の芭蕉布は国の重要無形文化財に指定されている。ここの糸芭蕉畑も米軍によって焼き払われたが、地元の人たちの努力で少しずつ復活した。芭蕉畑と蚊の発生について因果関係は不明だが、芭蕉布の激減は沖縄の人々だけでなく、特産物も戦争の影響をもろに受けたことを示している。  

 首里の街でこんな光景を見た。ある日、滞在先を出て階段を上がってバスが通る道に出た。すると、そこには老女がいて、笑顔で行き交う車に手を振っている。なぜ、この人が手を振っているのだろうかと思ったが、私も手を振って首里城への道を歩き続けた。さらに、別の日、小学生たちの通学路を散歩していると、曲がり角に私より年長と思われる紳士が立っていて、「おはようございます」と声を掛けてきた。  

 この人は毎日、登校する子どもたちを見守っているのだろう。子どもたちが通ると、同じように「おはようございます」と丁寧に「ございます」をつけて挨拶し、さらに「行ってらっしゃい」と続ける。長身で背筋をピンと張っている。障害を持つ子が来ると「……ちゃん」と名前を呼び、「今日も元気だね」と言葉を掛けている。2人から伝わるのは「優しさ」だった。「芭蕉布」の歌詞にもあるように、沖縄の人々は苦難の歴史を歩んだ。だが、人に優しいという伝統は、今も生き続けているのだろう。沖縄に赴任したことがある元同僚たちは、みんながみんな沖縄を好きになった。なぜなのだろうかと、長い間疑問に思っていた。その疑問が首里に滞在して解消した。(完)

(1回目に戻る)

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写真 1、ライトアップされた首里城 2、モノレールから見た首里城 3、坂道で見かけた少女 4、首里・達磨寺内にある稲荷神社・朱の鳥居 5、満開の鉄砲百合の花