1898 住みにくい世こそ芸術を 沖縄戦終結から75年の日に
世界のコロナ禍は収まらず、1000万人感染(日本時間23日午前9時現在、感染者905万7555人、死者47万665人=米ジョンズ・ホプキンス大集計)という恐ろしい現実が近づいている。日本は梅雨、そして劣化という言葉を通り越したひどい政治状況の中で鬱陶しい日々が続いている。本当に「住みにくき世」になっている。そんな時、夏目漱石が『草枕』の冒頭部分で書いた芸術の効用を思い出した。そうだ、私たちの周りには本があり、絵があり、音楽があるではないか……と。
明治の世も文豪から見て、住みにくい世だったのだろう。そこで文豪は、芸術に目を向けることを提示したのだ。(以下、『草枕』から。私見では、現代の日本は「人でなしの国」に近い)
「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」 「越すことがならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い」 「住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である」
漱石が『草枕』を発表したのは1906(明治39)年9月のことである。この前年の9月には多大な犠牲を出した日露戦争が終わり、ポーツマス条約が締結されている。しかしこの条約に反対する民衆の暴動が起きるなど、漱石が書くようにこの時代も「住みにくい世」だったに違いない。
『草枕』を読むのを中断して小雨の中、傘をさして散歩をした。そのコースに1本の大きな合歓の木があり、ちょうど紅色の花が咲き始めていた。帰宅して加藤千世子(俳人の加藤楸邨夫人)の音楽に材を採った句を読み直した。中でも「花合歓の山にてひらくオルゴール」は、合歓の季節の長閑な雰囲気を表していると思った。合歓の木は小葉が夜になると閉じて眠るような格好になるためこうした名前がつき、「合歓」の漢字が使われたという。
比叡山は合歓木が多いと、杉本秀太郎が『花ごよみ』(講談社学術文庫)で書いている。松尾芭蕉が奥の細道紀行で「象潟や雨に西施(中国春秋時代の傾国の美女のこと)が合歓の花」という一句を残した秋田の象潟(現在、秋田県にかほ市象潟町)も、当時はこの花が多かったというが、現在はどうなのだろう。
桃色の絹糸を束ねて切りそろえたような可憐な花(作家の壷井栄)を見ていたら、沖縄で見かけた「サガリバナ」の花を思い出した。マメ科の落葉高木(合歓の木)とサガリバナ科の常緑高木(サガリバナ)の違いがあるのだが、花の時期(今ごろの季節)と繊細さに共通点があり、花を見ていると心が落ち着くのだ。サガリバナといえば、太平洋戦争の沖縄戦が終わったのは75年前のきょうのことだった。戦火に逃げ惑う沖縄の人々は、当然ながらこの花を愛でることはできなかった。
加藤は「初蝶のゆらゆらバッハ・シベリウス」「樹々の若葉の光り揺れだすメヌエット」「リラ薫る黒人霊歌かなしき時」という句も残した。初蝶の句は、バッハとシベリウスのどの曲を頭に描いたのだろうか。句から受けるイメージは人それぞれでいいはずだから、バッハが「ブランデンブルク協奏曲第5番」で、シベリウスは「ヴァイオリン協奏曲」が似合うと、私は思う。
写真1、2調整池の散歩道に咲いた合歓の花3、那覇市首里のサガリバナ
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