小径を行く

時代の移ろいを見つめた事柄をエッセイ風に書き続けております。現代社会について考えるきっかけになれば幸いです。筆者・石井克則(ブログ名・遊歩)

1973 「高貴」という言葉は似合わない クローデルの評価はどこへ

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 先日のブログでフランスの外交官で詩人・劇作家ポール・クローデル(1868~1955)の『断章』という詩を紹介した。クローデルは、駐日フランス大使を務めたこともあって、大変な親日家だった。第2次大戦で日本の敗色が濃くなってきたころ、ある夜会で「私がどうしても滅びてほしくない1つの民族がある。それは日本人だ。彼らは貧しい。しかし、高貴だ」と語ったという。しかし時代を経て、今の日本人にこの「高貴」という言葉は似合わないと、私は思う。

 クローデルの姉は『考える人』で知られる彫刻家オーギュスト・ロダン(1840~1917)の弟子、カミーユ・クローデル(1864~1943)だ。彼は姉の影響で子どものころから日本に憧れ、日本に行く近道として外交官になる道を選んだ。1921年から1927年まで駐日フランス大使を務め、その後駐米大使になった。  

 日本滞在中、死者・不明者10万5000人以上という大きな被害を出した関東大震災(1923年9月1日)に遭遇した。クローデルは仮設の病院と託児所で被災者の救援に当たり、配給を受ける被災者が整然と行列を作る姿に感動したことを手記に残した。「被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間、不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしない。同じ小舟に乗り合わせたように、人々はじっと静かにしているようだった」

  こうした被災者の姿だけでなく、日本滞在で見聞した日本人の行動から、上述のような日本人を労わる発言が出たのだろう。10年前の東日本大震災でも、冷静な被災者たちの姿が外国メディアに驚きをもって報道されたことは記憶に新しい。

「高貴」のイメージは「気高く、気品がある」あるいは「世俗を超越した高い志を持つ」ということなのだろうが、現在このような評価は過去のものになってしまったのではないかと、私は思うのだ。  

 クローデルの言葉は買い被り(人を実質以上に高く評価すること)だったと言わざるを得ない。本当にいやな世相になっているからだ。それはこのところ新聞、テレビをにぎわしている政治家たちの行動を見れば明らかだ。ここで詳しく書くのは馬鹿らしいのでやめるが、特権にあぐらをかいた彼らの姿は浅ましく、高貴とは程遠い。

「あの人たちは政治屋だね。自分たちは偉いと勘違いし、やりたい放題だ。でも、お天道様は見ているよ」とは、ラジオ体操仲間Gさん。普段は物静かな人がこんなことを言うことに私は驚き、同調した。「でもね、あんな人たちを選んだ側にも責任はあるよ。ゴーツー何とかにうつつを抜かし、コロナを全国にばらまいたのも私たち国民だからねえ……」。Gさんの怒りはやみそうにない。  

 クローデルの詩を紹介したブログ↓

 1971 ラッセルの警告が現実に 人類に未来はあるか