小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1954 コロナに負けない言葉の力 志賀直哉と詩誌『薇』と

IMG_1970.jpg

 コロナ禍の日々。時間はたっぷりある。考える時間があり余っているはずだ。だが、世の中の動きに戸惑い、気分が晴れない日が続いている。そんな時、手に取った志賀直哉の『暗夜行路』の一節に、そうかと思わせる言葉があった。その言葉は、私たち後世に生きる者への警告なのだろうか。

 小説の後編にある言葉だ。

「人間が鳥のように飛び、魚のように水中を行くという事ははたして自然の意志であろうか。こういう無制限な人間の欲望がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか。人知におもいあがっている人間はいつかそのためむごい罰をこうむる事があるのではなかろうか」  

 人間の欲望は果てしがない。だから飛行機や船を、さらにコンピューター、AIを作り、便利さを追求し続ける。自然の意志など関係がない。そして、不幸に導く戦いは果てしがない。近代は第1次、第2次の世界大戦が起きた。そして21世紀。戦いに明け暮れた人類は、新しいウイルスの出現に無防備だった。そのために世界的危機を迎えた。  日本。4月16日から5月25日まで「緊急事態宣言」があり、不要不急の外出自粛が呼びかけられ、多くの人々の姿が街中から消えた。

 そのころの実態を詩誌『薇』の同人、北岡淳子さんは第23号(12月1日発行)の「コロナの日々から」というエッセイで以下(前半は割愛)のように書いている。

《緊急事態宣言下で、航空機が飛ばなくなってまもなく、大気が澄みはじめ、空の碧さも清(さや)かに増した、と実感したときの感慨は大きかった。人のいない通りの広さと造形の美しさ、静けさに遥かな未来の不確定なままのある日を連想した。(中略)見えないウイルスが世界を牛耳る、おそれつつも見事だとさえ思ったものだ。しかし、日々更新される感染状況に、自らのすべき防御手段を実践しながら、私たちはこのウイルスから貪欲に学び取り、それぞれの立場で越えていかねば、と思うのだ。》

 私も、散歩の度に空を見上げる。だが北岡さんのように、「空の碧さ、清か」が増したとは感じなかった。鈍感なのだ。でも最近は、志賀直哉と北岡さんの文章を読んで、さらに散歩途中に空を見上げ「今の生活(外出は散歩のほかプールでの泳ぎ、買い物は本屋くらい)も悪くないな」と、居直りの気分に浸っている。

『薇』23号の編集後記で、秋山公哉さんは「詩の言葉もコロナの前と後で変わるだろうか。変わる言葉、変わらない言葉、どちらにとってもコロナを意識しない訳には行かないだろう。東日本大震災の後でも同じことを言った。はっきりとした形になるかならないかはあるが、文学はその時の状況に影響を受けない訳にはいかない。今回はコロナに負けない言葉の力が試されているとも言えるだろう」と、詩人としてコロナ禍の時代に生きる思いを記した。

 それは、私たちの生き方に対する問いかけであるように思えてならない。  

 関連ブログ↓  

 1732 過去・現在・未来 詩誌『薇』から  1887 蘇るか普通の日常 絵と詩に託す希望の光  555 詩人が考える言葉とは 詩集「薇」から